「冷眼」
ある日のこと。
「あれ?」
いつものとおり昼餐後に竹庵に来て、まだ中相のいない室内で一人、書を広げていた瑛明は声を上げる。
「これ、中巻がある」
上下巻だとばかり思っていた本の上巻を読み終えたとき、それに気づいた。
目録を見てみたところ、やはり中巻は存在していることになっている。だが規定の棚に中巻はなかった。どこかに紛れたのかと他の棚を探してみたけれど、見当たらない。
中相が本宅に持って行ったのか……過った考えは即座に却下した。
持っていくなら三冊揃えて持っていくだろうし、なによりこの上中下巻は世に言う女子供の読みもので、中相が持ち帰って読むほどのものではない。
中相は色々な分野の本を集めてはいたが、それらはじっくり読み込むものと、ちらりと眺めてとりあえず所蔵はしておく、というものに二分されており、これは間違いなく後者に該当する。
掌編の寄せ集めなので順番通りに読む必要はないのだが、これだけ探しても見当たらないとなると妙に気になる――そこで瑛明はふと思いつき、再び目録を手にとってみた。
「この本、つい最近入れたんだ……」
もしかして俺のためってこと?
なんだか口元が緩んでしまうのを感じながら瑛明は顔を上げる。目線の先には隣室への扉があった。
「失礼、しまーす」
無人であることは承知していたが、瑛明はゆっくりと開けた扉から中を覗き込んだ。
陽射しの向きによるのだろう。入り口と、両室を繋ぐ扉とを開け放したら、明かり取りの窓からの光もあいまって、はっきりと室内の様子を窺い知ることができた。驚くほどの冊数が幾重もの山となっているのがよく分かる。崩れて押し潰されたら、命も危ない。
「床が抜けてるところもあるんだよな……」
瑛明は呟きながら、背丈ほどに積まれたものもある本の山々を見、その裾野に僅かばかりに見える床を凝視し、その先を目で追う。どうやら部屋の中央に置かれた机までは行けそうだ。
手に入れた本はこちらで分類してから棚に並べると言っていたから、作業中に中巻をどこかに置き忘れたのかも。だとしたら机の上とか床とか積まれた本の一番上とか分かりやすい場所にあるはず――そう思って瑛明が、全神経を集中させた足を隣室にそろそろと踏み入れた、そのとき。
「何をしている!」鋭い声。
驚きの余り僅かに跳ね上がった腕が、山積みされた本に触れた。
驚きとも悲鳴ともいえる瑛明の叫びとともに、重なり合うように本の山が崩れた。地鳴りのような音が反響する。
「瑛明!」声と同時に右肩を掴まれ、もの凄い力で後ろに引っ張られた。
たたらを踏み、隣室との段差につまづいて尻餅をついた瑛明の足元に、まるで大波の名残のように崩れた本が、滑り寄せてくる。舞い上がる盛大な埃の向こうに、整然と並び立っていた本の山が無様に崩れ落ちているのが、見えた。
「本が!」
顔面を蒼白にした瑛明が身を乗り出しかけたとき、再び背後から強い力で引き戻された。両肩をがっちりと掴まれ、強引に体の向きを変えさせられる。
「何故入った」低い声。
息が止まった。
鼻先が当たりそうなほど至近距離に中相がいたから、だけではない。
いかなる喜怒哀楽にも変わらなかったその目に、見たことのない光が宿っていた。これまで見てきた権勢者の陽の部分ではなく、底知れない影をはらむ暗い光が。
動けず、言葉のない瑛明を放り出すように立ち上がると、中相は机に広げられた目録の下から、二冊の本を引き出した。
「中巻か」
吐き捨てるように呟いて目線を投げてきた中相に、瑛明はどうにか頷くことで答えた。
「続きが気になるなら、何故私に訊かない? 隣には入ってはならないと言ったはずだ!」
中相は苛立った声のままに手にした二冊を机上に叩きつけるように置くと、
「私は今からここを片付ける。今日は離れで自学していろ」
「それなら俺も――」瑛明は言いかけたが、中相の鋭い一瞥で黙り込むしかなくなる。
瑛明は僅かに俯き、ひそかに大きく息を吐いてから、立ち上がった。
「申し訳ございませんでした」
中相に深々と頭を下げたが、その目がこちらを向くことはない。瑛明はもう一度頭を下げて、中相の脇を、足早に抜ける。
「二度とこんな――育ちが知れると思われる、盗人のような真似をするな」
背後から、口早に吐きつけられた低い声は、はっきりと瑛明の耳に届き、その足を止めた。
「申し訳ございませんでした」
瑛明はどうにかそう口にすると、逃げるように竹庵を後にした。




