真っ暗なこの部屋
「例えば、この世界に創造主が居て、私達は盤上の駒だったとしたら」
そう言って彼女は笑った。
「君がゲームをしていれば、君がそのゲームという盤上の神。ゲーム内のキャラクターはもしかしたら、ここではこの行動を取ろうと考えているかもしれない。だけど、それは君が選んだコマンド通りに動いていて、それを自我だと錯覚しているとしたら」
【真っ暗なこの部屋】では、目の前に座る彼女は見えない。もしかしたら高貴な家柄の出かもしれないし、普通の女性かもしれない。
「文章と言うのは、単語が書き手に隷属させられて文節にされ、さらに文章に変換されているね。つまり、本でも書き手は神になれる」
時々聞こえる飲み物を啜る音と、食器が擦れる音が耳に入る。
ふと、自分が食事をしていることに気がついて、パンを一つ手に取った。
「私達がこうして話をしているのすら、誰かの選んだコマンドか、誰かが考えて書いた文章の一文一文ですらしかないのかもしれない」
「そう思うと滑稽だよ。だって、その誰かまでもが他の創造主に従わされているって考えたら、終わりが見えない循環論法になってしまうんだからね」
「あんたは、どんな人間なんだ?」
【真っ暗なこの部屋】で発された言葉は、きちんと自分の思惑通りに届いてるかは分からないが、どうにか声だけは彼女に届いたようだ。
「さぁ、どんな人間だろうね。名詞だけなら答えられるけど、名詞すらも誰がどのように考えたのか分からないのなら、それは私という人間の説明とはなりえないかもしれない」
「それに」と付け足して彼女は足を組みなおして、訊く。
「君こそ、自分がどういう人間なのかを証明出来る術はあるのかい」
彼女の前提条件から言えば、確かに名詞しか説明できない。
【真っ暗なこの部屋】では、自分をきちんと説明することすら出来ないようだ。
「仕方ないね、だって例えばそう。テレビの仕組みを君は説明できるかい。どうやって電源が入り、画面が映るのか」
「……出来ないな」
「分解すれば少しぐらいは解明できるだろうね。でも、現時点で私達はテレビの稼動の説明が出来ない。だったら、他人から中には人が入っているとか、魔法で動いてるなどと言われても信用するしかないだろうね」
「情報があれば分かる簡単な事なのに、情報が足りなくて分からない。まったく困った世界を創ったものだね、この世界の神は」
「まさに【真っ暗なこの部屋】の事じゃないのか」
【真っ暗なこの部屋】は、テレビの中身の話と同じだ。情報が圧倒的に少なくて説明することが出来ない。主観的な理論が展開できない。かといって、彼女への客観的な理論すら、情報が少なくほとんど展開できない。
人間はそういった展開できない理論、つまり手を尽くして答えが出ない物を恐れ、敬った。
そして、神が生まれた。
こう言えば、神が人間の後に生まれたように聞こえる。実際、人間が居るから神や宇宙の存在を説明できるのだから、人間が神であるという説もある。
だが、それだと人間が一番最初に生まれた原因を創ったという理論と矛盾してしまう。
「もしかしたら神は居るのかもしれないし、居ないのかもしれない。だけど、猫を箱の中に放り込んでしばらくして開けたら、どうなっているのか解らないように。神が存在してるのかどうかもまた、分からないんじゃないか」
「そうかもね。だからこそ私達は考える力を持っているんじゃないかな」
「考えてどうする。相対性理論でも理解するつもりか」
「この世界の主観について説明できるのと相対性理論の理解に対した違いは無いと思うけれど。それに、相対性理論はいつかこの世界の科学で解明できるんじゃないかな」
さほど興味が無いのか、彼女は嘆息する。
「そもそも、相対性理論なんてのは、そう、さっきのテレビの話で同じような話をしているのと同じなんじゃないかい。結局主観の問題だよ」
「なら、例えばだ。宇宙はビッグバンで今もなお、理論上では膨張しているんだろ。球体上で広がってるのか、不規則に広がってるのかは知らないが」
彼女からの言葉は無い。
続けろという沈黙だと判断し、続ける。
「広がっているのは宇宙。なら、宇宙になる前の場所は何なんだ。そこが、異世界かもしれないじゃないか」
「……ふぅん、確かに。それで相対性理論が説明できるかもしれないね」
でも、と区切りを入れ彼女はテーブルからマグカップを手に取り、口元に持っていく。
「それも結局は、情報が足りてないんじゃないかい」
マグカップがテーブルに置かれる。
「そんな事を言っていたら、何も説明できないんじゃないか」
ふと出た反論に彼女は、「そうかもしれないね」と笑った。
「答えなんて人間ごときが見つけるなんて、畏れ多いのかもしれないね」
「それは神が居たら、の話だろ」
「君はなかなか話が分かってくれて良いね」
そう言って途切れ途切れに「くっく」と笑う。
彼女の笑い方は変わっている。いや、それも主観の違いなのかもしれないが。
「神が居ないとしたらそうだね、答えは無い。数学的に言うと解なしってところかな」
「解なし、ねぇ」
そう呟くと彼女は足を逆に組みなおした。
彼女はどうやら、こちら試す時に足を組みなおすような癖があるようだ。
「……数学的に言うなら、解なしってのは実際には存在しないが、数学上では存在する解を指すんじゃなかったか」
こちらの答えに満足したのか、彼女は若干声を張って発言する。
「その定義が完璧に正しいかは定かではないけれど、そうだね、私が期待した通りの回答だよ。やっぱり君は面白いね。興味が湧いてくるよ」
「そりゃあ、どうも」
「はて、私は結構これでも褒めてるほうなんだけどね。……まぁそれはそれとしよう。
私は、神がいないと答えは無いと思うよ。だって、そうだろう。考えてみてご覧よ、神はなんでも知っているんだろう。なら、君が例えば何かを人生に何回したか、何てことも知っているんだ。そして、全ての回答を握っているんだろう。君が人を殺したとする。それを悪と判断するのも、正義だと判断するのも神なんだ。けど、神が居なかったなら。一部は君を殺せと言うかもしれないし、また一部では仕方がないから無罪だと主張するかもしれない。どっちが正しいか、そんなのはやっぱり主観だよ。答えは、ない」
彼女は一通り喋ってから、喉を潤すためにマグカップを口元に運ぶ。
「物騒な例えをしてくれるな……」
「例えだよ、気にしないでくれていい。しかし、気に障ったなら謝ろう。すまない」
空白を開けてもう一度彼女に言葉を投げかける。
「けど、それだと、神が居ても同じなんじゃないのか」
ぴくり、と彼女の指先が反応する。
「どうしてそう思う」
今度は本当にどうしてか分からないようだ。
腹を空かせて釣り針に食いついた魚のように、大げさに食いつく。
「神は何でも知っていて、答えを持ち合わせてるんだろ」
「そういうことだね」
「なら、神は一部一部の思想も把握してるって事だろ」
「……そうだね」
【真っ暗なこの部屋】では、思考を停止してはいけない。いくら情報が少なくても、情報にどれだけ信憑性がなくても、人間や言葉の真贋を測れなくても。
解らない現象を神聖視し、神がしたものだと崇め、思考を停止する。
それは、死と同じだ。
だから考えることをやめない。解らなかろうが、答えが出なかろうが。誰かに押し付けられようが、罵倒されようが。死んだ理論を展開するぐらいなら、その理論を根底からひっくり返してやれば良い。
「だったら、神ってのは全ての思想を持ってるって事だ」
解らないことを押し付けすぎた神は、事象を語るには取るに足りないほど、薄っぺらく、ボロボロの雑巾のような空論になっている。
神の定義が全知全能か。懺悔をすれば助けて貰えるか。
「全ての人間の考えがまとまっていて、答えは出るのか」
彼女の組んでいた足が、するりと組み外れていく。
「あんたが言った主観の問題。それこそ、神なんてのはそのまま主観の問題だ。一人一人考える善悪が違うのなら、その真贋を図る神も、複数居ることになる。だから、神が存在していたとしても、神の答えは変数のように不確かで、個人個人が納得できるような回答は存在しない」
組み外れた彼女の足が、小刻みに震えている。
よく見れば、彼女は腹を抱えて笑いを堪えていた。
「最高だよ。まさか全知全能を逆手にとるなんてね……。君とは、仲良くできそうな気がするよ」
しばし笑った後、彼女はゆっくりと立ち上がる。
互いに立ち上がり、議論を交わして理解しようと歩み寄って、ようやく【真っ暗なこの部屋】で、彼女が認識できた。
そして、こちらもまた、彼女に認識されているのだろう。
「君は、こんな人間だったたんだね」
「あんたは、そんな人間だったんだな」
彼女はゆっくりとこちらに歩み寄り、俺の足先から顔までをゆっくりと見渡した後、俺の手をゆっくりと握った。
「くっく、人に自分から触れるなんていつ以来かな」
片手で口元を拳で覆って笑い、もう片方の手で俺の手を握る彼女。
彼女の体温が、伝わってくる。
「いいよ、君は【真っ暗なこの部屋】の酷さを知っているんだね。私は今、非常に感動しているよ。これは情愛に分類されてもいいのかな」
「【真っ暗なこの部屋】が狂っていることには賛同しよう。あんたと話すのは確かに面白いな」
「私はね、考えを放棄するのが嫌いなんだ。いや、恐れてると言ってもいいかもしれない」
少し、俺の手を握る力が強くなる。
「私は君のような人を探して居たんだよ。私の考えが理解できて、その上で意見できて、私の考えを覆せるような人を。上辺だけで他人と話すのは、会話とは言わないからね。私は人間の、率直に出た思考で会話したかった」
人間像は作れる。感情を押し殺し、表情を見せず、言葉を調べたりして台詞を考え抜いて作れてしまう。
それはコンピューターのようで、入力したことを淡々と処理しているだけにも見える。
「【真っ暗なこの部屋】じゃ、お互いを理解することは難しすぎる。人を理解するには、まず自分を理解してもらわないといけないけれど、私はそれが……」
「あんたは怖かったのか」
彼女は、問いかけに首の動きだけで答える。
理由を聞くことに意味はないのだろう。なぜなら、俺も同じなのだから。
「俺もあんたと同じだ。怖い」
「……どうして。私は【真っ暗なこの部屋】に絶望する理由があるよ。でも、私には君の苦悩が分からない」
「俺だってあんたの絶望する理由は分からない。だからこそ、俺とあんたは同じなんじゃないか」
【真っ暗なこの部屋】で、やっと一つだけ答えが見つかった気がする。
俺は、ゆっくりと彼女を抱きしめる。
安堵したような呼吸が聞こえ、彼女もまた、俺を抱きしめる。
「こんな【真っ暗なこの部屋】でも、これまで生きてこれたんだ。あんたも、俺もまだ生きていけるだろ」
彼女は数秒間空白の時間を空け、
「君が、一緒なら」
今までとは違う、ふんわりとした声が耳に届く。
それは彼女の本心で、作られていない本当の声だったのだろう。
彼女の手を、強く握る。【真っ暗なこの部屋】で傷つけられ続けた、壊れそうな柔らかな手のひらを。
「ああ、俺とあんたで、だな」
【真っ暗なこの部屋】の中は、どれだけ広いかも狭いかも自分の主観でしかない。
自由はあるかもしれないし、無いかもしれない。答えはあるのかもしれないし、無いのかもしれない。
けど、答えが無くても関係ないんだ。だって、【真っ暗なこの部屋】の答えは、自分と、自分が信じる者が出したものこそが正しいのだから。
何度も社会に、人間関係に、【真っ暗なこの部屋】に潰されかけた。
何度も【真っ暗なこの部屋】から飛び立ってしまおうとも考えた。
けれど、もう一度だけ、彼女と歩んでみよう。
【世界】と言う名の閉ざされた部屋を。