「美しい諍い」
そして。
瑛明は住み慣れた崔家の離れを出て、王宮へと向かう。
あくまでも身内の家に逗留する――という誰も信じていない体裁を保つため、控えめな衣服と同じく、仰々しい行列のお出迎えもない。
身の回りの最低限はすでに運び入れが済んでいたため、初めて王宮に上がったときと同様、中相の先導で、粗末な馬車で依軒とただ二人、城内を抜けて王宮に通じる赤門をくぐった。
内城、桃華宮に入ったところで、依軒はこれからの瑛明の居所となる奥の部屋へと連れていかれることになり、別れた。
瑛明と中相はというと、王の侍臣に導かれ、桃華宮の中央にある謁見の間へと案内された。
初めて王と対面した場所である。
「やあ瑛明。二月ぶりだな。元気そうで何よりだ」
あのときと同じように王はにこやかに王座に座っていた。
両隣に侍る衛兵も、玉座の真後ろに控える璃律も、相変わらずだ。今にも殺しにかかりそうな目でこちらを睨んでいる。
やはり俺が気に食わないんだな。まあ桃華宮に入れば会わなくなるだろうから、いいけど。
だが、あの日にはなかった顔が二つある。
王座の数段下、王座から続く赤い絨毯の上で瑛明と中相が膝を折る傍らに彼らは立っていた。
白髪を一筋の乱れもなく冠に収め、厳めしい顔で立つ恰幅のいい老人。
そして頬と同じ桃色の深衣に紅色の帯と襟が白い肌によく映える、小柄な少女。
やや下がり気味の大きな目に、ふっくらとした艶やかな唇。類まれなる美少女――というわけではないが、身にまとう雰囲気も含め、とても可憐だった――言うまでもなく、左相親娘である。
無沙汰への侘びと、これから瑛明がやっかいになる礼といった形式ばったやりとりを王と中相が交わす間も、中相の背後で平伏している瑛明の頭上に、重苦しいものがおりてくる。
重い、重すぎる……思わず床に這いつくばってしまいそうだ。
正面からは殺意、傍らからは悪意――一体どんな伏魔殿なんだよ、ここは。
「瑛明、顔を上げよ」
「はいっ!」
突然声をかけられ、思わず勢いよく顔を上げただけでなく、威勢のいい声を返してしまった。
しまった! しとやかにしていようと思ったのに……そんな心を見透かすように、口元を押さえて笑いをこらえる様子を見せる傍らの二人が目の端に映り、いっそう心が苦くなる。
対して正面の璃律はにこりともしない。諸々飲み下すように、瑛明は再び平伏した。
だが。
「そうかしこまらずとも、もっと気を楽に。ここでは私に膝を折る必要はない。ここは我が一族の居所であり、我々は今日からここでともに住まう家族なのだから」
声とともに王が玉座から立ち上がった音がした。革の高靴を鳴らしながらこちらに近づいてくる。伏した目の先で、靴音が止まった。
「さあ」
声とともに差し伸べられた白く綺麗な手。
顔を上げると、柔らかい笑顔が自分を見下ろしている。
衒いなくまっすぐに向けられる視線。凛とした立ち姿。その清しさに圧倒されたかのように、「あ、ありがとうございます」瑛明は口ごもりながらその手をとって立ち上がった。
そのとき。
「恐れ多くも一度も遠慮せず陛下の手を取るなんて、嗜みというものをご存知ないのかしら。ああ、だから碌な知識も礼節もない身で参内しようだなんて、恥知らずな振る舞いをなさるのね。図太い神経が羨ましいこと」
刺々しい内容に不釣り合いなかわいらしい声。瑛明はゆっくりと、声の主に目を向けた。
目線の先に立つ少女は、侮蔑を顕わにした冷やかな目で、こちらを見据えている。
「……」
首だけを巡らして無言で見つめ返すと、少女は「何よ」といっそう目に力を込め、隣の父親はと言えば「これ芳倫」とたしなめてはいるが、本気で娘を咎めるつもりはないばかりか、「仕方がないであろう。何度も王朝が変わる野蛮な外界で育ってきたのだから。おまえが色々教えてやればいいことだ」とぬかしやがった。
それで声を潜めているつもりか? 完璧に貼り付けていたはずの笑顔がひきつってきた。
瑛明は勢いよく左相親子に身体ごと向き直ると、つかつかと歩み寄った。
「ひょっとして、左相家は食にお困りでいらっしゃいますか? よろしければ我が家からご都合いたしますが」
「何ですって!」
芳倫が色めき立つ。対して瑛明は、これ以上ないという典雅な微笑を返し、
「御前でのかようなふるまい、まさか天下の左相家の常ではございますまい。『管子』に「倉廩足りて礼を知る」とありますゆえ、お腹がすいて気が尖っていらっしゃるのかと」
「このっ……無礼者!」
大きく踏み込んできた小柄な身体から上がった手が空を切る。だが次の瞬間、瑛明がその手首をがっちりとつかんでいた。
「どちらが、でしょう?」
なんて分かりやすい。しかも遅い。心底呆れる。
しかしその手首は驚くほど細く、力を込めたら容易に折れそうだ。箸より重いものを持ったことがないのかもしれない。そんな身で(知らないとはいえ)男の俺に挑んで来るなんて――にわかに憐れみだかおかしさだかよく分からない感情が湧き上がってきて、高ぶっていた気持ちが和いでいく。
対して芳倫の全身が、目に見えて震え出す。怒りすぎて卒倒するのでは……と心配になったそのとき、「手を放さぬか!」
あ、そうだった。左相の鋭い声に、瑛明がぱっと指の力を緩めると、芳倫は思いっきり腕を引き、勢い余ってよろめく。
「危ない!」思わず手を伸ばして踏み込みかけた瑛明の足が、「娘に近づくな、この野人が!」の罵声で宙に浮いた。や、野人って……。
目の前に、すっと影が入り込む。
「失礼いたしました、こちらの教育が行き届かず」
冷静な声の主は中相のものだった。
「おっしゃるとおり、野蛮な外界で育った身でございますゆえ、どうぞご容赦を。――瑛明、控えよ。無礼であるぞ」
そう言って肩越し振り返った中相の口元は、はっきりと笑っていた。「よくやった」と言わんばかりに満足げに。
思わず緩みそうになる口元を、瑛明は慌てて引き締めた。
「言葉が過ぎました。申し訳ございません」
素直に謝罪の言葉を口にして、瑛明は膝を折った。
一呼吸置いて顔を上げ、芳倫ににっこりと笑いかけると、
「不調法者ですので色々お教えくださいませね、芳倫さま」
ピキッと芳倫の眉間に縦じまが走った。
直後、彼女が息を吸い込み何かを言わんと口を開きかけたのを見たそのとき、背後から突如、軽やかな笑い声があがる。
「時にこういう諍いも、家族らしくてよいな。――芳倫、名門左相家の令嬢として、瑛明に手本を示して欲しい。頼んだぞ。本日から居を共にする者同士、仲良くやっていこう」
王の言葉に、芳倫はぐっと唇を噛みしめ、だが流れるように膝を折ると、「お言葉どおりに」と頭を下げる。その優雅さといったら、「さすがだな」と見惚れてしまう見事さだ。
だが瑛明の視線に気づいた芳倫は、伏した面から上目遣いで「何見てるのよ!」とばかり睨みつけてきた。
自分の言動に律儀に反応してくる様に、笑いがこみあげてきた。
気位の高い女だな――こういう分かりやすさ、嫌いじゃないけど。
「左相殿、娘ともども今後ともよろしくご指導くださいませ」
「いやいや、こちらこそ。瑛明殿、気の強い娘ではあるが仲良くしてやってくれ」
「芳倫殿、娘がご迷惑をおかけするかと思いますが、よろしくご教授ください」
「瑛明さまの外界でのお話、窺うのを楽しみにしておりました。年も近いですし、お話もしやすいので、仲良くやれそうです」
見事なまでに空々しい形式美。瑛明は笑いをこらえるのに必死だった。
かくして、瑛明の王宮生活が幕を開けた。




