第五章 ティンカーの先輩 ~1~
「知っての通り、我が〝アントロポソフィー学園〟の目的は、〝魔導書〟の翻訳だ」
学園長室に、二人がいた。
主に話し手を務めているのは、部屋の主であり、学園の長でもあるアクィナスだ。
一方、対面している彼女の教え子、ティンカーは聞き役に徹していた。寧ろ、そうなるのは自然と言える。
彼には、知らないことが多過ぎた。
敵対する組織。消え去った自分の先輩。捲き込まれた現状。渦巻く策謀。
そもそもにおいて、自分とは何者か。との質問にも答えられないティンカーに取って、主張を述べよと求めるのは、酷である。
ティンカーにも自覚があるようで、彼は未だかつてないほどの集中を以て、対談に臨んでいた。
テーブル上には、ユナイテッドキングダムらしいティータイムセットが並んでいる。
上質のウバ茶は、蒸らしも忘れない正式な煎れ方で、バラの花とも例えられる芳醇な香りが、部屋中を満たしている。
クロテッドクリームとジャム付きの、スコーンも添えられており、その並びだけに着目したら、平和な午後としか表現出来ない。
だが、現在のティンカーにしては、いくら上等なミルクティーでもてなされようと、その誘惑に負ける筈がないだろう。
ティンカーの瞳には、鬼気すらも宿っていた。
「魔導書に綴られた文章は、抽象的な表現〝寓意〟のオンパレードで、暗号化されている。だから、どんなに著名な言語学者が挑んでも、紐解けることはないだろう」
何しろ、
「翻訳するためには、一字・一単語・一行から意味を見出さなくてはならない。テレパスでもなければ不可能なんだ」
実を言うと、〝魔導書〟のレプリカは大量に出回っている。翻訳が実現していれば、同じ数以上の〝魔導師〟が世を席巻しているだろうが、そのような事実はない。
アクィナスの意見は、正しいと言うことだ。
「つまり、翻訳には手付かずの魔導書。――〝原論〟と、著者本人が必須となる」
その内。とアクィナスは、立てた右手のピースサインから、中指を折り省く。
「〝原論〟は、国教会の一派が管理していた。後は、著者さえ存在すれば、良かったのだ」
「そこで目を付けられたのが、〝iPS細胞〟だった」
☆ ☆ ☆
ユナイテッドキングダムに、〝リーズ〟と呼ばれる都市がある。
近年、最も成長したとの評価を受ける、リーズの誇る技術は〝再生医療〟だ。三大再生技術〝3RT〟に数えられる医療技術である。
リーズの一郭には、とある白い建物があった。
特筆すべき特徴は見当たらない。どこにでもあるような、一般的との言葉がとても似合う診療所だ。
白くて長方形で普通そうな診療所は、〝白夜医院〟と言った。
だが、果たして誰か気付いているだろうか? 受付、待合室。四つの病室と、一つの診療室。その地下に大規模な研究室があることに。
地下室は、地上にある表面積の、六倍もの広さを持っていた。
薬局のような研究室だ。
多数の薬棚が並び、専門家でなければ扱えないような、謎の薬品が収められている。
更に奥へ進むと、嗚咽なくして語れない、グロテスクな部屋があった。
陳列するは、培養液に浸った臓器の数々。部屋の名前を示すプレートには、〝臓器培養室〟とある。
白夜医院の存在意義は、臓器売買だった。
〝ホワイトブレイズ〟と言う〝秘密結社〟の、本拠地でもあった地下室。その棚に並んだ薬剤は、臓器培養に必要な薬剤であり、秘密結社は培養した臓器を売りさばき、資金を得ていたのだろう。
倫理面で破綻した、およそ真人間とは呼べない冒涜者たちだったが、どうやら既に、天罰を受けていたようだ。
白夜医院は閑散としていた。
研究員の姿はなく、カモフラージュの役目をしていたと思しき、医師も席を外している。当然、患者の影も見当たらない。
廃業しているのだ。今、薬棚の部屋にいる、白髪の男の手で。
「〝人工多能性幹細胞〟こと〝iPS細胞〟が作成されたのは、二〇〇六年のことであった」
白髪の男は、〝ゴッドチャイルド〟と呼ばれる男だ。
彼は、薬棚の前にあるイスに鎮座し、机を挟んで少女と対面していた。
「二〇〇九年の時点で、細胞の〝初期化〟に必要となる四つの因子〝ヤマナカファクター〟を、〝レトロウイルスベクター〟を用いることなく注入出来るようになった。これにより、〝ガン化〟のリスクが大幅に軽減されたのである」
黄色癖毛の少女、ララは、元来の勉強家であったため、バベルの分かりにくい話に対しても、疑問の顔を見せることはなかった。
彼女は、アントロポソフィー学園〝北の棟〟の常連だ。
三階四階にも入り浸っていたために、ある程度の知識が身に付いているのだろう。
iPS細胞が、あらゆる体細胞に〝分化〟しえる、〝多能性〟を持った〝幹細胞〟であること。
iPS細胞の作成には、〝ヤマナカファクター〟と呼ばれる、四種類の〝初期化因子〟を用いねばならないこと。
ヤマナカファクターの注入には、〝レトロウイルスベクター〟と言う、ウイルス由来の運び屋を使用し、それが細胞のガン化を促してしまうことなどなど……。
ララがそのような雑学を持っていた故、彼女の意識は〝チーフチルドレン〟に関することのみに、焦点を当てていた。
「その後に、ユナイテッドキングダムはiPS細胞の特許を得る。――そして提唱されたのが、〝再生魔術プロジェクト〟であった」
「再生魔術プロジェクト……」
「そう。この〝魔導書翻訳計画〟には、どうしても著書たる〝オリジナル〟の存在が、不可欠だったのだ」
ララの水色の瞳。〝イノセントアイ〟改め〝智天使の瞳〟には、対象人物の〝真名〟が映るシステムが内蔵されている。
「……そっか。だから、造ったんだね?」
彼女が見ていた真名の矛盾点。以前、ティンカーも言っていた、時間経過のパラドクスは、バベルによる五分にも満たないここまでの話で、打ち砕かれた。
「ワタシたち〝チーフチルドレン〟の脳髄は、iPS細胞で再生されたものだったんだね?」
☆ ☆ ☆
はらわたが煮えくりかえる寸前だ。
ティンカーは、わなわなと小刻みに震える指で、拳を作った。
「〝魔導師〟の体細胞は、とある〝魔術結社〟に保存されていた。〝輪廻転生〟なる思想に基づきファラオがミイラとなったように、各々の魔導師は、己が蘇る算段をしていたのだろう」
だって、仕方ないだろう? こんなにもふざけた話が、あって良いのか?
「臓器移植は、合法行為だ。半分、イリーガルだが、脳髄の移植はアウトでなかった」
「――――っざけんじゃねぇよっ!!」
目の前にいる女を、ブン殴ろうと考えてしまった。
レディーファーストだとか、ジェントルマンだとか、フェミニズムだとか。
そんな綺麗事は、もはや脳内には微塵もない。
「翻訳? 汎用化? はっ!! そんなことのために、オレたちを造ったのかよっ!?」
行き場のない苛立ちを、テーブルにぶつける。
ティーカップから紅茶が零れ、一層の芳香が漂った。酷く場違いな、安らぎの香りが。
「そうする外に手立てはなかった」
それでも、アクィナス学園長からは、臆する空気感がしない。
「どうしても、〝アームド・フォーシーズ・オブ・ザ・クラウン〟の補強が必要だったんだ」
彼女の意見は、やはり受け入れられない。
〝アームド・フォーシーズ・オブ・ザ・クラウン〟は最強の軍隊だ。
今更力が欲しいと言われても、それは単なる強欲で、子供が駄々をこねているようにしか、聞こえない。
「キミも体感しただろう? 〝ジ・ハード〟と〝クルセイダー〟の脅威。バベル・ホワイトバーンが生み出した、天使の脅威を。――私たちには、彼に対抗する力を是が非でも得ねばならないんだ」
☆ ☆ ☆
「私は、〝神〟として造られた」
〝ゴッドチャイルド〟は、神妙な面持ちで〝チーフチルドレン〟の少女を見ていた。
「〝法の書〟を綴った魔導師。〝アレイスター・クロウリー〟の第二世代として生を享けた私は、ゴッドチャイルドと呼ばれ、聖域の如き孤島で育ったのだ」
彼は、彼の魔導書〝法の書〟をコートの内から取り出し、軽めの音を立てつつ机に置いた。
「擦り込むように帝王学や、神学を学んだ。全ては、神として人類を導くために」
言って、彼は〝法の書〟を、指で弾くように弄る。
「法の書の術式は〝天使生成〟。人間の内に秘めた〝天使の魂〟を解放し、肉体を〝天使化〟するものである。私の使命は、ユナイテッドキングダムの国民全員を天使とすることだった」
それが、
「それが、〝ゴッドチャイルド計画〟だったのだ」
しかし。と、渋面でバベルは続けた。
「本当にそれほどの価値が、人間にはあるのだろうか?」
☆ ☆ ☆
ララには、バベルの述べていることが、どこか理解出来る。
「ふと、私は考えたのである。私はどうして、人類を導かなければならないのだろうか?」
何故かと問われたら、同種だからと答えるのが、適切なんだろうか?
バベル・ホワイトバーン。〝ゴッドチャイルド〟は、初めから知っていたのだろう。
自分が、造られた存在だと。
「思想、文化、宗教。挙げ句の果てに、肌の色の違いすら理由にし、争いを繰り返す戦争狂。――人類とは、その程度の存在ではないか?」
彼の境遇には、同情すら覚える。
自分もそうだった。ララ・バッテンバーグは、エリファス・レヴィの紛い物だと知った時の困惑は、言葉で表すには複雑過ぎる。
ふさぎ込み、悩み抜き、学園長を問い質したこともあった。
彼は、物心ついた時から、そんな環境に晒されていたんだ。
「その程度の存在だから、平気で倫理を犯す。ゴッドチャイルドそのものが、人類の傲慢さを語っているのだよ」
だから、
「私は、人類を滅ぼそうと決めた。神としての真なる使命がそれだと」