明度
生温い夜気をからだに受けながら自転車のペダルを漕いでいる。一息、一息、漕ぐたびに灯火が右左にふらふら揺れた。自宅からは自転車で小一時間ほどの場所にある、蛍が出る川を目指しているのだった。さっきまでテレビを見ていたのだが、友人が蛍を見に行ったという話をふと思い出した途端、急に自分も見に行きたくなったのだ。ここ最近は根を詰めて勉強をしていたからその反動もあったのかもしれない。
初めて蛍を見に行ったのは小学校の低学年くらいの時だった。たしか町内会の催しで、近所に住む小学生たちで蛍を見に行くことになったのだったと思う。車は誰かが出してくれたのだろう。蛍を見た記憶はしかしほとんどない。宵闇の中、川沿いの石畳を踏み歩いたことと、初めての場所に気持ちが昂っていたことだけ覚えている。あれから何年経ったのだろう、とふと思い数えてみると、もう十年も前のことだった。もうそんなにか、と感慨にふける。そこに混じる寂しさに似た何かを表す言葉を持っていないことが歯痒い。僕は足に力を入れて、ペダルをひたすらこぎ続けた。
街灯もまばらな山際の地区は、街中と違って濃い闇が辺り一遍に息づいている。近づいた山の輪郭は真っ黒で今にも覆いかぶさってきそうなほどだ。適当な草むらに自転車を停め、堤防を大股で登った。開けた高い目線から水辺を見渡すと、ぽつぽつとあの密やかな緑色が見えた。目が慣れてくるとそこかしこで光っているのがわかる。思わず口から声が漏れた。自分から足を向けて蛍を見に来たというのに、本当に蛍がいたことが驚きだった。その場にそのまま立ち尽くしそうになる。はっと我に返って、しかしいまだその光に吸い込まれそうになりながら堤防の遊歩道に沿って歩く。すると、川へと降る階段と、一際蛍が集っている木陰があった。その階段をひとあしひとあし降りていきながら、自分もまるで誘引物質に引き寄せられる虫の一匹になったような錯覚に襲われた。そして僕は階段の底に辿り着いた。
ゆっくりと明滅する燐光がいっぱいに浮かぶ様はまさに乱舞だった。煙のように立ち昇るかと思うと、雪のようにはらはらと降る。またあるものたちは星のように草の間から光っている。光っては消え、消えては光るその光景に僕は魅了されてしまっていた。辺りは暗い完全な背景になり、ゆらめく幾多の光点だけがかろうじてこの場に現実を繋ぎ止めている。しだいに自分の居る場所が曖昧になり、境界がなくなっていく感じがした。
どのくらいそこに立っていただろうか、階段を降りてくる足音が聞こえた。横目で伺うと、降りてきたのは男性だった。その人はタバコを吸いながら静かにこの光景を楽しんでいるようだった。気づけばどこからか名前も知らない虫の声が聞こえてくる。そろそろこの場所を空けて別へ向かおうかと思い始めた矢先、静かだったその人が口を開いた。
「こんばんは」
「あ、こんばんは」と僕も言う。彼のタバコが仄赤く光っている。
綺麗ですねぇ、とその人は続けた。そうですね、と僕は応える。改めて見たところ四十代から五十代前半の男性で、背筋がしゃんと伸びているのが印象的だった。男性と二人、並んで水面を眺める。光点が一つ、墜落するのが見えた。この会話は終わったのだろうか、終わったのならやはり立ち去ろうと思い始めたところにまたその人は僕に、高校生ですか、と聞いてきた。そうです、と返すと、どこに通ってるの、とまた質問を投げられる。どうやら立ち去るタイミングを逃したようだった。○○高校に通ってます、と告げると男性は驚いたように、○○高校かいと言った。はい、そうですが、と返す。
「僕の娘も○○なんだよ」少し彼はためらうようにして、「君、この名前聞いたことないかな。知ってたらわかるような名前なんだけど」と、苗字を口にした。たしかにこのあたりの地域では聞かない苗字だった。
「いや、聞いたことがないですね」本当に知らなかった。彼はどこか遠くを見つめながら、ため息と共にそうかい、と言った。
「まあ、無理もないね。春に二年生になってからほとんど学校に行っていないし。……そうだ、聞いていなかったね。君は何年生ですか。そう、三年生。じゃあ会うこともなかっただろうね。……三年生だったら受験だね。大変じゃない? 難しいよね。……塾。そうか、やっぱり大変だな。僕の時代はあまり受験受験って今の雰囲気はなかった。小学生も受験する時代だものなあ……」
僕は彼が話す間、適当に相槌を打ちながら蛍を眺めていた。話が一段落つくと、彼は少し恥ずかしそうに、邪魔してしまって済まなかったねと言った。いえ、別に、と言うと彼は困ったように笑い、じゃあ私はそろそろ帰ります、と言いタバコを消して去っていった。
辺りには静けさが残された。墜落した蛍は、ついに再び光らなかった。
自転車で帰り道を辿りながら、頭の中にあるのは会ったこともない女の子のイメージだった。なぜ彼女は学校に行かなくなってしまったのだろう。学校で誰かに嫌なことをされたのだろうか。見えないところで思春期特有の取り回しの軽い残酷さの獲物に選ばれてしまったのだろうか。それともさっき会った父親が本当は子供の心を蔑ろにする酷い人物であったのか。本当は明確な理由などなくて、引き潮にさらわれるように彼女の快活さが決定的に奪われてしまったのだろうか。
すでに本当の理由などどうでもよかった。僕は気付けば彼女から作り上げた想像を弄び、会ったこともない彼女を弄んでいた。頭を振って、それを意識の外に追い出す。自転車が大きく左右に傾いだ。慌ててハンドルを握り直し、前を向く。黒々として真っ直ぐな道に、ぼんやりとした街灯の光が等間隔ににじんでいる。明日、学校に行っても彼女の名前を探しはしないだろうな、となんとなく思った。