「変えられないもの」
襟に刺されているこの蔓草模様、母さんが最も得意にしていたものだ。
これを作った時には、贅を極めた部屋の中で、大勢にかしずかれ幸福に包まれていただろうに、瞼の裏に蘇るのは、外界の粗末な家で、一人黙々と針を動かす寂しげな姿。
「大切な体だ。冷やしてはよくない。これはここに置いておくから、好きに着るといい。――気に入ってずっと着ていたが、夫人が嫌な顔をするものだから、長いことしまっていたのだ。――あれは刺繍が不得手だからな。おまえに使ってもらえたら、玲華も喜ぶ」
おずおずと、手を通してみる。
真新しい衣にはない柔らかな肌触り。「気にいって着ていた」というのは嘘ではないようだ。袖口の刺繍はやはり細やかだったが、そこには見慣れた陰りのようなものはなく、華やかで明るい。一体どんな気持ちで、この衣に針を刺していたんだろう。母さん。
「玲華の刺繍上手は城内で知らぬものはいないほどだった。これだけのものが作れたのだから、外界でも生活が成り立ったんだろう。こちらがハラハラするほど世間知らずだったが、芸が身を助けたのだな」
それだけじゃない――瑛明はひそかに唇を噛む。
浮き足立った自分の毎日が、母の犠牲に成り立っていたことを改めて突き付けられた――いや、忘れたフリをしていた。
いつの間にか、ここでの豊かな毎日を「当然」だと思い始めていた自分。外界のことを忘れ、母を苦しめ続けてきた事実を押し込め――なんて軽薄で、薄情で、自分勝手な――。
「おまえのせいじゃない」
静かな声。瑛明は、いつしか自分が目を伏せていたことに気づいた。
目を上げる。中相がじっと自分を見ていた。
「本来であれば、おまえはこの場所で、私の嫡子として何不自由ない生活を送るはずだった。玲華の勝手な思い込み――いや、彼女が、あんな暴挙に走るほど追い詰められていたことに気づかずにいた、私のせいだ」
すまない、と頭を下げられ瑛明は驚き、混乱する。
自他共に認めるこの国一の実力者である中相が、何の力もない、若輩者の自分に頭を下げている。
瑛明は慌てて立ち上がり、
「やめてください! そんなの……」
だけど言葉は続かない。言うべき言葉が、見つけられなかった。どうしても。
自分のせいで母が苦しんでいると、自分が悪いから誰もが送る平穏な生活が望めないのだと思い続けてきたのだ。ずっと。それをいまさら「違う」と言われること、「どうやって母と二人、生き延びるか」を考え続けた自分を「いたいけな子ども」と見られること、それは居心地の悪い嬉しさと、断固たる拒絶とを瑛明にもたらし、混乱させる。
ただ痛いくらいに熱い目頭の奥から、何も零れ落ちさせたくなくて、瑛明は固く口元を引き絞った。
顔を上げた中相は、瑛明を着席させると、
「誰一人知らない地で、母は世間知らずのとくれば、きっとおまえも苦労したんだろう。子どもらしい生活を送らせてやれなかったのは親として心苦しい。とはいえ、すでに成人近いおまえにそんなことを言ったところで詮無いことだ。失われた時を取り戻すことはできないが、これから先を変えることはできる。だからおまえも、過去のことに囚われ続けるな。不幸な過去に絡め取られ、とこれからを犠牲にするのは、愚かしいことだ」
それは不思議と受け入れられる言葉だった。
中相が自分を見つめる眼差し、言葉の熱さ、決してその場しのぎではない、心からのものだと思った。
瑛明はただ唇を噛み締めて、何度も頷いた。




