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氷の骨

 雪の舞う窓の外を見る妹の横顔に、僕はなんとなく声をかけるのをためらっていた。暖炉の熾火がパチンと爆ぜると、その氷みたいな青い瞳が思いがけずこちらへ向いた。

「兄さん、さっきからどうしたの。なにか仰りたいことでもあるのかしら」

 十二になったばかりとも思えない、ひどく厳しい口調に、僕は一瞬たじろいでしまう。それでもなんとか話を切り出すことにした。

「ねえエリザ、今日は久しぶりにシティの方へ出かけないか。うんと厚着をすれば、きっとこの寒さも平気なはずだ。服でも選んであげよう。それに新しいカフェーが……」

「結構です。あの女には会いたくないもの」

 ぴしゃりとエリザは言った。

「彼女は僕の大切な女性だよ。それにお前のことも随分と気にかけてくれてる。本当にいい人なんだ。どうしても姉さんと呼んではくれないのかい?」

 こんな事を問いかけると、エリザは決まって小さな溜め息をつき、いつも同じように答える。

「私の家族は、兄さんと、後はお父様だけ。それだけのことよ」

 そしてどこか寂しそうに微笑むのだ。

 エリザは、生まれつき体の弱い娘だった。ひどい難産で生まれてきたからだ。そしてその時、母は亡くなった。

 そんな不幸な妹は、満足に友達を作ることもできない。せめてその気持ちを慰めてやろうと、僕は母の本の中から色々な物語を読み聞かせてあげたものだ。特に妖精物語は、彼女の一番のお気に入りだった。

 歳に似合わない利発さは、博物学者の父譲りで、僕なんかよりずっと利口だなんて思う時もある。空想と理性とが、彼女の中で矛盾なく混じりあっている。

 でも、そんな利発さが妹を必要以上にかたくなにすることがあるのを、近頃僕は心配していた。エリザはいつの間にか、僕以外の誰にも心を開かない娘になってしまった。

「そんなことより兄さん。この間の続きを致しましょうよ。妖精はどこにいるのかってお話よ」

 暖炉の燃え差しを火にくべていると、少し俯いていたエリザが妙に明るい調子でそんなことを言い出した。僕の婚約者の話はもうお終いだ、ということだろう。こういう時の妹は、歳相応のあどけなさを見せるのだ。

「イェーツの詩情だって彼らの贈り物。ドイル卿も妖精の写真を見つけなさったわ」

「そうかな。僕はあれは偽物だと思う。多分妖精は、どこにもいないんじゃないかな」 

 僕は、なぜだかエリザの態度に苛立ってしまった。だからつい、にべもない言い方をしてしまう。でもエリザは、それに気がつかない様子で、いつものように色々な国の妖精譚を挙げ、それらが全部嘘だとは言えないのではないかと言った。

「そしたらどうして、昔の貝やトカゲみたいに、骨の一つでも石になって残っていないんだい。エリザ、嘘と迷信は違う。だけど、どちらも本当のことじゃないんだよ」

 エリザは、少し思案顔になって答えた。

「それはね兄さん。きっと妖精は『氷の骨』を持っているからじゃないかしら」

 妖精族は骨が雪や氷でできていて、すぐに溶けてしまうから、跡が残らない。光に透ける氷の骨を持った彼らは、どんな生き物よりも幽かで儚いものなのだ。そんなことを妹は言った。それは確かに美しいお話だった。

 でも今の僕は、その無邪気な言葉を受け入れてやれなかった。いつまでも、空想の世界へ逃げていちゃいけないのだと、ひどく厳しい調子で言ってしまった。

「いい加減聞き分けなさい。妖精族の氷の骨なんてないんだよ」

 エリザは僕の言葉に酷くショックを受けた様子で、癇癪を起こしてしまった。でも僕はいつものように、エリザは賢い子だね、とは言ってやれないのだ。

 気がつくと妹は、唇をきゅっと結び、泣き出しそうな顔になっていた。他所の子達が遊ぶ様子を窓の外に眺めている時のような、悲しい目で僕を見る。そして「でもあるのよ。きっとあるの。氷の骨は」とだけ呟いて、もう何も言わなかった。

 やがて彼女が苦しそうに咳き込み始めたものだから、僕は我に返りお医者様を呼びに駆け出した。青白い冬の日射しに光る雪の中に、妖精族は見えなかった。


「やれやれ、あれはまた癇癪を起こしたのか。無理をさせてはいけないだろう」

 顔をしかめた父に謝ろうとすると、片手を挙げて僕の言葉を遮り彼はこう続けた。

「いや、ひょっとすると都会の環境が良くないのかもしれない。ここは空気も世情も悪い。前から考えていたんだが、ひとつエリザを転地療養へ出すのはどうだろうな」

 友人が南の温泉地でエリザのような子供を預かる施設を開いているというのだった。貴族の子女もやってくるそうだ。

「あれの好きな妖精だ何だという空想の話にしても、田舎の方がずっと豊かだし、そうした環境の方が歳の近い友達もできるだろう」

 どこか言い訳のように父は言う。

「それにお前にばかり苦労をかけてしまった気がしてな。あの娘の母親代わりをさせてしまった。そろそろお前も……」

 自分のことを考えろ、と言いたかったのかもしれない。父にも再婚を考えている相手がいる。でもエリザは、決して新しい母も姉も認めない。だからいっそ、と思ったのだろうか。

 父も決してエリザに愛情がないわけじゃない。しかし亡き母に生き写しのあまりに儚げなその姿に、どう接してやればよいのか分からなくなるのだろう。父はそういう不器用な人間だった。

 そんな父が転地療養と言い出した時、正直僕はほっとしていた。後ろめたさを感じながらも「僕もそれがいいと思います」と答えてしまった。

 父がエリザにそのことを告げると、彼女は何も言わずこくりと頷いただけだった。

 そしてエリザが田舎へ移るのは、ひと月の後ということになった。

 

 それからしばらく経った寒い雪の日のことだった。

「エリザ! どこへ行ったんだ!」

 大きな声を上げ、僕は川辺の路を走っている。大学から戻ると、エリザは家のどこにもおらず、彼女のコートが一着なくなっていた。僕は蒼白になり、すぐに街へ駆け出した。降り積もる雪を恨めしく思いながら、あてもなく街をさまよっている。

 やがて橋の下で、赤いコートを着て倒れている人影を見つけた。ひょっとしてあれは僕が、エリザに選んでやったコートじゃないだろうか。見当違いであるようにと祈りながら駆け寄ったが、やっぱりそれはエリザに他ならなかった。

 僕に抱き起こされると彼女は薄く目を開けた。唇がひどく青白い。そして弱々しく「ごめんなさい」と謝った。

「こんなに寒い日になら、氷の骨がきっと見つかると思ったの」

 そんな馬鹿なことを、と僕が言いかけると、エリザはあの寂しげな笑顔を見せた。

「でも、もしもそれが見つかったなら、きっと兄さんが、私のことまた愛してくださるようになると思ったの。だから、ごめんなさい兄さん。兄さんは、いつも私のこと、こんなに暖かに愛してくださっているのに……」

 僕は何も言えずに、ただエリザを強く抱きしめた。


 その日以来、重い肺病にかかったエリザを僕は必死に看病した。でもお医者様は、妹の命はもう長くはないだろうと仰った。むしろ、この歳まで生きていられたのが不思議な程だ、と。父はすっかり消沈して、食事もろくに喉を通らぬ様子だ。

 寒い日は続く。冬の日射しの中で光る雪は、確かに妖精族が踊っているように見えた。ぼうっとその様を見ていた僕は、はっとしてあることを思い立つ。窓を開け放し、手当たり次第に庭の雪や氷を部屋へ運び込んだ。そうして随分と苦労して『それ』を拵えた。思ったよりもずっと上等な出来栄えだから、エリザは喜んで、元気になってくれるに違いない。

 僕は息を切らして彼女の病室へ駆け込み、お医者様を押しのけ、まくしたてた。

「そら、エリザ。お前の言ったとおりだったよ。妖精族の氷の骨が見つかったんだ。この寒さでね、溶けずに残っていたんだよ。さあ元気をお出し。もっと見つかるはずだから」

 エリザは、わずかに目を開けて手を伸ばす。その手の平へ氷の骨を乗せてやると、妹は微かに笑った。

「兄さん。ありがとう。でも、もういいの。きっと見つからないの。妖精は本当は――」

 言葉はあまりに弱々しくて聴き取れなかった。握った手が開かれると、氷の骨はすっかりなくなってしまっていた。

「ああ、私の氷の骨。暖かいと溶けてしまうの……だから」

 言ったきり、エリザの目は閉じられて、そして二度と開かなかった。

「エリザ。エリザ。ねえ、僕がきっと、本当の氷の骨を見つけてあげる。妖精族を見つけてあげるよ」

 僕はエリザの手を固く握り、約束した。

 窓の外で大粒の雪が降り始めた。それは小さな小さな氷の骨。妖精族の骨。透き通る幽かで儚い命の印。手を伸ばし、百万も千億も降りしきる白い雪の中へと歩き出した。

 その中で僕は今も、本当の『氷の骨』を探している。

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