第五章 ティンカーの先輩 ~5~
ティンカーは、ただ駆けていた。
息を切らしながら、玄関口を潜り、そこから左回りに、本校舎の周辺を走り抜ける。
途中から、謎の光が大地に輝いたが、自分の足を止める理由にはならない。
ララを取り戻す。
それだけのために、彼女の下を目指した。
やがて、校舎の影を抜けると、四つの姿を視界に捉える。
「ララ――っ!!」
思い人の名前を自分が叫んだ刹那。大気が震えた。まるで怒り狂った霹靂が、空を叩き鳴らしているような、衝撃音。
振り返り仰ぎ見ると、背後の学園本校舎。その一階から三階に掛けての教室内で、詳細は分からないが、非常ではあると断言出来る事態が起こっていた。
天使と学生の全面抗争。
窓ガラスの一枚も破砕していないことが、奇跡だと思える。
「これが〝真のクルセイダー〟であるよ。コードウェルくん」
悲願を達成したような、満たされた声がした。
「詠唱の代行によって、魔導書から解き放たれた、天使の軍団。それを、〝天使使役〟の術式で私の配下に加えているのだ。――その儀式は、ララが整えてくれた」
頭を戻すと、穏やかな微笑を浮かべるバベルがいた。その満足げな表情が癇に障って、歯軋りをする。
「キミの魔導書なら、数秒程度の時間稼ぎは出来るであろうが、な」
「……何がしたいんだ、あんたはっ!! 平和を乱して、ララを利用して……!!」
「人類を滅ぼしたいのだよ」
――一瞬。自分の時間が静止した。
「私は辟易としているのだ。平和を掲げながら殺し合う、愚かな民衆に。この〝真のクルセイダー〟は、私が目指す〝千年王国〟の縮図である」
ただ、原因となった感情は、決して冷たいものではなくて、
「天使だけが存在する王国。素晴らしいであろう? 〝善〟なる生命体のみの世界だ」
狂気すらちらつく、憤怒によるものだ。
うっとりとした、恍惚の声色はもはや耳に届かず、代わりに聞こえたのは、何かが弾けるように切れた、音。
「何様のつもりだっ!? テメェ――っ!!」
とにかく殴ろうと、無意識が叫んでいた。その叫びに従い、石畳を蹴る。
ティンカーは、自分の体を突き飛ばすように、駆けた。
「我の存在を、忘れられては困るな」
進行方向に、邪魔者が現れる。〝大天使の右腕〟グレイテル。
「お前一人で何が出来るか。見せて貰おうではないか」
構える右腕が光を帯びた。〝大天使ミカエル〟への肉体化。その力は炎。圧倒的熱量のプラズマの生成。
先日の対戦にて、その危険性は身を以て知っている。だが。いや、だからこそ、勝機が見えていた。
――こっちだって遊んでいた訳じゃねぇんスよっ――!!
剣を引き抜くような動作で、右のブックホルダーから魔導書を取り出し、適切なページを開く。
『ミカエルと呼ばれしものよ! 汝の仕事は大気のプラズマ化だ! 偉大なる神の名において、第七天に帰ると良い!!』
ティンカーは、グレイテルの力を体験していた。だから知っていた。彼の能力の実体。〝名前〟も〝能力〟も。
後は、大天使用の、適切な〝呪文〟を探すだけで良く、その時間も豊富にあった。
〝封印〟を司る、〝ソロモン王の遺言〟の儀式に必要な要素は、揃っていたのだ。
幻のように、プラズマの奔流が息絶える。
「――――っ!?」
少なからぬ動揺を見せながら、グレイテルが再度掌を突き出す。もちろん、何も生じなかった。
彼の能力〝大天使ミカエル〟は、封印されたのだから。
――オレの勝ちだっ――!!
この時、ティンカーは勝利を確信した。ソロモン王の遺言を閉じて、バックハンド気味に振る。
ページが嵩張った魔導書は、鈍器としても有用だろう。かち割るように、グレイテルの側頭部へ叩き付けた。
「……侮っていたな。よもや、ミカエルが封じられようとは、想像だにしなかった」
左手で受け止めながら、グレイテルが呟く。
「では、こうしよう」
風の鳴る音と、何かが裂ける音がした。
☆ ☆ ☆
空が切られる。鋭利な刃物の薙ぎ払いに似た、斬撃音とともに。
それは、比喩と呼ぶには的確過ぎる表現で、現実の話、空は切り開かれ、結果生み出たのが〝真空〟だった。
真空の刃〝鎌鼬〟の切れ味は申し分なく、中空に飛び散る赤い飛沫が、その威力を誇示している。
「…………え?」
血飛沫は、ティンカーの胸元から溢れ出たものだ。
左の脇腹から右の肩に渡って走る、逆の袈裟懸けは、彼の胴体を裂き、紅の体液を迸らせる。当の本人は、何が起こったのか、未だに理解出来ていない様子だ。
「さあ、次だ」
白いコートが赤く染まっている。
返り血を浴びた対面の大男は、左上に振るった右の手で、ティンカーの腹部に優しく触れた。
ティンカーの口内から、鉄の味をした体液が吹き出る。彼の腹部は、見るからに凹んでいた。そして、その体躯が後方へ跳んだ。
ワンバウンド、ツーバウンドの後に、ティンカーが大地に転がる。
「げ……っえぇ……っ!!」
嗚咽を漏らす彼の直上から、容赦なく降り注ぐものがあった。ただの雨粒ではなく、もっとハッキリとした形あるものだ。
それを一言で表すと〝矢〟になる。氷雨が凝固した、氷の矢群。
ティンカーの五体を、尖った、透明の鏃が貫いた。
「あ、があぁぁぁ――――っ!!」
ほんの数秒前まで満足だった彼の体は、満身創痍そのものだ。
「我の〝大天使の右腕〟が、単一の天使のものだと、何時言った? 〝大天使の右腕〟の能力は、〝四大天使〟への変化だ」
血に塗れ、風穴すら空いているティンカーを見下ろして、グレイテルがサディスティックに笑う。
傷口中から血を噴きながら、気力だけでティンカーは立ち上がった。が、勝敗は誰の目から見ても明らかだ。
「ティンカー・コードウェル。お前に、三体の大天使に抗う力は、あるだろうか?」
「もう。……もう良いよ。ティンカー」
答えたのは、ララだった。
☆ ☆ ☆
「キミも聞いたでしょう? この学園に掛けられている〝天使使役〟の魔法円は、ワタシが描いたものなんだよ」
ララの言葉は。いや、表情すら、余りにも彼女らしくない。
天然特有の脳天気さも、悟ったような落ち着きも、見る影もなかった。
それでも、彼女の仕業を鑑みれば、必然であると断定出来る。バベルの支配下にあったとは言え、現時点でこの学園に吹き荒ぶ、暴風雨の如き大闘争を招いたのは、ララなのだから。
「ワタシはもう戻れないの! ワタシの居場所はここしかないの!! だから、ワタシの居場所を奪わないでっ……!!」
強がりだと思う。半分は。
彼女の台詞は、諦めを促すためのものだろう。本懐は、胸の内は、これ以上耐えられないのだ。――ティンカーが傷付くことに。
だが、もう半分は、本意と呼べる。彼女には。少なくとも彼女の中では、帰る場所がないのである。
「――っせぇよ……!! 何勝手に決め付けてんスか……!!」
ひゅう、ひゅうと。今にも途絶えそうな吐息を繰り返しながら、それでも、ティンカーがララの思い半分を裏切った。
「あんたには……なくても、オレにはあんたが必要なんスよ……!!」
同時に彼は、もう半分から彼女を救った。
「あんたはオレのルームメイトで、……オレの先輩で……」
「オレに意味をくれる、大事な大事なパートナーなんスから」
言い切って、一度咳き込み、赤い液体を吐いて。そして彼は再び踏み出す。
「……ぁぁあああぁぁぁ――――っ!!」
ララを取り戻すために。
「……愚かな」
吐いて捨てる声色で、グレイテルが天を指さす。彼の右手の先に生まれるのは、歪みだ。空間が歪んでいる。
地属性の大天使〝ウリエル〟が引き起こす、重力。――質量の力だ。
突撃してくる手負いの獣に、天使の力を持つ彼が、怯む理由がどこにあるだろう? 寧ろ、一直線に駆けて来るなら、迎撃が容易になるだけだ。
神風など吹いてはいない。特攻しようと潰されるだけ。
ポテンシャルを増したエネルギーが、大地にクレーターを生んだ。