「日常」
瑛明の言葉に、王はにっこり笑ってから前を向き、歩き出した。
そのまま、すうっと道行く人の中に入り込み、東西に走る大路に出る。進むにつれ人が増え、様々な声や匂いが迫ってくる。すれ違う人は年格好も様々だったが、みんなが笑顔で、楽しそうに見えた。
興味津々で辺りを見回すが、いかんせん腹が減った。さて、どんな大店に連れていかれるんだろう……思っていたら、
「あ、あのお店」
そう示されたのは、木の棒を柱に、板と布を壁と屋根替わりにする簡素な建物が厨房、
客席はこれまた粗末な机と椅子が道端に野ざらし。どう贔屓目に見ても、官吏さえ出入りしないだろうと思われる『素朴』な店だった。人気はあるのか、通りを占拠している相当数の席はほぼ埋まっているが。
「こ、ここですか……?」思わず口にしてしまったとたん、くるっと振り返られ、ぎろっと睨まれる。しかし一転、にっこりと笑いかけられ、「大兄は何が食べたい?」
「え?」
「分かった、じゃあ注文は私に任せて」
「任せる?」
口にしながら瑛明が厨房に目を投げると、中では目にも止まらぬ速さで材料が切られ、鍋に放り込まれ、器にもりつけられ、傍らの大きな机にダンダンっと料理が並べられ、それを客が自分で運んで行っている。机の端では恰幅のいい店の女が、目の前に並ぶ人々と順に言葉を交わし、銭をやりとりし、大声で注文を通していた。
陛下に注文させて料理を運ばせるって!?
「そんなことさせられませ――いってえ!」思いっきり、足のかかとで甲を踏みつけられた。
目の前に立つ足の主がじろっと睨み上げてきて、「設定!」小声だが声に凄みがある。
瑛明は慌てて、
「いやだから、妹にそんなことさせられないって」
どうにか設定を踏まえながらそう言い返したら、
「おうおう兄ちゃん過保護だなあ」
「並んでる列を見てみろ、大事な妹よりずっと小さい子も並んでるぜ」
大声を上げたのは、すぐそばにある野ざらしの机に座る、大男二人である。すっかり出来上がっているようで、顔が真っ赤だ。
「ほら見なさい。お盆もあるから大丈夫、大兄はあの席で座って待っていて」
指されたのは 厨房寄りの一番端の席だ。かろうじて二人席が空いている。
「わ、かった……」
瑛明は渋々頷き、その席を目指した。何度も振り返って、淡い黄色の姿を確認しながら。
たどり着いた席は当然ながらざらついていて、白茶けた椅子も席も使い込まれて歪んでおり、どちらもガタガタしている。
せめてとばかり、より安定している椅子を空けて、袖で座面を払っておく。そうしてから座り、少しばかり前方にある注文待ちの列に目を投げた。
いつの間にいたのだろう。王の傍らに、同じ年の頃の女が二人立っている。どうやら知り合いらしい。何事かを言い合い――揃って三人でけらけらと笑い出した。
どう見ても女子。
やっぱり格好に影響されるところってあるよな。いつもより声が高いし――まあ、まだ声変わりされてないせいもあるだろうけど。
「人のことは言えないんだけどさ……」
ボソッと呟く。だからこそ、こうやっていられるんだけど。だけどもし――。
三人はまだ楽しげに話している。そんなさまを見て、大いに複雑ではあるけれど、だけどどこか安心する。よかった、楽しそうでいらして。
ふと周りに目をやった。それぞれの机に様々な料理が並び、みなが談笑しながらそれを平らげている。
「見てみて、これ、自分でやってみたの」
「かわいい刺繍! 私も真似しちゃおう」
「それいいね、どこで買ったの」
「門前の鈴黎堂だよ。あそこ、行くたびに新作が出てるからいいんだよなあ」
「しっかし年々税金が上がっていくよな」
「まあこれだけあちこちで色々作ってるんだ、しょーがねえ」
外界と一緒だな――聞こえてくる様々なやりとりに、瑛明は思わず笑ってしまった。
でもみんな、すごく生き生きしている。楽しんで暮らしている。
『黄髪垂髫、並びに怡然として自ら楽しむ(老人も子供もみんな心から楽しんでいる)』
誰もが楽しんで生きられる世界――『桃花源記』は、理想だった。
だけど――退屈じゃないんだろうかと思ったのも事実だ。
秦の戦乱を逃れたまま、何百年も変わらず耕作をして日を過ごすなんて。
むしろ今の姿こそが、俺には理想郷に思える。みんながお洒落をしたり、色々なものを買ったり食べたり、それぞれが好きなようにして、楽し気にしているこの風景こそが。
だけど――陶淵明はこの風景を見たら、どう思うんだろう――瑛明はふと、そんなことを思った。




