白狼と少女━9
高みから見下ろす者と、それに抗う者達。両者に動く気配はない。相手が動き出すのを待っているのだ。
相手が動かないのならば、とバスクは近くに立つ男へ視線だけを向ける。
「ウィル、俺に考えがあるんだが……」
その言葉に、ウィルだけでなく他の二人もバスクの方を見る。自分達よりも遥かに長く戦いに身を置いてきたバスクならば、という期待がありありとその目に浮かんでいるのが分かる。
だからこそ、バスクは迷った。自分の考えた策は、どう考えても褒められたものではないのだから。むしろそんな案しか考えられない自分を責められた方が楽だとさえ思う。そんな思いから、自然と口調は重いものになった。
「もしその考えを使うなら……イルミナの、リスクが増える」
「なっ……」
内心の動揺がありありとウィルの顔に現れる。しかしそれも一瞬のことで、その顔は即座に硬い表情へと変わる。何かしらの決意を秘めた男の顔だ。
「何もイルミナじゃなくとも……危険な役割なら私がやります。この子のような魔術の才はありませんが、必ずやり遂げて――」
「駄目だ」
「何故です!?」
否定されながらも、ウィルは食い下がる。それもそうだろう、彼はこの場から彼女を逃がすためなら自らの命をも惜しまないことは容易に想像できた。それが彼の父としての在り方なのだから。
だが、彼ではイルミナの代わりにならないという厳然たる事実は、彼の意志や覚悟で変えられるものではない。
「奴らの狙いはイルミナだ。正確にはその才能、か」
「……それは何を根拠におっしゃっているので? もしかしたらその考えが違うかもしれない」
ウィルが口を開くより早く、今度はラオが食い下がる。その表情を見るまでもなく、彼もイルミナを危険にさらすことは反対のようだ。
バスクは一瞬だけ屋根の上で佇む男へと視線を向ける。何を考えているのか分からないが、動き出す気配はない。
油断か、それともその実力からくる自信によるものか。
どちらにせよ今は好都合だ。ある程度の距離があるため、向こうが動き出してからでも十分対処できる。バスクは男の動きに警戒しつつ、再びウィル達に視線を戻す。
「俺達の始末を知能が低いアンデッドにやらせず、わざわざあの男一人でやっている。つまりは殺す相手を選んでいるわけだ。可能性として考えられるのは俺か、もしくは魔術の才を持つイルミナ。それがこの村を襲った理由につながるだろう」
「では何故、あなたではなくイルミナだと?」
バスクは皮肉交じりに首を竦める。
「先ほど戦ったとき、俺を生かしてくれるような配慮は感じられなかった。全力かどうかは知らないが、少なくとも殺しにはきていたのは分かる」
「しかし……」
尚もそれを是としないウィル達。その言葉を遮ったのは、今まで黙ってそのやり取りを聞いていた人物だった。
「――私、やるよ」
三人の視線が向かった先。そこには恐怖と不安を滲ませながらも、目に決意を滲ませる少女の姿があった。
「私がうまくやれば、皆、助かるんだよね? もう誰も、死ななくていいんだよね?」
「……あぁ、きっとそうなる」
「バスクさん!」
悲痛な声を上げるウィルに、イルミナは笑いかける。
「大丈夫だよ、お父さん。何かあっても、絶対にバスクが守ってくれる。それに――」
誰が見ても強がっているようにしか見えない表情だ。だが、言葉には怯えの色はない。あるのは絶対の信頼と、何者にも変えることのできない覚悟。
「証明したいの。私の力は、人から嫌われるためだけにあるんじゃない、って」
「イルミナ……」
ウィルは我が子へと手を伸ばしかける。それは、死地へと飛び込もうとする少女を引き留めようとしているようにも見えた。やめろ、行くな、と。
だが、その手が少女へと届くことはなかった。
俯き、伸ばしかけていた手を下す。一瞬の後に、バスクに向けて小さく頷いた。バスクには、「もう言うことはない」と言っているように思えた。
●
男の目に、標的が動き始めたのが映る。そこでようやく男の頭に次の指示が浮かび上がった。
今の彼に思考する力はない。特殊な薬剤を媒介した魔術。それによって意識を封じ込められている状態で、その体は単純な命令を実行するためだけに動く。その命令は、「イルミナという少女を生かしたまま捉える」こと。他の者は消去対象とされているため、生かしておく必要はない。
男の行動原理はいたって簡単なものだ。標的が逃げれば追い、隠れれば炙り出し、邪魔する者は殺す。しかしそれは相手のとった行動に対して反応しているだけ。だから、「何もしてこない」状況下では男は動くことができなかった。
そして今、標的はようやく行動を開始した。捕獲対象である少女、そして狼型の獣人が、ちょうど男の正面方向である村の外側へと走っていく。その先にある門を抜け、脱出を図るつもりらしい。アンデッドがそこで群れを成しているが、彼女の傍にいる獣人にとっては大した障壁にはならないだろう。残りの二人はそれぞれ左右に分かれ、村の中心の方へと移動していく。
男は躊躇しない。本来の標的である少女の方へと真っ直ぐに跳躍する。着地と同時、体にかかる負荷を一切気に掛けることもなく地を蹴った。
歩幅の差によって、その間の距離は瞬く間に縮まっていく。
獣人が後ろを振り返り、間近に迫る男の姿を捉えた。舌打ちし、反転して男へと向き直る。
場所は、門の十メートルほど手前だった。
獣人の鍛え抜かれた肉体に、魔力が巡っていくのが分かる。鋼のような肉体が、魔術によってまさに鉄以上の硬度を得たのだ。
男もそれに呼応するように魔術を唱える。
「――氷神の創造」
瞬間、水蒸気が形を成して凍結していく。一瞬の後、男の左手には一振りの刀が握られていた。氷でできた刀。まるで名のある刀匠がその命さえも込めて打ちあげたかのような精練されていた。場所が場所でなければ、誰もが目を見張るだろう神々しさを秘めている。
両者の距離が極限まで近づく。先手は獣人だった。
「――オォ!」
一気呵成。限界まで引き絞られた右腕が、男の顔目掛けて繰り出される。身長差によって振り下ろされる形になったその一撃は重く、そして速い。全力に近い速度で接近する男に、避ける手立てはない。
だが。直撃するかのように思われた一撃は、硬質な重奏に阻まれる。
一瞬の内に生成された、小さな氷の壁。中空で幾重にも重ねられたそれが、獣人の一撃をぎりぎりで止めていた。
男は止まらない。
繰り出された拳が引き戻されるより早く、男の刀が閃く。
連撃。一瞬の内に叩きこまれた剣戟は、一つの音となって響く。
だが、獣人に深手を負わせるには至らない。硬質化が施された肉体は、うっすらと血を滲ませてはいるが、それだけだ。
「――ッ!」
さらに連撃を重ねようとするも、今度は獣人が振るった剛腕がそれを阻止する。
男が飛びずさる。再び両者の距離が開いた。
「お前、何者だ? 何故イルミナを狙う」
獣人の問いかけに、男は沈黙で返す。意図的にそうしたのではなく、意識が乗っ取られている状況ではそうするしかなかった。
「……答える気はなし、ということか」
肩を竦める獣人。明らかに狼のようにしか見えない顔に、呆れの表情が浮かんだ。
男は対峙する獣人から、視線をその後方に移す。そこには男の目的でもある少女が、二人の戦いを心配そうな面持ちで見つめている。
「彼女に用があるなるのならば、俺に勝ってからにするんだな」
少女を守るように、獣人が視線に割り込んだ。
同時、それに答えるように男が走る。
左手の刀は地面すれすれに固定し、姿勢は限界まで低く。空気抵抗を最小限にし、獣人に接近する。
刀が効かないならば、凍らせてしまえばいい話だ。
迎撃のためか、獣人が先ほどと同じように右手を振りかぶった。しかし結果は変わるはずがない。たとえ獣人の先ほどの一撃が倍の威力になったとしても、男は容易く止めるだけの実力があるのだから。
だが、獣人の拳は男の予想とは別の軌道を描いた――砕けたのは、大地。
急に足場が崩れたため、当然のように男は体勢を崩す。
そこに、獣人の一撃が叩き込まれた。振り下ろされた拳が、鈍い響きを伴って男を大地へと叩きつける。
砕けた大地は、再びの衝撃に放射状に地割れを広げた。
「もう一度――!」
既に凍傷になりかけた右腕を、獣人は再び振り上げる。男の纏う「冷気の鎧」は、直接触れた際にその効果を大いに発揮する。獣人の動作が僅かに遅くなったこと――これは男に反撃のチャンスを与えることに他ならなかった。
「――凍結の息吹」
「まずい――!?」
危険を察知し、慌ててその場から飛びずさる獣人。
その後を追って旋風が巻き上がる。草木も揺らさずに吹いた息吹は、しかし獣人の脚を捕らえ、凍り付かせた。空でバランスを失えば、当然のように大地へと落下する。
そして落ちた先で、既に起き上がっていた男が待つ。
「ぐっ――!」
男を近づけまいと腕を振るうも、上体だけで繰り出される攻撃に対した威力はない。それを軽々と蹴り払い、男は獣人の凍り付いた左脛の辺りに自らの足をゆっくりと乗せる。
「――やめてぇええ!」
少女の悲鳴。だが同時に放たれた銃弾は、男の纏う冷気に阻まれて無効化される。さらに反撃として冷気が少女を襲った。
「――イルミナ!」
わざと威力を弱めたのだろう一撃も、その小さな体を数メートル吹き飛ばすだけの威力はある。勢いのついた少女の体は二転三転では止まらず、ぐったりと横たえられた体には、幾つもの痣が痛々しく浮かんでいた。
「貴様――ッ!」
獣人の歯をむき出しての怒りも、男は全く取り合う様子もない。無造作に、無感情に指令を達成することのみを考える。
そして、そのためには目の前の獣人が邪魔だった。だから、もう抵抗できないようにする。
凍り付き脆くなった脚を踏み砕かんと力を入れる――その寸前。
二つの影が、すぐ近くの家屋から飛び出した。それらは先ほど村の中心へと走って行った、二人の村民。
「――おぉおお!」
それぞれが手に持つは小さな樽。それを、男へと力いっぱい投げつけた。
もし男に理性があれば、こう考えただろう。
狙いはよかった。タイミングも悪くない。ただ――あまりにも無力だ、と。
どれだけの数が集まろうと、所詮は魔術の一つも使えない村人。だから自分に向かってくる樽がどれだけの力をもって投げつけられようが、何も変えられやしない。
男は無造作に片手を振るう。虫を払いのけるような動作。
それだけで二つの投擲物を破砕してしまう――それが、彼らの狙いだと気が付くことなく。
「――!?」
砕けた瞬間、それらはそのうちに溜め込んでいたものをぶちまけた。中身は水。
彼らの狙いを察し、慌てて「冷気の鎧」を解除しようとするも既に遅い。
液体が、男を包み込むようにして広がっていく。それは纏う冷気によって一瞬にして凍り付き、男の視界を、自由を、瞬く間に奪った。
自らの能力を逆手に取られた策。もがき、何とか氷壁を破壊して脱出するも、そこに先ほどの獣人の姿は、ない。
「――探しているのは俺か?」
背後からの問い。
刀を振るうよりも早く、強烈な衝撃が腹部を突き抜けた。骨が軋み、束の間、視界が黒に染まる。
先の打撃とは比べ物にならないほどの威力。別に、今までの獣人が手を抜いていたわけではない。ただ、大切なものを傷つけられた痛みを、男は知らなかったのだ。
気が付くと、男は空中に放り出されていた。
そして、その体は死者の群れへと勢いよく叩き込まれる。




