「召寄」
開け放った窓から吹き込む風が、温い。
院子では春の花が散り、緑が濃くなっている。窓外から吹き込む風からも、濃密な青い香りがした。水面を照らす日差しは強く、池はまるで大きな一枚の鏡のように眩しい。
「本当に、お戻りになるおつもりですか?」
言われるがまま鏡台の前に座り、瑛明の髪を梳き始めた依軒が、思い切ったように声をかけてきた。
鏡越しにその表情を窺うと、深刻な面持ちをしている。自分の心とあまりにもかけ離れているから、思わず笑ってしまった。「うん、そのつもり」明るい声で返す。
「だってこのままここにいたら嫁がせられそうだし。シャレにならない」
「ですが……」
「今さら男だなんて言えないだろ。そんなことしたらこの家、相続争いやら何やらで大騒ぎになりそうだ。俺まだ死にたくないし」
いっそう表情を曇らせる依軒に、瑛明は鏡越しに茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せる。しかし依軒は髪を梳くのに懸命だからか、それに気づいてもいないようだ。
あの日、俺が中相を呼びに行ってる間に、母さんは依軒に打ち明けたらしい。俺が男だって。だからといって事態が変わったわけではないけれど、秘密を共有できる人がいることは本当にありがたい。
母さんは、ちゃんと俺のことを考えていてくれた――やっぱり俺の母親だったのだ。
「向こうに行って『やはり戻りたい』と思っても戻れるものではないのですよ。桃が満開の時期に何故か岩戸が少し開いていたおかげで、外界とこちらを繋ぐ道が開かれましたが、普段は決して開くことはないのです」
「分かってるよ」
櫛を通すほど艶が戻っていく髪を、やがて依軒が結い上げ始めた。
「ちょっと引っ張り過ぎ……いてててっ」
髪をきゅっと引き上げられ、瑛明は思わず悲鳴を漏らす。ずっと後ろで一つに括る簡素な髪型、しかも自分で緩やかに結うことに慣れていたので、こうやって人に髪を触られてるのはくすぐったく、しかもこうも容赦なく引っ張りあげられては敵わない。
久しぶりに参内した中相が姿を見せに来るだけだってのに、いまだに喪服姿で煌びやかな装飾を付けられるわけでもないんだから、そう気合入れなくたっていいのに。
「遅いね、中相」
卓上で瑛明は書を広げながら、傍らに立つ依軒に声を掛けた。
「三月ぶりの参内ですから、王がお引き止めになられているのかもしれません。大爺は王のお気に入りですから。これだけ長く参内をお控えになることを許されたのが、その証拠です」
「へえ」
君・父母の逝去時は三年(実質は二年)を始めとして、親等別に服喪期間が設けられていたものの、もともと秦の大乱を逃れた民が作った桃源郷では、そこまで儒教の教えは浸透していないらしい。特に要職にあり、父母以外の喪に服する者は、王からの召寄に応じて服喪を切り上げ、参内することがままあったという。
「大爺は大層な読書好きで博識でいらっしゃいますから、お話がおもしろいのでございますよ。高官ながら偉ぶらず、腰も低くいらっしゃるので、人望が篤いお方です」
「ふうん」
だったらもっと色んな本を借りとけばよかったな。与えられた女子供向けの読み物をおとなしく読んでいたけど、こっちの歴史とか風俗とか、きっと面白かっただろうに。
中相に礼を言い、明日にはここともオサラバ――なんだか不思議な感じがする。三月余りこちらに居ただけなのに、外界のことが遥か昔のことのように思える。
――衣食が足りた恩恵だよな。
昔は今日の寝床や食物に頭を悩ませることが何度かあった。
必死に頭を巡らせながらふと、明日のことさえ考えられない自分は、ただの動物でしかないと情けなく、惨めだった。もう何もかも投げ捨てたいと思って、でもそんな度胸もなく、本当に自分は無様だと、また泣きたくなった。
だけど今こうして、寝食以外を考えられる日々を送り――ただ寝食だけを考えていた昔を懐かしく思い出すようになった。必死に生きていた自分をいじらしくさえ思う。そんな風に自分を思えたことは、いままでなかった。
だから、たとえ寝食しか考えられない日々に戻ったとしても、それに終わりが来ないなんてもう考えないくていい。俺ならきっと何とかできる――そう思えたから、瑛明の心は定まった。困難な道を選ぶことができたのだ。
だが。
「明日は共に出かけるぞ」
茜色の空に夜が忍び寄ってきた頃合に、先触れもなく一人でやってきた中相は、いきなりそんなことを言ってきた。どうやら忘れておく、というのは本当だったらしい。だがここでひるむ気は瑛明にない。
「申し訳ございませんが、以前お話ししました通り、明日にはここを発つつもりです」
「明日か。それは無理な相談だな」
そう、中相は鼻で笑った。その態度に軽い苛立ちを覚えながら、次は何を言ってきて、それにどう返すか考えつつ、とりあえず瑛明は問うた。「どういうことでしょうか」
「陛下がおまえに会いたいと仰せだ」




