「抱擁」
「おまえの身の回りのものは青を基調にした。あちらは紅色で周りを固めているようだからな。いまだ喪中の身とはいえ王宮に上がるのにあまりに質素なのも考え物だし、華美にするのもどうかと思ってな。何より、おまえには青が似合う」
中相の言葉に、後ろに控える依軒が感無量とばかりに何度も頷いている。あちら、とは左相家の娘のことだろう。
先王の喪が明けると同時に待ってましたとばかりに湧きあがった縁談も、今しばらくは静かに過ごしたいと王は断ったというが、それでは、お話し相手として置いてくださいと左相が半ば強引に話を進めたと聞く。右相家では年頃の長女が突如亡くなってしまい、養女にできる年頃の娘も近い血にはなく、いまは王宮に上げるにはまだ幼い妹の成長を待っている状態だとのこと。なので瑛明は「右相家」枠に入るのだと、作詞のお婆ちゃん老師に聞かされた。枠ってなんだよ、枠って。
二人にまじまじと見つめられ、あまりの気恥ずかしさに、瑛明は思わず視線を逸らした。そうして改めて自分の衣装を見る。
控えめな光沢のある薄青の裙子と同色の上衣を、幾重にも折った薄紫の羅の帯が胸元で止めている。
裙子は胸の下に寄せられた襞でふわりと落ちる袋状のもので、体の線が露になることがない。胸の間に縦に縫い取りがしてあり、両胸部分には横に襞が寄せられている(もちろん綿入り)。
そのうえで帯の結び目を大きく、また正面にすることで、胸元を隠す念の入れようだ。よく見なければ見落としてしまいそうだが、衣よりわずかに薄い青と白の糸で、裙子の裾には睡蓮が、上衣には絡み合うように舞う二匹の蝶が細やかに刺し込まれている。華美ではないが、着心地を始め様々な面に配慮し、存分に手をかけた衣装だ。
胸元まで伸びた髪は、表面部分のみをすくい上げて頂上でまとめて衣と同色に染められた竹櫛を挿し、残りはそのまま垂らされた。
「これは?」
中相が差し出した小箱の中、鈍い光を放つ銀の輪が、薄紫の布に繋がっている。
「布に腕を通して、指輪を中指に通せ。それで手の甲が隠れる。今は分からないが、いつ骨ばってくるか分からないからな。依軒」
心得たとばかり、依軒が細長い布を両手に捧げ持ち、瑛明に歩み寄ってきた。
中相が小箱から出したのは、指先の切られた、肘までの手套だった。
指輪を中指に通すと第二関節で止まり、そこから伸びる布が手の甲全体を覆った。掌と指先は隠されないし、指輪を外せば手首まで楽に下せるので、思いのほか煩わしさはなさそうだ。
手套を袖の下で肘まで上げ切ったところで、目の前に立った依軒に促され、瑛明は促されて少し膝を折った。すると依軒が首に布を巻き付け始める。
「喉仏もいつ出てくるか分からない。外界の生活で成長が遅くなっているようだが、本来であればとっくに変化があっていいころだ。変化が起きてから慌てて隠すような真似をしたら怪しまれる。だから今のうちから、な」
布は首を二巡し、正面で釦止めされた。布も、細かな刺繡糸で隙間なく縁どられた釦も、薄紫色をしている。
「『首』と付く箇所を温めると冷えないというし、胸元がだいぶ開いているから丁度よいだろう。これから寒くなるしな。――では依軒、下がってくれるか。我が子とのしばしの別れだ、二人で話がしたい」
「はい、大爺」
依軒は深々と一礼し、ふくよかな身体からは想像できない機敏さで退出した。
「さて」
扉が閉められたところで、中相が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
僅かに手を伸ばせば届きそうな距離を空けて、瑛明の前に立った。白く骨ばった指が伸びてきて、それが瑛明の頤を捉え、上向けさせられる。驚きのあまり目を瞠ったまま動けない瑛明を、まるで品定めをするかのように中相はまじまじと見つめ続けた。
化粧が濃い?
でもそんなには塗ってないはず。
もしかして塗り方がおかしい?
それとも髪が乱れてる?
いったい何! 動けないままで目を彷徨わせている瑛明に見入っていた中相だったが、ふっと目元を和らげると、指を解いた。
「見事だ。見紛うことのない良家の子女だ。誰にでもできることではない。おまえの生きて来た年月も又しかり。おまえには座学では決して得られない、外界を生き抜いてきた者にしかないものがある。ここではおまえだけがそれを持つ。自信を持つといい。些末なことに囚われ、その力を損なってはならない」
「はい」瑛明は中相の目を捉え、頷いた。
「よい面構えだ」
突如、中相が瑛明の両肩に手を置いた。
だけでなく、そのまま引き寄せられ、抱き寄せられる。瑛明はもう、驚きの一声さえ出ない。
「いいか」耳元で囁く声が険しい。
「おまえの変化が誰の目にも目に分かるようになる前に、本来の姿で生活できるように手段を講じる。それまではいささか窮屈なこともあるだろうが、しばし辛抱してくれ」
そうか、誰かに聞かれているかもしれないってことか――思い至って、瑛明は自分の不明さを恥じるとともに、自邸であっても気を抜けない中相の立場を改めて思い知らされた。
これから行くところには、自分の、ひいては中相の足を引っ張ろうと手ぐすねを引く者たちが待つのだ。気を抜いてはだめなんだ。
「依軒は玲華とここに来るまでは宮中に居た。分からないことがあればあれに訊け。これまでどおりとはいかないが、私も会いに行く。どんな些細なことでも何かあればすぐ私に言うように。それと荷物に目録を入れておいた。読みたい本があればいつでも用意しよう」
「ありがとうございます」
「足元を掬われないように――だけではない。今後おまえが身を立てるのに、学はきっと役に立つ。抜かりなく励め」
「はい」
そこで腕の力が緩み、中相が身を引いた。だが両手を瑛明の肩に置いたまま、
「赤子のおまえを知ることはできなかったが――大きくなった、本当に。ようやく会えたのに、また手元を離れるのかと思うと――崔家のためとはいえ、会いにいける場所だとはいえ、親としては複雑だ。今さらだが」
「本当に今さらです」
「おまえも言うな」
二人でひとしきり笑ったところで、「これを」中相が懐から差し出してきたのは、細長い、白っぽい棒のようなものだった。
筆?
いや、携帯用にしては太い。「これって……」受け取って、瑛明は目を上げて中相を見た。中相は小さく頷き、「護身用だ。特別に作らせた。持っておけ」
瑛明はおずおずと頷き、両手で持ったそれをまじまじと見た。
鞘を少しだけ抜くと、ぎらつく刃が見えた。その禍々しい光に、瑛明は慌てて鞘を戻した。やはり匕首(鍔のない短刀)。ただし幾分か細い。女性用だからか、太い筆といったところだ。急所を突かない限り殺すのは無理だろう。だが、逃げる時間は稼げそうだ。
そうか。
俺は――そういうところに行くのか。
瑛明は大きく息をついてから、それを胸の間に差し込んだ。
おあつらえ向きに匕首を差し込む袋状のものがある。てっきり胸元に布を寄せ集めて襞を作るために縦に縫いつけがされていると思ってたけど――本当に色々考えられているんだな。
瑛明はゆっくりと息を吐いた。そうして顔を上げ、まっすぐに中相を見る。
「行って参ります、父上」




