「家族」
翌日。
昼下がり、瑛明は竹庵にいた。いつも通りに。空は見事な晴天。本来であれば竹庵に向かう足取りは軽いはず、なのだが。
鍵を開けたとき、知らずため息を漏らしていた。本当に来てよかったんだろうかと、またしても思う。
いつもながらに数多の書籍が並ぶ無人の室内。
隣室に続く扉に目を投げた。片付けは終わったんだろうか。気にはなる。だが、扉を開けて中を確かめるつもりは、毛頭ない。
『育ちが知れると思われる、盗人のような真似をするな』
もう何度目か分からないくらいに思い出される声。そのたび、胸が抉られる思いがする。
どうして忘れてしまっていたんだろう。俺が持っているのは、この身一つだけだということを。この衣服も本も住まいも、全ては借り物でしかないということを。
「掃除しよ」
敢えて口にした。再び外に出て、裏手にある小屋から竹箒を取り出す。
気持ちが落ちているときは動くに限る。落ち込む暇も腐る暇もない。気持ちが弱れば冷静な判断ができなくなり、付け入る隙を作ることになる。それは命取りだった。外界では。
俺が今やらないといけないことは、崔家の名を穢さないようにきちんと身を整えて、王宮に上がること――そう決めたはず。
竹箒が地を掃く規則正しい音は、心を落ち着かせてくれる。やった分だけ目に見えて成果が上がるのだから、気持ちも上がる。
掃くほどに美しくなる足下を見るにつけ、外界では毎日あたりまえにやっていたのに、ここでは本当に何もしていないなと思う。今や箒どころか布巾一枚さえ依軒に持たせてもらえないからな。「そんなのは下男のやることです」ってさ。
久しぶりに聞く竹箒の音が心地いい。雲一つない透き通った空は、まさに掃除日和。
聴琴旋蔡子
自然と口を衝いて出た。ずっと親しんできた歌謡だ。
張羅避翟公 夕宿寒林上
朝飛空井中 既並玄雲曲
複変海魚風 一報黄苑恵
還遊萬歲宮
「好!」
肩が跳ねあがって、足元に落とした竹箒が集めた枯葉をぐしゃりと潰す。
慌てて振り返ると、中相が手を叩いて背後に立っていた。
「お、お帰りなさい。今日は随分とお早いお帰りなのですね。あの、昨日は本当に……」
皆まで言えなかった。大股で寄ってきた中相に、いきなり両手を握られたからだ。
「怪我はなかったか?」
「あ、はい、大丈夫です」
中相は瑛明の手や袖をまくりあげた腕を矯めつ眇めつ眺め、かすり傷一つないことを確認する。そして安堵の息を吐き、
「よかった。――昨日はすまなかった。ついかっとなって怒鳴ってしまった。それでなくても怖い思いをしただろうおまえに、心無いことをした。本当に申し訳ない」
「いえ、俺が悪かったんです。入ってはいけないと言われていたのにそれを破ったから。もう二度と、愚かな真似はしません。本当に申し訳ございませんでした」
どう謝罪しようと思い悩んでいたのに、言葉は滑らかに口から零れ出た。中相は一つ頷き、
「私ももう、感情のまま怒鳴るような真似はしない。これでおあいこだ。これでこの件はおしまいにしよう。おまえは、ここを片付けなさい。その間に私は茶の支度をしよう」
「はい」
「それにしても」中相はうっすらと笑い、
「おまえが歌うのを聞いたのは初めてだ。いい声をしている。聞き惚れた」
昨日との変わりように、瑛明は狼狽する。
昔から歌は好きだったけれど、母からは「聞き苦しいからやめなさい」と鼻歌でさえ止められていたのだから、なおさらだ。だから歌いたいときは人気のない川辺に行っていたし、つい口ずさんでしまったときには慌てて周囲を見渡し、母の姿を探した。
「おまえの歌を聞けるのももう僅かだろうから、たまに歌ってみせてくれ」
竹庵に入る中相を見送ってから、瑛明は足元の箒を再び手に取った。
よかった。水に流してもらえたみたいだ。それにいい声だとまで言ってもらえて(声変わり前の希少性があるにしても)。だけど。
「翟公はさすがにまずいよな……」箒の音に紛らわせて瑛明は呟く。
翟公は漢代の人。権勢あるときは門前に人が溢れたが、失職したとたん門前に雀羅(雀を獲るカスミ網)を張れるほど人が来なくなったという逸話が『史記』に紹介されている。
言葉の音が好きでよく歌っていたけれど、縁起でもない。中相が知らないのは幸いだった。これからは若者らしい歌とか、童謡とか、考えて口にしないと。
「瑛明」
「はい。すぐに参ります!」
背後からの呼びかけに、瑛明は声を張り上げて応えた。
それ以来、中相はしばしば瑛明に歌を請うた。選曲に気をつけなければと思っていたものの、もっぱら中相に求められるものを歌った。こちらの民間歌謡も教えられたが、たいていは外界でも童謡として残っている古代歌謡だった。
時に瞑目し、時に開けた扉から外を眺め歌謡に聴き入る中相は、ふと、表情を和らげることがあった。愛おしいものを懐かしむような優しさが目元に浮かぶのだ。長く冷遇されていたと言っていたけれど、幸せなときもあったんだな、瑛明はなんだかほっとする。
そのことを自分の声で思い出してもらえるなら、とても嬉しい。
「ではお茶にしよう。今日は市で目新しい菓子を見つけたから買ってきた。胡麻がたくさん入った焼菓子だ。好きだろう?」
濃い目の茶を淹れてくれること。
様々な本を買ってきてくれること。
「瑛明」と呼びかけてくれること。
どれも最初は戸惑ったけれど、今は「あたりまえ」になり、それが少しずつ増えている。
こういうのが家族っていうものなのかもしれない。そう思うたび、気恥ずかしさを感じながらも、瑛明の胸は温かくなる。
そして。
いよいよ瑛明が王宮に上がる日となった。




