第五章 ティンカーの先輩 ~2~
「バベルが何を思っているのか、私には正確な答えを出せない」
アクィナスは語りながら、思い返していた。
「だが、あの日。私の教え子であった彼は、失踪した。研究員の一人を天使と変えて」
その光景を、今日この時この場所で浮かべてみても、戦慄のような悪寒が走る。地獄のような。とは、あれを指して言うのだろう。
紅蓮地獄だった。
室内の壁にも床にも、鮮血がこびり付き、気体となって宙を舞うように、ただただ紅蓮が蔓延っていた。
錆のような匂いの中、一人の少年が中央に立ち、微笑んでいた。
彼は、天使化した己の従僕に、報復たる手傷を負わされ、それでも、笑顔を浮かべていたのだ。
――誇るように。
「それからの詳細は分からない。彼がどこで過ごし、何をしていたのか」
自分が育てたのは、神は神でも、もしかしたら〝魔神〟だったのだろうか? バベルがもたらしたのは、更なる災悪だ。
「再び、彼が現れた時。バベルは新たな従者を従えていた。彼がいなくなってから、一一年後のことだ」
時にして、二〇三〇年一月一〇日。
「人はそれを〝ジ・ハード〟と呼び、恐れたよ」
☆ ☆ ☆
「この白夜医院は、非合法な産業を、隠匿の下に行っていたのである」
ララと、彼女に真相を語るバベルがいる施設には、まるで、わざわざ取り揃えたかのように、専門の薬物が完備されていた。
その通りだ。わざわざ取り揃えたのである。
「秘密結社〝ホワイトブレイズ〟とか名乗っていた、愚民たちによる臓器培養。――愚かであろう? 物欲に負けて、倫理を犯していたのだ」
今やこの世を離れ、十中八九地獄に落ちている研究者たちは、運用資金のため。あるいは、即物的な欲望のため、臓器を生産していた。
では、どこから造っていたのか?
答えは、二人のいる室内に記されている。
用意された〝ヤマナカファクター〟の存在が、〝iPS細胞〟を用いて、臓器のオーダーメイドをしていたと、告げていた。
元よりiPS細胞は、拒絶反応を起こしにくいことが売りの一つだ。それ故、移植用の臓器を造るに適している。
俗に言う〝再生医療〟の、切り札なのだ。
「だがしかし、奴らは、この世界を浄化する礎となったのである。そこだけは、褒めても良いだろう」
バベルがララの名を呼ぶ。
「iPS細胞は、細胞を〝初期胚〟状態に巻き戻したものである。では……」
「そこには、魂が宿っていると思わないか?」
☆ ☆ ☆
――細胞に、魂……?
ララは戸惑いと同時に、引っ掛かる何かを感じた。
否定に対しての否定の感覚。要するに、同意や肯定にも似た感覚だ。
常識の観点から思考を始めるならば、それはあり得ない。だが、自分の脳内に収められた知識と、自分自身の存在が、あり得るのではないだろうか? そう思わせている。
……確かに、〝ES細胞〟のことを考慮するなら……。
〝ES細胞〟もまた、万能細胞の一種だ。
初期胚の胚盤胞から取り出された細胞のことで、性質的に類似した〝iPS細胞〟と、良く比較されている。
何を言いたいかを口にすると、ES細胞と酷似したiPS細胞は、初期胚の一部とも表現出来ないか? と言うこと。
とてつもない屁理屈だ。だから、信じられない。――自分が〝チーフチルドレン〟じゃないならば。
――現に、ワタシは生きている――。
そう。ララ・バッテンバーグは、脳を移植された人間。iPS細胞で出来た脳を、中枢として生きている。
ここで、iPS細胞に魂がない。と断言するなら、まずは、自分の存在を否定することから始めなくてはならない。
ならば、彼が言いたいことは、多分。きっと。
「つまり、あなたはiPS細胞を〝天使化〟したんだね?」
バベルが無言のまま頷いた。
仄かな微笑みは、理解に対しての感謝のように見える。
「そう。一度、天使を生み出した際に、抵抗を受けてね。私のもう一つの術式を、完遂させることを優先すべきだ。そう反省したのであるよ」
確かに、対象人物を天使にすることは、リスクを伴う。何しろ天使化は、天使の力を与えることだからだ。
彼の言った、もう一つの術式とは、制御系統のものなんだろう。
だとしたら、〝細胞の天使化〟ならば、時間的な余裕が生じる。制御用系統の術式を仕込む余裕が。
つまり、
「私は天使化した細胞を成長させて、作り上げた肉体を〝天使の体躯〟と名付けたのだ」
「それを移植させたのが、〝クルセイダー〟」
バベルが変わらない笑みで、首を縦に振った。
☆ ☆ ☆
「クルセイダーは、自らの意志で私に仕えているのである」
バベルの言葉には、微塵の揺らぎもない。
それは、見栄や欺瞞などとは似ても似つかない、圧倒的な自信によるものだ。
彼は、クルセイダーを救って来た。
例えば、望まれぬ子であった者。例えば、奴隷のような扱いを受けていた者。
社会的弱者。最下層民。その者たちが壊れても、ユナイテッドキングダムは、変わりなく明日を迎える。
それでも、バベルは手を差し伸べた。壊れた肉体を補完したのだ。
そして生まれた、絆と言うべき関係性は、サーヴァントやレイバラーなどの身分差別とは、比べるのもおこがましい、忠誠。
「彼ら彼女らには、私の目指す〝千年王国〟に生きる、権利があるのだ」
悠然と語るゴッドチャイルドが、ララの双眸をその目に映す。
「ララ。キミは、私の理想を叶える最後のキーパーソンなのである」
「何故? ワタシは、チーフチルドレンだよ?」
「答えよう。チーフチルドレンだからだ」
ララが不可解そうに、柳眉を歪めた。
チーフチルドレンは、〝ゴッドチャイルド〟バベルに対抗するために生み出された存在。とも言える。
だとしたら、彼女に天使の力を分け与えるのは、納得が行かないことだ。
「キミは〝ユダ〟なのであるよ。チーフチルドレンたちに制裁を与えるための、〝真のクルセイダー〟を生み出すための」
だから、
「キミにはあえて、儀式を完遂し切っていない〝体躯〟を移植した。そもそも、二度目のジ・ハードの目的は〝チーフチルドレン〟に瞳を移植するためだったのだ」
〝アントロポソフィー学園〟では、〝イノセントアイ〟の検査を行っている。
何者かの悪しき魔術が、掛けられているかいないのか。もっと詳しく言えば、〝法の書〟の制御下に置かれているかの。
結果、オールグリーンと判断された。
魔術がまかり通る世の中だ。ヨウコのような、〝霊視〟能力者もいる。超能力者がいても、不思議ではない、と。
だが、当然だ。
その時〝智天使の瞳〟は、何者の管理も受けていなかったのだから。
「一年前。学園を訪れたのは、キミの瞳の〝儀式〟を完遂させるためであった。――キミの瞳を仲介に使役し、工作活動をして貰うために」
今日までに、ララは捏造された知識を植え付けられていたらしい。
トリガーとなった出来事こそ、〝アントロポソフィー学園〟の襲撃。その際に儀式が遂行されたのだ。
「ワタシを……、利用したの?」
彼女の言葉には、少なからぬ動揺が含まれていた。
無理もない。ララは、学舎を貶めるために操られていたのだから。
「そう解釈してしまうのも、仕方ないであろう。……だが、ララ。キミは何のために生み出された? 奴らに利用されるためではないか?」
バベルに言われ、ララは口を閉ざした。
「私は、キミに崇高なる意味を与えよう。天国にも親しい居場所を与えよう。私に着け〝智天使の瞳〟よ」