「母の姿」
王は階段途中で立ち止まったまま、長櫃の底から顔だけを出した格好で、手を伸ばしてきた。
「やはり凛々しいな。さあ行こう」
そう言葉を紡ぐ綺麗に上がる両の口角は艶やかな紅色で、同じ色が美しい額に四点、花びらをかたどって置かれている。肌はいつも以上に白い。
「どうした? 似合わないか?」
そうくるんじゃないかと思ってたけど……。
「いえ、余りにお美しくて……」茫然と、瑛明は呟いていた。
王は驚いたように目を見開いたが、すぐさま顔を逸らし、
「馬鹿なことを。まさかとは思うが、男装のときはそうやって女を口説いていたのか?」
「まさか!」
「そうか? 大層な台詞をさらりと言うものだから、慣れているのかと。――まあいい」
そう言うと、さっと身を翻し、王は再び地下に下りていく。数歩下がったところで、
「瑛明、何をしている」僅かに苛立った声。
「すぐに」言いながら瑛明は、長櫃の縁に両手をかけ、中に入った。
地下に続く階段の先、ぼんやり浮かぶ光がある。頭上、室内からの光が数段先の足元を朧に照らしていた。その光を頼りに、後ろ手で段に触れながら、一人がやっと通れるだけの木の階段を、瑛明は滑るようにそろそろと下りた。
数段下ったところで、「お気をつけて」璃音の声とともに、頭上からの光は途絶える。
入れ替わるように、目指していた光がすいっと下がって、足元を照らしてくれた。階段の終わりは、踏み固められた土の地面だった。
「じゃあ行こう、足元に気をつけて」
「どちらへ?」
身を翻し、前へと足を踏み出しかけた王が、瑛明の言葉でその歩を止め、振り返った。
「そういえば言ってなかったな。城市に出る。市に行こう」
瑛明は絶句した。
王が、市に行く!? しかもこのご様子からして――きっと初めてじゃない。
「嫌か?」
「嫌ではないです。ですが供の者も連れずに人混みに入るなど――御身に何かあっては」
「だからこうやって変装しているんだろう? 下手に供の者をぞろぞろ連れている方が、正体を触れ回って歩くようで却って危ない」
一理あるけれど、でも……。
「どうやって地上へ? 出入りする姿を見咎められては大事になります」
「ああ、それなら大丈夫。ここの出口は王宮外には三つしかない。そのどれにも一般の者はまず近づけない。一つは王宮の北門外、一つは城市の中央、市の近くにある王宮管轄の竹林内、そしてもう一つは――南の城外だ」
――嗚呼。そういうことだったのか……。
瑛明は、闇に沈む路の先に目を投げた。
母さんは、この路を通って桃源郷を出たのか。まだ生まれたばかりの俺を抱いて――。
「足場はよくない。気をつけて」前に立つ王は、そう言って足元を照らしてくれる。僅かに先を行く足元は確かに裙子。燈籠の朧な明かりに浮かび上がる色は、多分暖色系。色白でいらっしゃるから、きっとお似合いだろうな――早く見たい。
『余りにお美しくて』 そんなことを口走った自分に驚いた。
――でも、陛下の父王はあの母さんの双子の兄なんだ。だったら――そう思ってしまっても仕方ない。
居所を定められないような、綱渡りな日々だったことはもちろんある。いつも不安定でとにかくその日を生きるのに必死で、周りに目を向ける余裕なんて、全然なかった。
だけど――今さらながら思う。あの母さん(しかも全然老けない)がずっと身近にいたせいだって。
周りがどんなに「あの娘いいよな」と盛り上がっても「そうか?」と一人冷めてしまっていたのは。
「わっ!」思わず声が出た。
いきなり飛び込んできた眩しいばかりの明るさに、とっさに瞑ってしまった目を恐る恐る開けてみると、鼻先に燈籠が突き出されていた。いつの間にか王は立ち止まっていて、こちらを振り返っている。
「何を考えてる?」責めるような口調と、それを体現するかのように睨み上げてくる大きな目。
まさか読まれてる!? 俺の邪な考えが!
何か言わねばと思いつつ何の言葉も出てこなくて慌てる瑛明の目の前で、王はくるっと背を向け、
「ぼんやり歩いていると転ぶぞ」
そう言って、再び歩き出した。




