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糸遊~きみにつながるひかり~  作者: 天水しあ
第四章『失くした時』
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「本当に望むもの」

 またある日のこと。


 「玲華に感謝だな」手にした書を閉じた中相が、薄い笑みを浮かべてそんなことを言った。


「『論語』くらいは読めるだろうとは思っていたが、それ以上だ。四書五経の素地ができている。女どもはおまえの出来に大層驚いていたしな。――あちらはおまえを、育ちも分からん粗野な田舎娘だと思っていただろうから、驚きは私以上だろうな」

 何か思い出すことがあったのか、中相は含み笑いをしながら随分なことを平然と言う。


 まあ、そうだよな。瑛明は密かに息を吐き、

「そう出来のいい方ではなかったのですが」

「そのようだ。驚きはしたが目を見張るほどではない。まあ、どこぞの山猿に付け焼刃の知識をつけて宮中に上げてくるのだろうと、嬉々として待ち構えている連中の鼻をあかすには十分だ。とはいえ、足元を掬われないように、日々精進することだ」


 ホント、容赦ないな――瑛明の口元は自ずと綻ぶ。それを見た中相は、

「怒らぬのか?」

「事実ですから」

「……よい心がけだ。では少し休もう」


 中相は立ち上がると、南面に置かれた棚の前に立ち、茶の支度を始めた。

 ここには中相と瑛明二人しかいない。だから何もかもを二人でこなす。室内の片づけや外の掃除といった様々な雑事もだ。

 中相が茶の用意をする間に、瑛明は机の上のものを片付ける。日によって役割は入れ替わる。最初は瑛明が「全て自分が」と申し出たが、「割り振ったほうが早い」と中相に返され、事実そのとおりなので以来その言葉に従っている。


 机が片付いた絶妙な間で、湯気の漏れる蓋碗が二つ置かれる。中には茶葉と湯が一緒に入っており、蓋をずらしながら茶葉を吸わぬように飲む。飲みきったらまた湯を足す、という仕組みだ。

 分厚く、飾り気のないざらついた蓋碗は、離れで使っているものとは違い、明らかに実用向きだ。粗めの茶葉も素朴な味わい。要するに、どれも決して高価なものではなかった。


 中相は「ここは、かつての私が送っていた崔家の日常そのままだ」と言う。


 歳の離れた末子だったうえ、母が下女という卑しい出自だったため、崔家では冷遇されていたらしい。裏付けるように掃除も茶の支度も実に手際が良く、仲がよろしくないという左相が見れば「これだから下賤な出自の者は」と鼻で笑うんじゃないだろうか。会ったことないけど、なんとなく。

 でも、たとえ言われたとしても「それが何か」と涼しい顔をしていそうだ、この人は。


 思えば、この人が喜怒哀楽を露にするのを見たことがない。俺が宮中に上がるときも、口では「喜ばしい」と言いながら、表情は変わらなかった。俺たちが外界から突然帰ってきたときも、母さんが死んだときも、俺が男だって分かったときも、いつだって変わらない。口元には穏やかな笑みを浮かべながら、目は少しも笑っていない。


 母さんは言ってた。「優しい夫を演じながら自分を受け入れることはなかった」と。

 それは、中相が許婚を愛し続けていたということなんだろうか。忘れることも諦めることできないまま、感情を失くしてしまったのか。


 そして母さんは、彼女を権力にモノを言わせて奪った憎い男の妹――少なくとも母さんは、自身のことをそう思っていたに違いない。だからあれほどまで中相に捨てられることを恐れ、義理の姉である王后を「あの女」などと憎憎しげに吐き捨てたんだろう。


「お湯を足しましょうか?」

「ああ、ありがとう」

 瑛明は立ち上がって中相の茶碗に湯を注ぐと、再び対面に座った。

 蓋をずらして茶を口にする所作は流れるようで、そつがない。惚れ惚れするほどだ。だけど一方で、完璧のあまり取り付く島もないような、寂しさを感じてしまうのも事実だ。


『失われた時を取り戻すことはできないが、これから先を変えることはできる。だからおまえも、過去のことに囚われ続けるな』


 あの時、俺にかけてくれた言葉は、そういう思いを理解してるからこその言葉だったと思う。俺にだけでなく、自分にも言い聞かせている――そんな風にさえ感じた。

 今では何もかもをも思うままにできる人なんだろうけれど――それは本当に、中相の望むことだったんだろうか。いつでも平静でいられるってそれは、感情を動かすものが、何もないということじゃないだろうか。


 おかげで出世できたなどと嘯いていたけれど、許婚を奪われるなんて、きっと凄く辛いことだ。中相が望むだったのなら、素敵な人だったに違いない。


 俺がもし好きな女を奪われたら、きっと――。


「どうした」

「いえ」

 瑛明は首を振り、慌てて茶に手を伸ばした。


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