「故郷」
やがて舟はするすると、川の源に着く。
かくしてそこに一山があり、ほのかな光が漏れる穴があった。
ためらわず中に入り、先を行く母を瑛明は慌てて追う。鼻先さえ見えない闇の中であるのに、辺りが見えているかのようにさくさくと母は進んでいく。瑛明は幼子のようにその細い手に引かれ、何度も足を縺れさせながら、必死に後をついていった。
並んで歩くのは難しい道は、進むにつれ岩が迫り、どんどんと細くなっていく。それにつれ風に揺れる蜘蛛の糸のように見え隠れしていたかすかな光が、確かなものとなっていき、背後に遠ざかったはずの桃香が、今度は前方から強く流れ込んできた。
人一人通るのがやっとの狭い道を行くこと数十歩で道は尽き、前には巨大な岩が立ちふさがっていた。指が入りそうな隙間、そこが光源だった。
瑛明は壁面に体を擦りつけるようにしてどうにか母の前に行き、その隙間に手を掛けた。うまい具合に両の指先が入る。これは開く!
両足で踏ん張って腰を落とし、奥歯をぐっと噛み締めて全身の力を両腕にかけるが、ずっと舵を取り続けていた腕は力を入れるほど震えてきて、ただでさえ硬い岩は微塵も動く気配はないように思えた。何度か息をついた。
だが、気のせいか? と思うほどほんの少しずつ隙間が空いていき、そこに腕や足を入れ、より全身の力を岩にかけられるようになると、岩がじわじわと動いた。空いた隙間に半身がほぼ入ったところで無理やり体を捻じ込み、瑛明は外に出た。洞内は涼しかったはずなのに、今や全身汗だくだ。桃が香る春風が心地よい。
彼より一回り小さい母は、軽々と後に続いてきた。
眼前に広がるのは、のどかな田園地帯――ではなく、霧がかった視界の限りに広がる、巨大な壁。
それは切り立つ両脇の山崖を、背丈の数倍の高さで一直線に結んでいた。漂う霧が、一層ものものしい雰囲気を醸し出しているが、壁までの空間を埋め尽くすように咲き乱れる桃花が、それを和らげている。そして桃林の中には、一筋の道が示されていた。
ここが……俺の故郷、なのか。
何だろうこの感じ。どこか懐かしいような、落ち着くような――。
今まで何度も転居を余儀なくされた中で、たくさんの地を訪れた。その中で、なんとなくよそよそしさを感じる場所、なんだか穏やかな場所があった。前者は最初の感覚通りにあまり居心地がいいとは言えず、後者はその通り穏やかに過ごせた。
結局はどちらの地も、追われることにはなったのだけど。
でもここは――今までで、一番慕わしい気がする。
受け入れられている、そんな感じがする。
まるで、俺を待っていてくれる人がいるような……。
霧が晴れてきた。
瑛明が再び前方に目を向けると、石で舗装された細い道のさき数十歩の位置に、身の丈三倍ほどの穴が穿たれ、丹色鮮やかな門扉がはめ込まれているのが見えた。
その前で、門兵と思しき鎧姿の男二人が、傍らに矛を置き、胡坐をかいてのんきに碁を打っている。碁盤のわきには酒瓶と盃も見えた。
おいおい、門兵が日の高いうちから酒飲んで職務放棄かよ……呆れる瑛明の脇を、小柄な姿がすり抜けた。
「ちょっと、母さん」
ためらいなく前に進む母を慌てて追う瑛明。母は息子を一顧だにせず、しっかりした足取りで前に進んでいく。
「――ん? おまえたち、どこから来た!」
あと十数歩の距離で、ようやくこちらに気づいた門兵たちが、碁盤と酒瓶を投げ、あたふたと矛を手に立ち上がる。しかし母は怯まず歩を進めていく。瑛明は慌ててその前に立った。ほどなく二人の男が駆け寄ってきた。
「何だ、どうしてこの岩戸が開いてるんだ!」
若い方の門兵が、声を荒げるのに対し、瑛明は、困ったような笑顔を浮かべると、「すみません。私たち、ちょっと道に迷っちゃって――」
「何と、玲華様では!」
頓狂な声を上げたのは、老兵の方だった。
「玲華様って、確か十数年前に生まれたばかりのご息女と姿を消された先王の妹君?」
「先王? では兄上は……」
「は。一昨年、突如身罷られ、先ごろ喪が明けたばかりで……」
直後いきなりのしかかった重み。瑛明が慌てて振り返ると、崩れた母が地に落ちるところだった。寸前でその身を抱きとめる。
「母上!」
「母上? ではあなた様は……確かに、目元に中相殿の面影が」
無遠慮に覗き込む二者の視線は瑛明を困惑させる。なのに腕の母は目を覚まさない。
どうしたらいいか分からないまま、瑛明はひたすらに母を呼んでいた。




