第二章 リージェント・ストリートの大天使 ~1~
暗闇と静寂が、室内に佇んでいた。
時刻は間もなく七時に届こうとしている。それでも、暗闇が幅を利かせているのは、日の光が入らないためだ。
と言うのも、部屋に設けられた、ただ一つの窓は西に面しており、北半球の都合上、朝日が差すことはない。
その構造上における都合は、静寂にも繋がっていた。入居者が、朝の日差しに叩き起こされることがないからだ。
入居者の対岸には、書棚があった。
煙るような薄闇の蔓延りが、全てを覆い隠すかの如く覇権を握っているため、よくよく目を凝らさなければ、書棚の住人は見えない。
だが、たとえ書棚に陳列する彼ら、彼女らの背表紙に気付いたところで、日常生活には何の変化もないだろう。
書物類は、とてもマイノリティな世界のものだからだ。
ある一つの辞典の名前は〝悪魔辞典〟。そのお隣さんは〝天使辞典〟。更に〝魔法円〟と続いている。
一部の専門家ならば。あるいは、創作関連の職に就いているとしたら、興味を持つ人もいるし、需要もある。
ともすれば、この部屋の住人はそうなのかもしれない。
窓の直下にある故に、比較的明るいデスク。開かれたノートブックには、五芒星や六芒星が描かれている。
つまり、入居人はそうなのだ。マイノリティなのである。
ベッドの上では、灰色の髪を持った青年と、黄色い髪の少女が、静かに寝息を立てていた。
朝はそこまで来ている。
〝ティンカー・コードウェル〟と〝ララ・バッテンバーグ〟の学園生活が、今日も始まろうとしていた。
ここは〝アントロポソフィー学園〟の〝西の棟〟。二〇三号室。
☆ ☆ ☆
まどろみの中を漂っていた。
それは、ようやく手に入れた、熟睡と名乗る平穏。いや、誇大表現が過ぎる。生物ならば当たり前の生理的状態だ。
ただし、一日目を黒星でスタートして、二日目も惨敗だった自分にしては、声を大にしたいほどありがたい。
ああ、何故に神様は、オレの性欲を睡眠欲より優先されたのだろう。と、半ばノイローゼになりそうだったから、当たり前とは恵まれたものだ。つくづく思う。
失神するような形で、ぶっ倒れた三日目以降、免疫でも付いたのか、今では睡眠をちゃんと摂れている。
慣れとは恐ろしいものだ。と良く耳にするが、有効活用したら非常に優れた機能だ。現にこうして、惰眠を貪れるのだから。
「……う……ん」
優しい睡魔に惑溺する中、手持ち無沙汰さを覚えて寝返りを打った。
「…………ん?」
おかしい。眠りの浅いレム睡眠だからだろうか? 違和感がする。
寝返りした後の腕が何か暖かい。プラスアルファ。何か柔らかい。
気の所為か良い匂いがするし、どう言う訳か、頭の片隅で警鐘が鳴っている気がする。その警戒音に引き寄せられるように、覚醒が来た。
――薄ら開いた目が捉えたのは、黄色い癖っ毛と長い睫。閉じられた瞳とあどけない顔付き。
つまり、
「ひわああぁぁ――――っ!?」
ララがいた。
余りの驚きで、全身の毛が逆立っているのだと、錯覚してしまう。加えて、実質的に寿命が縮まっているかも知れない。
恥辱と驚愕が二対一くらいの絶叫で、ララもまた目を覚ました。
彼女は、まだ焦点の定まらない水色の瞳で、急遽後ろの壁に背中を預けたこちらを、見詰めている。
後に上体を起こして、クシクシと目を擦って、また見詰めた。
「何でティンカーが、ワタシと同じベッドにいるの?」
――それはオレが聞きたいっ――!!
ツッコミどころが多過ぎる。タスク処理で精一杯なため、逆に言葉が出なかった。
寝惚け眼のララは、事情を把握したように、ハっと目を開き、
「これは、世に言う……」
言った。
「ワープ現象?」
「ちげぇよっ!!」
何を真顔でボケているんだ。事情をサッパリ把握してねえ。ただ、色ボケな方に傾倒しなかったのは、心の底からありがとう。
「どう考えても、ただ単に、ララがトイレから戻って来た時辺りに、寝惚けてオレのベッドに不法侵入しただけっスよ!!」
「……ティンカー? 女の子にトイレから戻って来た、は、失礼」
「失礼の判断基準を修正しろぉ――っ!!」
などと言い争っていると、全く間が悪いことに部屋の扉が開く。開扉したのは、二人のメイド。〝クック〟姉妹だ。
「ティンカーが、ララを襲っているぞお!」「いかがわしい行為に及んでいるぞお!」
双子サーヴァントは、凍り付いた自分とララを見て、不都合にも誤解した。
「違うっ!! 状況、性別ともに明らかにオレが不利だけど、被害者なんスよ!! オレはっ!!」
「テレサさんにチクるぞお!」「今日から、ティンカーのご飯は〝アフタヌーン・ティー〟オンリーだぞお!」
「オレは無実だあ――っ!!」
今日もまた、疲弊に満ちた学園生活が始まりを告げた。
それは、入学してから九日目の朝。
☆ ☆ ☆
……朝っぱらから酷い目に遭ったなあ……。
心的疲労から猫背気味になりつつ、アントロポソフィー学園〝本校舎〟の廊下を、トボトボと歩いて行く。
クック姉妹は、弁明に弁明を重ねた結果、
「ティンカーはヘタレだし、そんな勇気ないかあ!」「ゴメンなあ! ティンカー! ヘタレには出来ないよなあ!」
と釈然としない理由だが、誤解であると分かってくれたらしい。
取りあえず泣き寝入りしたいが、三食抜きを回避出来たから良かったよ。オレ。元気出せ。
そうセルフトークを繰り返すが、一週間+二日で、ここまでストレスが嵩むと、未来に希望が見えない。
もう、交感神経が過労死するんじゃないだろうか? そんな不吉な末路が頭を過ぎるのは、〝ルームメイトが過激だから〟だけではなかった。
「今日も、意味不明な授業を受けないといけないんスねえ……」
深く、大きく嘆息する。
溜め息くらいは大目に見て欲しい。これから自分は、酷く常識の欠けたカリキュラムを、こなさなければならないから。
例えば〝天使学〟では、〝黄道十二宮〟。即ち、十二星座に対応する〝天使〟の暗記。
例えば〝悪魔学〟では、〝七二悪魔〟の地位・業務・能力を学ばねばならない。
〝呪文詠唱〟に至っては、
『霊よ。現れよ。偉大な神の徳と知恵と力と慈愛によって、私はお前たちに命ずる』
などと、真顔で朗読しないといけないのだ。
事情を知らない者から盗み見されたら、一種の病と称されるだろう。
ちなみに、本日最初の授業は〝個別授業〟で、魔術道具(?)の〝ソロモン王の指輪〟とやらを作らなくてはならない。
しかし、未だに自分は半信半疑だ。いや、〝半疑〟だとハーフ・アンド・ハーフだから、正確に表記するなら九割は疑っている。
仕方ない。自分は、近代科学が支える社会で生きて来た、現代人だ。
アンティークな古本を〝原論〟に、魔術を信じるのは、難しい。
「おはよう! ティンカー!」
背後から挨拶を掛けてくれたのは、新たな友人ルドルフだ。
「ああ、はよっス」
振り返ってみたら、彼はギョっとした目付きでこちらを見ている。
「あ、あれ? ティンカー、やつれた?」
その面持ちが意味するは、心配そのもの。
余程こちらの顔付きや口調、雰囲気が病んでいるように映ったのだろう。疲れてる? ではなく、やつれた? を選んだ訳だから、相当酷いんだと思う。
「い、いや。ちょっと、ルームメイトといざこざがあっただけスから」
だから、空元気に笑みを作った。
もちろん、朝起きたら横にルームメイトが……。とかは流石にスパイシーだろうし、言わない。
「ところで、一時間目は〝個別授業〟スね? ルドルフは、どんな授業受けるんスか?」
「ボクの貰った〝オカルト哲学〟は、〝自然魔術〟とかの魔導書らしくてね? 〝自然科学〟を学べるみたいなんだ! 初め、魔術がどうのこうので不安だったけどさ!」
「……良いなあ、真面そうで……」
「あ、あれ? ティンカー、やっぱりやつれたよね!?」
ルドルフがどうして良いのかと、オロオロしている。
こちらの空元気が、羨望の感情で木っ端微塵だからだろう。
ゴメン、ルドルフ。でも許してくれ。羨ましいものは羨ましいのだ。
元来、体育会系一辺倒な自分だから、科学は高尚な学問にカテゴリーされ、とてもじゃないが理解出来ないだろう。
それでも〝魔術〟と比較評価したら、〝科学〟はとても現実味を帯びていて、日常が侵略されつつあるこちらとしては、何でオレの魔導書は、自然魔術のやつじゃないんだ? と僻んでしまう訳だ。
「そ、そうだ! 今日は土曜授業で、午後からは空いてるよね? 〝リージェント・ストリート〟が近くにあるし、ストレス発散しない?」
ここ一週間で、最もありがたみのある提案だった。ああ、今、ルドルフが地獄に現れた救世主に見える。
「良いっスね! 行こう! 是非行こう!!」
「それじゃ、午前の授業終わったら、お昼ご飯でも食べに行こうか!」
「おう!」
〝基礎教育〟の教室へ向かうルドルフに手を振って、〝作業系〟の教室へと歩を進めた。
今日を駆け抜ける支えが出来たことに、感謝しながら。




