「錯雑」
「え、瑛明さま、申し訳ございません!」
「ごめん、ぼんやり歩いてて。どこか打ったりしてない? 大丈夫?」
渡廊を歩いていた瑛明は、建物を曲がってきた女官とぶつかった。慌てて身を引き、何度も頭を下げる彼女に、瑛明は慌てたように声をかけた。
「私は、大丈夫です」
「なら、お互いなんでもなくてよかった」
笑顔でそう言うと、「はい、よかったです」宮仕えが間もなく一年になるという彼女は、初々しさが滲むはにかんだ笑みを浮かべ、ぎこちなく頷いた。
当然だ――瑛明は思う。
怪我なんかさせるわけがない。だって彼女が曲がってくるのは、分かっていたんだから。
「引き留めてごめん、じゃあ仕事頑張って」
言いながら、辺りに素早く目を投げた。さっき確認したときと同じ、他に人気はない。瑛明は僅かに身を屈めて少女の耳元に口を寄せると、
「この前は、ありがと」
「いえ」
跳ねた肩に、上ずった声。
男装をした瑛明を見る他の女官たちと同じように、彼女は頬をほんのり上気させている。
依軒の言葉通りだ。だけど向けられた目には、他の女官たちにはない、意味深な光があった。戸惑いの中にも隠しきれない「共犯者」を意味する光が。
それに答えるように瑛明は笑いかけると、「じゃあ」彼女の脇を抜け、右手に現われた院子への階段を駆け下りた。
階段を下り切ったところで、瑛明ははあっと息を吐いた。
針先で刺されたような僅かな痛みを感じる。だが、それは無視する。
陛下をお護りする。そのために自分で動く。
たとえそれが中相に逆らうことになったとしても――そう決めてから、今まで自分がどれだけ護られ、物を知らないでいられたのかということを思い知った。
俺が自分のことだけに右往左往している後ろで、誰かが代わりに泥を被っていた。まさに「蝶よ花よ」、だ。
売上を上げるために爺の手を握るくらいは当たり前、外界では、そうやって生きてきたはず。
純情な女官を騙すことに胸を痛めるなんて――いまさらだ。
ゆっくりと息を吸った。鼻腔に流れ込んだ空気も、日ごとに色鮮やかになっている景色も、春が近づいていることを告げている。
遥か右手にある桃林も、色づいた蕾が随分と増えた。花の色が滲みだしたかのような幹枝もあいまって、一帯に桃色の薄霧がかかっているかのようだ。
それが、あの尋常ならない景色を呼び起こした。辺り一面が桃色に包まれる中、母さんと二人で川を上って――。
「もう、一年になるな……」
間もなく母さんの喪も開ける。どのみち、このままではいられないのだ。
「瑛明さま」
肩越し背後を見上げると、渡廊に依軒が立っていた。いつも甘い物を差し入れているお礼にと、中相家から取り寄せたあれこれを芳倫の部屋に持って行っていたのだ。
瑛明はその隙に、勝手に部屋を抜け出していた。だが。
「今しがた、知らせがありました。中相さまは明日、お戻りになられるそうですよ」
「そうなんだ」素っ気なく答えたものの、「いよいよだ」という思いが胸底に重く湧いた。だがそれは押し隠し、瑛明はにこやかに、
「じゃあ陛下に帰還のご挨拶に上がるのは、明後日かな」
「そうですね。お戻りはいつも閉門直後でいらっしゃいますから、恐らくそうなるかと」
中相のやることは全て善行であると全く疑っていないからこその解釈だな、思いながら瑛明は、依軒からそっと目を外した。
「こっちにも顔を出す余裕があるといいけど」
「きっといらっしゃいます――では、私は先に戻ります。早めにお戻りくださいね」
依軒はそう言うと、瑛明の返事も待たず、あっさりその場を去った。
最近、物思いにふけりがちな主人を持て余しているからか、彼女自身が二人きりの軟禁状態に疲弊しているからか、多くのことを黙認されるようになった。おかげで随分自由に動けるようになった。
遠ざかっていく依軒の後姿を瑛明は見守る。それが部屋の中に消えたところで瑛明は再び院子に目を向け、大きく息を吐いた。
ゆっくりと天を仰ぐ。晴れ渡った空は、澄んだ青色をして、光輝いていた。結い上げきれない後れ毛が、風になびいて緩やかに頬を撫でる。
なんて、平和なんだろう――口元が知らず歪んだ。そのとき。
「瑛明」
空耳かと思った。いや、そうであって欲しいと思ったのかもしれない。
意を決して振り返った。
そこには、どこか思いつめた表情で一人立つ、王が居た。




