「告白」
中相が去ると、母は涙をすぐに収め、瑛明から離れた。それはあっさりと。
気忙しく見守る瑛明の目の前で、依軒が用意したお茶を一口飲み、湯で顔を洗い、着替えたのち、「気分が優れないので休みます」とだけ言い、牀台に身を横たえ、衾を被った。
「私が隣室で控えておりますので、小姐はどうぞ部屋でお休みに。大丈夫です。太太の癇癪には慣れておりますから。大分久しぶりではありますけどね」
しみじみと頷きながら言う依軒の言葉に従い、瑛明は母の部屋を出た。
部屋を出た瑛明はほうっとため息をついた。「俺ってホント、知らないことばっかりだ」
翌日、瑛明は居間で母が来るのを待ったが、昼を過ぎても母は自室から出て来なかった。依軒が何度か様子を見に行ったが、牀台から出たくないとのことだった。
それは数日経っても変わらなかった。
「しばらくしたら落ち着きますわ」
依軒はそう言って、平然と刺繍をしている。その姿に、妙に安堵している自分に気づいた。本当に肝がすわってる。頼もしいのは見た目だけではないようだ。
あれ以来、本当に中相はこちらに来なくなった。これまで通り食事や衣装はもちろん、母の体調を慮っての薬が運ばれてくるので、存在を忘れられているわけではないらしいが。
やっと本来の場所に帰ってきたはずなのに。この不安、外界に居たときと変わらないのは何故なんだ。
どこにも身の置き所がない。
いや、あっちに居たときには「いつか帰る場所がある」という希望があった。
だけど今、俺たちにそんなところは、もうどこにも……。
瑛明は勢いよく立ち上がった。
「だいぶ日も落ちてきたね。ちょっと母上の様子を見てくるよ」
小さく叩扉した。「母上、入ります」
横になっているとばかり思っていたのに、薄い紅の帳を上げて、牀台で体を起こし窓外を見ていた母は、瑛明を見てにこりと笑う。
どきりとした。
夜着のままで髪も結い上げず、化粧もしていないというのに、まるで内側から発光する玉のような美しさ。それが、人知を超えたもののように思えて――ゾッとした。
「母上、あちらに茶の支度ができておりますが起きられますか? それともこちらに……」
「瑛明、それを」
息子の言葉を遮り母が指し示したのは、先日、中相が煌びやかな装飾品を詰めて携えた、黒漆に螺鈿細工が施された美しい箱である。
母に言われるまま、瑛明が牀台脇の高卓に置かれたそれを手に取った。両手に載るくらいの大きさながら、ずしりとした重みがある。
「開けてごらんなさい」
瑛明は蓋に手をかける。鍵はかかっていなかった。
蓋を持ち上げると、中には耳輪や指輪、簪といった多彩な装飾品が整然と並べられている。
でも、見た目より、底が浅い気がする。
目の高さに持ち上げてみて、箱をよくよく見てみる。上げ底? 思いながら軽く底を叩き――いやこれは、二重底だ。
装飾品の入っている内箱と、同色の外箱との僅かな隙間に爪をかけ、持ち上げてみると、中から白い布に包まれた「何か」が出てきた。布は少し黄ばんでいて、ここの生活には不釣合いな粗末な布だった。
何も持たずに出てきたと思っていたのに、母もあの家から持ち出したものがあったなんて。軽い驚きを覚えながらその包みを解いた瑛明は、たちまち顔色を失った。
声が震える。「母さんこれ……。一体何だよ」
「趙殿が下さったのです。いざという時のために、と」
息子の尖る声を、母はさらりと受け流した。そしてまっすぐに、彼を見つめる。その視線の強さに射すくめられたように、瑛明は言うべき次の言葉を口にできなくなった。
「私がどうしてここを出たのか、あなたにはまだ話していませんでしたね」
今までどれだけ訊いても、何も教えてくれなかったのに――少し奇妙に思いながらも、瑛明は促されるままに牀台に座った。
「志按さまは――」
母がその名を呼んだことに、心奥がひやりとする。そっと母の様子を伺うが、なぜか優しく笑っていた。胸が痛い。
「兄のご学友で、私は以前からずっと想いを寄せていました。志按さまには――将来を誓い合った方がいらしたのですが、故あって私が志按さまの元に参りました。『替わり』だと分かっていても、皇女たる私を踏み台にしてのし上がるつもりだと聞かされても、志按さまと添える喜びの前には、全て些末なことでしかなかった。のぼせ上がっていた私は、少々浅はかだったのです。一緒になりさえすれば、志按さまも心を変えてくださると。でもあの方は――周りの誰もが羨む優しい夫を演じながら、私を受け入れることはなかった。そんな時でした、私が身篭ったのは」
呼吸することすら忘れて言葉を繋ぐ母の表情が、少しずつ険しくなっていく。あまつさえ顔色も青ざめてきたようだ。
止めた方がいい、そんな考えが脳裏をかすめる。だけど結局、瑛明にはそれができなかった。もう少しだけ、と。
もう少しなら、と。




