第8話 おもしろい顔の奴等
ああああああ~!! 最悪だぁ……
やっぱり今日はついてない。
超最悪といってもいいくらいだわ。
私は右手にカツサンドが「一つ」だけ入った袋をぶら下げて、教室へ戻った。
その足取りの重いこと重いこと……これ持って逃げ出したい気分だ。
さっき、並み居る気持ち悪い顔の強豪たちを押しのけて、ようやく掴んだ栄光……
じゃなくてカツサンドだったのに……私の財布は教室のカバンの中。
手持ちは山崎くんの500円玉一つだけだった。
最低価格のコッペパンは80円、お釣りの50円じゃ足りるはずもない。
オロオロしている間に他の生徒が押し寄せて、見る見るうちにパンが売り切れてしまった……
「なんか……余計な体力使って損したなぁ……」
そうだ。
カツサンドの中身は2切れ有るんだし、山崎に交渉して一つ譲ってもらおう! そのくらいお願いしてもいいよね。
気を取り直して教室に戻り、山崎に戦利品を手渡す。
周りの男子数名がざわつき、こちらを見ながら席から立ち上がろうとした。
「んベロベロベロ!!」
わー!?
受け取った途端、山崎くんは中身をまんべんなく舐め回した!!
するとさっきの男子たちは、舌打ちしながら席へ戻っていく。
そうか、山崎くんは彼らからカツサンドを奪われないよう守ったのか。
もちろん私もいらない。
こうなったら仕方ない。
我が親友よ、君のお弁当を一口……って、あれ? 居ない??
席に戻ったら、置き手紙が有った。
{ルナへ、今日は用事があるので早退します。また明日ね}
ガーン!!
彼女は時々こうやって、自分の特権を利用する。
先日も、風邪を引いたシングルマザーに代わって、子供の送迎を引き受けていた。
立派なことだよ、うん。妹尾さんがイイねと言ってます。
本気で悲しくなってきた。
後ろの席では山崎がウマイウマイと騒いでいる……
もう腹ペコで怒りも湧いてこないや。
私はカバンから今朝家から持ってきた「宅配専用」と書かれたビン入りの牛乳を取り出した。
うん、賞味期限は問題ない。
今日の昼食はこれだけ……ダイエットと思って諦めよう。
「諸君。昼休み中に失礼するよ!!」
牛乳を口に含んだ途端、入り口から聞き慣れない声。
振り向くとそこに「馬」が立っていた。
「んぐむぉ!!」
危うく吹き出しそうになって口を抑えた。
もう一度確認しよう。
人語を喋っていて、二本足で立っているし、男子の制服を着ている。
しかし顔は馬だ、いやいや騙されないぞ、でも腕も二本生えている。
どうやら馬じゃなく、人間とのハイブリッド生命体?。
噂に聞いた「草食系男子」ってやつか? 半人半馬のケンタウロスっていう生き物はこいつだろうか?
もちろんそんなはずは無く、顔が長くて出っ歯の見事な馬面の男子だった。
こいつはヤバイ、山崎級のおもしろい顔だ。
彼は入り口に立ったまま、教室内を見回している。
私は口の中の牛乳が飲み込めなくなった。
腹筋が小刻みに痙攣する……つまり、声を殺して笑っているわけだが、これでは満足に呼吸できない。
パックの牛乳ならストローで元に戻せたのに、苦しい! お願いします、早く帰って!
そっと目を逸らし、鼻から深呼吸して落ち着いて、ゆっくりと牛乳を飲み込もうとしたその時……
「妹尾さんって、今居るかな?」
「んぐふぅ!!」
喉まで落ちかけた牛乳が逆流してきた!
幸い、吐き出すまでには至らなかったけど、今動いたら吹き出しそうだ。
皆の視線が私に集まる。馬くんもそれに気付いたらしい。
どうしよう、近寄ってきた!
お願い、そんなおもしろい顔を私の前に持って来ないで!
「やあ、さっきは驚いたよ。噂には聞いていたんだが、まさかあれほどとは……
ああ、僕のことは知ってるかな?」
知らんわ!
さっきって事は、ひょっとして購買部前で競争していた?
てか、そんなのどうでもいい。
私はとにかく首を左右に振って関わりたくないアピールをした。
「自己紹介させてもらおう。僕の名前は如月風馬、風の馬と書く、陸上部の部長で――」
「――ん……ぶぅ!」
ダメ! 名前も「馬」かよ、この!
誰が名付けたんだ、親連れて来い親ぁ!
腹筋が激しく痙攣して呼吸が出来ない、このまま窒息死って有るの?
お願いだから誰か助けて!
「おい! 貴様。妹尾に何の用だ!?」
山崎くんが割って入る。
ちょっ! 待って、あんたまでこっち来ないで!
そう思ったところで心の声は届かない。
彼は立ち上がり、馬くんの隣に並んだ――。
やめてぇ!
目の前におもしろい顔2つも並べないでぇー!!
「なんだ。野球部の顔面妖怪じゃないか。君に用は無い、僕は妹尾さんに会いに来たんだ」
「ふん!如月、お前が何を考えているかはわかっている。妹尾をスカウトしに来たんだろう? そうはさせん、とっとと厩舎に帰れ」
何か言い争いが始まった、悪いけ知ったこっちゃない。
私は口の中の牛乳をどう処理するかで頭がいっぱいだ。
しかも悪いことに、唾液が混ざりこんで口の中は絶賛増量中!
迂闊に呼吸すると、痙攣しっぱなしの腹筋が暴走して、一気に口の中身をぶちまけるだろう。
その瞬間私は『ゲロ女』とか『噴水』とかのありがたくない二つ名を襲名しなくてはならない。
こんな時なのに、パパが以前埼京線で見かけた酔っぱらいの話を思い出した。
それは飲み会の帰りのこと。
満員の終電の中で、スーツ姿の青い顔をした紳士が突然自分の書類ケースを開き、「うをええええ」と吐いた。
それを見たパパは「ビジネスマンの鏡だ!」と思わず敬礼をした……って、私は自分のカバンにそんな事したくない!!
うは、頭がぼーっとする、目がくらくらしてきた。
やばい、本格的に酸欠かも……
そうだ、このまま残りの牛乳を床にぶちまけて、そこに倒れればうまく誤魔化せるんじゃね? うん、良いアイデアだ、そしてそのまま保健室に――?
誰が連れてってくれるんだろうな? 千鶴は居ないし……って!? 山崎ぃ!?
そうだ、千鶴が居ない今、私を介抱する可能性が一番高いのはこいつだ!
それだけは避けなければ。
私は意識だけは手放すまいと必死に堪えた。
山崎がまともに介抱してくれるわけがない!
きっとここぞとばかり、色んな所を触りまくるに違いない!
想像するだけで鳥肌が立つ。
「貴方達、何を教室で騒いでいるのですか!?」
意外な助け舟。
いや舟というより豪華クルーズ船って感じの静香が現れた。
クラス委員長の面目躍如ってやつだろうか?
とにかく助かった。
「うるさいな、花山院。これは僕とこの府中競馬場から脱走してきた競走馬の妹尾を賭けた戦いなのだ! お前が入り込む余地など無い!」
「わたくしだって、貴方がたの争いに入り込むつもりなど有りません。
ですが、白昼堂々殿方が大声で争っていては、他の方が迷惑です。ここはクラス委員長の立場として、貴方がたに注意を与えに来たのです」
おおい、私だって入りたくない!
てか、迷惑してるのは私よ!
ともかく彼女の乱入で落ち着けた私は、口に溜まった牛乳を飲み下す事ができた。
そこだけは感謝するわ。
「おいおい、ちょっと待ってくれ。僕はただ、彼女と話がしたかっただけだ。
そこにこの試合に出れない副部長が因縁ふっかけて来ただけだ」
「ふん! 僕は野球部のブレーンなのだ! お前など短距離専門の競走馬の分際で。
わかったら世田谷の馬事公苑でハードルでも跳んでろ」
「妹尾さん! あなたの所為で、混乱しているのですよ。なんとかなさい!」
ええ? 私のせいなの?
でもしょうがない。
馬くんの競争心を煽ったのはたぶん私なのだろう。
意を決して立ち上がり、馬くんの顔を見た。
「ぶふ!!」
慌てて口を抑え下を向いた。
駄目だ、おもしろい顔だ。
山崎と違って新鮮味があり笑いを堪えられなかった。
馬くんはきょとんとしていたが、山崎は何か対抗心を燃やしている。
黙っていると、また誰かが発言してややこしくなりそうな空気だ。
私は下を向いたまま、右手を前に突き出し静止を促すポーズをする。
皆わかってくれたようで、沈黙で応えてくれている。
落ち着きを取り戻した私は話をすることにした。
もちろん顔を下に向けたままだ。
「あ、えっと……馬さんは私に何の用なんですか?」
「う、馬じゃない! 風馬だ、如月風馬! 陸上部の短距離選手だ。まあいい、話が進まなくなる。
用とは他でもない、わかっていると思うが君の「走り」についてだ」
「むふ。やはり妹尾の「お尻」についてか、貴様もなかなかマニアだな。だが、僕も否定はしないぞ」
山崎は薄気味悪い笑いとともに、話に介入しようとしてきた。
あんたは関係ないでしょうが、引っ込んでろ。
「だ、何を言う、山崎。ぼぼぼ僕は、そう彼女の「脚」に関してだな……」
「ふははは。そうか、さすがは陸上部。「脚フェチ」だったのか。
どの辺が好きなんだ? 足首か? ふくらはぎか? ふとももか? それともその――がはぁ!!」
とんでもない事を言い出す前に、椅子でぶん殴った。
周りがしーんと静まり返る……足元に転がった山崎は気を失ったようだし、これで話が先に進むだろう。
「さあ、話を戻しましょう。えと……私遠回しな言い方好きじゃないのよ。
用件だけスパーっと教えてくれないかしら?」
馬くんは一瞬の戸惑いを見せる。
正直、私は話術とかに引っかかりやすいし、交渉事も苦手だ。
のらりくらりと不利な立場に持って行かれたらたまらない。
この前、家で留守番中に新聞やら牛乳やらの勧誘員が来て、断ったつもりなのに新聞三社に牛乳とヨーグルトが合計6本届く事になった苦い経験がある。
「じゃ、じゃあ。単刀直入に言わせてもらおう。今からでも遅くないと思う、陸上部に入って貰いたい。君の脚なら世界が狙える!」
あ~、やっぱりそう来たか。
もう2年も終盤なんだから、いい加減あきらめてほしいな。
実際さっきの走りは自己ベストだと思う。
計ったわけじゃないけど、100メートルなら10秒台前半は軽いだろう。
だから普段、体育の授業ではちょっと力を抜いて12秒台にとどめているのだけど、それを見た陸上部の顧問からも「フォームを矯正すれば、11秒行けるぞ!」などと暑苦しく勧誘されたっけ。
「あら。良いお話じゃありませんこと? 今からでも幾つかの大会に間に合いますし、そうすれば貴女もスポーツ系の大学で特待が取れますわ。
貴女の汚名も返上できるうえに、我が校初のオリンピック選手という名誉も得られるのなら、考えるまでもないでしょう?」
だが断る! と言う前に、静香が茶々を入れて来た。
私は自分の速さは知ってるし、全力で頑張れば、オリンピック出場は余裕だとわかってる。
けど、学校の為っていうのが気に入らない。
何より、万が一にもうっかり「本気」を出してしまわないかが怖い。
その場合どうなるかは想像もつかない……アメリカ遠征中に行方不明とか……
なにより、私は目立ちたくない。
オリンピックや箱根駅伝なんて、家でのんびりテレビで見るものだ。
参加なんてゴメンだよ。
「わかったわ。陸上部に入ってもいいけど条件があるわ」
「おお、それはどんな条件なんだ?」
「砲丸投げをやらせてもらおうかしら」
「……からかわないでくれ」
馬くんはムッとした。
まあ、受け入れられないのは当たり前だよね。
からかったのも正解だし。
「じゃあ、放課後勝負しましょう。場所は校庭で、あなたが私に追いついて、捕まえる事がことができたなら言うこと聞いてあげるわ」
と言いつつも、速攻でバックレようと考えた。
勝てる自信はあるけど、後々面倒くさそうだし。
「なっ!! 何でも言うこと聞いてくれるだってー!? ややや約束だからな! わ、忘れんなよー!!」
あ、あれ?
なんか馬くんのテンションが異常に高くなった気が……
しかも私のセリフを変に解釈してそうな、いやな予感がする。
馬くんはそのまま奇声を上げながら帰っていった。
静香は軽く微笑みながら言った。
「良かったですわね~、これで貴女も進学の目処が立って。頭のぶんの栄養が脚に行ったことに感謝しないと」
「たく……どうしても一々突っ掛かるのね。ま、良いわ。助かったわ、ありがとう」
「……え? 何の話ですの?」
静香は私の言った意味がわからなかったらしい。
けど、本当にさっきは助かった。
危うく大恥かくか窒息するところだった、素直に感謝する。
床の上では山崎くんが、轢かれたカエルみたいにのびていた。
もちろん誰も助けようとしないばかりか、足で小突いてみたり顔にマジックで落書きしたり、挙句の果てにレジ袋に包んだゴミを顔や身体の上に積まれはじめた。
わりと嫌われ者だったようだ。
山と積まれたゴミ袋に囲まれて、幸せそうに眠っていた彼が目を覚ましたのは、放課後のことだった。