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糸遊~きみにつながるひかり~  作者: 天水しあ
第一章『外界』
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「帰去来」

 刺繍を買ってくれる客がたくさんいてくれたらいいんだ。


 それなら大都市、いっそ百万もの人が住むという都の長安にでも行けばいい。きっと買い手に困らないし、高くも買ってもらえる。内外各地から流入する人たちに紛れれば、俺たちも目立たない。もしかしたら戸籍を手にする方法があるかもしれない。まともに生きていけるかもしれない。

 人の出入りが少ない田舎だからこそ余所者(おれたち)は目立ってしまうのだ――俺は何度も何度も母さんを説得した。時に泣いて、時に怒鳴って。だけど母さんは、この地を離れられないのだ頑として譲らなかった。


 その地を今、離れようとしている。


 母子は舟上にあった。竿を握る瑛明は、相変わらず女装である。

 母から、ここぞというときに袖を通す一番上等な女の衣装を渡され、せかされ、瑛明は逆らえぬままここまで来た。母を説得して趙に別れの一筆を書かせる間に、庭の鶏にありったけの餌をぶちまけてから柵を開け放ち、思い立って枕元に置いていた一幅の布だけを、懐に捩じ込んだ。


 そうして一年間平穏な生活を送った家を慌しく去った母子だったが、疑問と感傷がないまぜになった複雑な気持ちを抱えながら舟を漕ぐ瑛明の眼下で、母は降り注ぐ春の日差しのような、晴れやかな顔をしている。

 嬉しくてたまらないというその表情に、瑛明はいっそう複雑な気持ちになる。


 漕ぎ続けることしばらく。瑛明が腕にだるさを感じ始めたとき、振り向いた母が言った。

「もう漕がなくてもよいですよ」

 母の言葉に従い、瑛明は手を止める。やがて、舟はゆっくりと停止した。

 瑛明は竿を手にしたまま、上流へと目を遣る。すると向こうから、小さな桃片がゆらゆら流れて来るのが見えた。それは次第に数を増していく。最初はちらちらと、やがて一筋の筋となって、それは流れてきた。

 水の色がほんのりと桃色に見えてきたころには芳香が漂い始めた。行く手の両岸がおぼろな桃色に染まり、舟は引き込まれるように動き出していた。気づけば、峡谷の奥深くにまでにこだましていた猿声が途絶えている。


「まるで『桃花源記』だ」


 瑛明の呟きを受けたように、母は言う。

「おまえは殊に『桃花源記』を好んで読んでいましたね。やはり人は知らずとも生まれた地を求めるものなのだと思い知りました――十六年前、生まれたばかりのあなたを抱いて、私は彼の地を出たのですから」

「彼の地って――まさか、桃花源?」

「そうです」

 自分の戯言に母が真顔で頷くのを見て、瑛明は知らず、笑っていた。

「そんな馬鹿な。『桃花源記』は陶淵明(とうえんめい)の創作じゃないか」


 『桃花源記』――漁師が川で漁をしていると、やがて川の両岸に桃花林が現れ、川の源で尽きた。そびえる山に穴があるのを見つけた猟師が進んでいくと、そこでは数百年前の大乱を逃れた人々が、何ら区別なく平穏に、楽しい生活を送っていた――という物語だ。


「あれは実話です。何十代も前の世代に、外界の猟師が迷い込んだことがあったのです」


 「外界」って――何を言ってるんだ。

 今まで俺たちが暮らしたこの世界のこと?


 足元でたおやかに座る母を瑛明は見る。

 母は眩しそうに目を細め、桃花林を見上げている。心なしか頬は上気していて、その楽しげな表情といったら、今にも歌い出しそうだ。

 こんな母を今まで見たことはない。


「私がこの地に来た時も、この桃花は見事に咲いていました」

 辺りの桃はどれもこれも皆満開である。どれだけ目を凝らして探しても蕾は一つとしてなく、全てが花開いている。


 何だこれは。

 こんなことがあるのか。

 瑛明の視線に気づいた母が、笑いかけてきた――それは美しい笑顔で。


「あの話の中で、暇を告げた猟師に『ここのことは外の人に言うほどの話ではない』と告げた者、あの方こそが私の祖先です」

「祖先?」

「そう。きっと猟師が桃花源の話を外で言わずにはおれない、と思った彼の息子が、ひそかに猟師の後をつけたのです。するとやはり猟師はあちこちに印をつけて帰りました。彼が印の位置を変えたため、県令やら大勢の役人を連れて戻ってきた猟師が、二度と桃花源にたどり着くことはできなかったのです。彼と息子は桃花源を守った英雄として、称えられ、我が王朝の祖と定めています」

「のどかな農村の桃花源に、『王』?」

「ええ。桃花源の現王は私の双子の兄である陶翠波(とうすいは)です。そしてあなたの父は、外界でいうところの宰相である中相・崔志按(さいしあん)


 あまりにも突飛な話に、もう、言葉もない。

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