白狼と少女━7
異変に気が付いたのは、ちょうど水を汲み終えた時だった。
妙な胸騒ぎに、思わず村がある方角を見る。しかしここからではただ乾いた大地が続いているのが見えるだけで、村はその影も見ることができない。
「……どうしたの?」
その様子に気が付いたのか、自らの分の桶を満たしたイルミナも、その視線を辿る。目を凝らしているが、当然彼女にも何も見えていないだろう。
――だが。
バスクは今一度、ここまでの道中でもしたように息を大きく吸い込んだ。
水分を多分に含んだ空気。湿った土や、木々の匂い。降雨の前兆だ。
そして、それに混じる腐敗臭。
饐えたような悪臭が、澄んだ大気に僅かな不快感を与えるものとして混入されている。死者が放つそれだというのはすぐに分かる。村で過ごしている間も、偶然近くにいたアンデッドの腐臭を嗅ぎ取ったことはあるのだ。
おかしいのはその臭気の濃度。今嗅ぎ取れるのは一体や二体のアンデッドによって作り出されたものではなかった。本来、アンデッドというものは大きな集団で群れることはない。せいぜい先日遭遇した五体程度が群れの限度だろう。だからこそ生者が今まで死者に屈することがなかったのだ。
しかし、今では視認できるのではないかと思われるほどに濃縮されつつあるそれは、バスクの培った常識からあまりにも逸脱していた。
「――イルミナ。しばらく、ここで待っていてくれないか」
彼女はまだ幼い。魔術の才があるとはいえ、それが実戦で使えるようになるまでにはまだ時間が必要だろう。もしバスク自身の悪い予感が的中していれば、連れて行くのは危険すぎる、そう判断しての言葉だった。
実際、人間の嗅覚でさえ分かるだろう「死」を具現化したような臭気は少女自身も感じ取っていた。生存本能を怯ませるには十分すぎる。だが――。
「嫌、私もバスクと一緒に行く」
「……危険だぞ。もしかしたら死ぬかもしれない」
「じゃあ、ここは安全なの?」
「それは……」
思わず口ごもってしまった。彼女の言う通り、その答えは明らかだ。そんなはずはない。安全と言っても相対的な話だ。村にアンデッドが集まっているのなら、その近辺であるこの場所も絶対安全とは言い切れないのだ。
「お父さんも、村の人達も危ないんだよね? それを見てるだけなんて、そんなのできないよ」
「しかし、お前には戦う手段がないだろう。武器があるなら別だが」
そう、彼女には戦う術がない。その反論を頼みの綱にしたバスクだが――。
「武器ならあるよ」
彼女が上着の裾を少し上げる。ベルトに付けられていたのは小さな水鉄砲。町に行けば玩具として売っているようなものだ。
が、たとえ一般人にとってはただの遊び道具でも、イルミナ・ルシタールが持てばその存在意義は大きく変わる。
「……いつからそんなものを」
「バスクが来てから。お父さんがね、バスクがヘンなことしてきたら撃っていいよ、って」
「……ほう」
なるほど、そっちの方面では信用されていなかったわけだ――あの野郎。
「……今、すごい怖い顔してるよ?」
「気にするな、少し人間不信になっただけだ」
ともあれ、イルミナの意志は分かった。武器もあるのならばもう言うことはない。それに、何を言っても聞かないだろうということは今までの生活の中で理解はしている。
「……分かった、でも危なくなったらすぐに逃げるんだ。状況がどうなっても、だ」
「うん……それとなんだけど――」
少女が首を傾げる。言っておくべきことでも忘れていただろうか。
「――ヘンなことって、なんだろうね?」
「……さっさと行くぞ」
気にした此方が馬鹿だった。
■
来た道を全力で駆けつつ、バスクはふとこんなことを考えた。
俺はいつから、こんなに変わってしまったのだろう、と。
それが良いものなのか、悪いものなのかの判断ができない。もし不自由なく生活でき、いつ死ぬかも分からないような身分でなければ良い変化であるのだろう。
だが、そんなものは一握りの者だけだ。大抵の場合、優しさは甘さと同意であり、往々にして破滅を齎す。それが普通だった。
だからこそ、バスクはウィルやイルミナのような存在を珍しいと思った。それだけの筈だったのだ。しかし、それに憧れを抱く自分がいたのかもしれない。だからこそ、今の自分があるのだろう。
「……分からんものだな」
独り言ち、死地に飛び込む前だというのに、自然と自嘲的な笑みが浮かぶ。これも今までなら考えられなかったことだ。
もし、この戦いが終わって元の生活に戻れたら、自分はどうなっていくのだろう。
「――見えたよ!」
イルミナの張りつめた声で、すぐに意識を切り替える。そうだ、すべてはこれが終わってからの話だ。今考えることではない。
バスクの胸騒ぎは現実のものとなっていた。村の中だけでなく、周辺にも緩慢な動作で蠢いている影がある。それも、数えきれないほどに。唯一の幸運と言えば、最下級アンデッドと言われる〈ゾンビ〉程度しか見当たらない事か。
「チッ……どこから湧いて出たんだか!」
接近に気が付いたらしく、早速柵の外周にいた死者達が二人へと腐りはてた顔を向ける。だが、その時には既にバスクの巨大な拳が叩き込まれていた。盛大に内容物を撒き散らしながら吹き飛ばされる様に、イルミナは僅かに目を背ける。だが、それだけだ。
その先にも二体の〈ゾンビ〉。しかしバスクが接近するよりも早く、放たれた二つの弾丸がその障害を蹴散らした。
さらに微かな擦過音が連続し、そのたびに周囲にいたアンデッドが皆一様に頭部を失って地に伏していく。通常の銃器のような荒々しい銃声はない。それはただ静かに、無慈悲に死を運ぶ。
その射撃精度は戦いを常にしてきたバスクが舌を巻くほどだ。銃を手に入れたのがバスクが来てからだとする彼女の言が本当ならば、たった数か月でここまで腕を上げたことになる。恐るべき成長速度だ。
「近くにいる奴だけで十分だ! このまま正面から村に入るぞ!」
「うん!」
迫りくる死者達を潰し、穿ち、なぎ倒しながら駆ける。バスクの鼻はまだ人間の臭いを嗅ぎ取っていた。つまりはまだ生存者がいるということ。急げばまだ間に合う。
それを証明するかのように、死者の合間から見覚えのある男の背が見えた。片手には小型の斧を持ち、その後ろの村の者を庇うようにして立っている。
「――ウィル!」
「お父さん!」
ウィルの姿を認めると、小さな少女は父の元へと駆けだした。その父はというと、胸に飛び込んできた娘の安堵よりも驚きの方が勝っているらしい。大きく見開かれた両目がそれを物語っている。
「バスクさんに……イルミナ、何で戻ってきたのですか!」
「まだお前に世話になった恩を返してない。勝手に死なれたら困る」
「しかし……何もイルミナまで……」
ウィルの視線が未だ抱き着いたままのイルミナに移る。声には僅かに責めるような響きがあった。
「彼女自身の意志だ。それに、連れてこなくても勝手についてきたと思うがな」
「……まぁ、そうですね」
諦めたのか、溜め息を吐くウィル。イルミナのことを知っているだけに、それで分かってくれたらしい。
イルミナは父親から離れると、彼の後ろにいる二人、そして周囲を見渡す。
「お父さん……他の人達は?」
その答えとして、少女の父は小さく首を振る。イルミナ自身も分かっていたことなのか、「そっか」と小さく呟いたきり俯いてしまった。
その代わりのように、後ろにいた男のうち一人が口を開く。白い毛が目立つ壮年の男性で、首から下げた十字架をお守りのように握っている。
「ウィルさん、この人強いんだろう? だったら早くここを出よう。またあの男が戻ってくるぞ」
「あの男……?」
バスクの疑問に、もう一人の男が頷く。此方は先の男よりも若く、農作業で鍛えられた逞しい腕が赤く染まったシャツの袖から覗いていた。
「赤いローブを着た男だ。そいつが片っ端から村の奴らを殺していきやがった。あれが近くに寄っただけで何でも凍っちまうんだ」
「……厄介だな」
おそらくは氷を操る魔術だろう。近づくことができないのならば、バスクの戦い方では勝てる望みは薄い。そもそも獣人というのは高い身体能力を活かした肉弾戦を主とする種族だ。元々の相性が悪い。
「俺達が来た道から引き返そう。今なら他の出口よりはアンデッドの数が少ない――」
ふと、バスクは今まで気が付かなかった疑問を得た。そう、自分たちはアンデッドを全滅させたわけではないのだ。当然周囲の者にもバスク達の侵入は知れているはず。
――ならば、何故襲ってこない?
慌ててバスクは周囲を見渡す。確かにアンデッドたちは見える。しかし、そのどれもが遠く離れた場所でこちらを窺っているような、そんな風に思える。
ぞわり、と何か冷たいものが背を落ちていくのを感じた。バスクはそれが何なのかをよく知っている。
死 の感覚。地獄へと続く咢が、ここにいる者を飲み込まんと開かれたのだ。
「……逃げると言ったが、少し難しくなったな」
「え……?」
ウィル達がその意味を問うより先に、その答えが現れた。
突如、彼らの行く手を阻むように地面から何かが隆起したのだ。それは、氷でできた巨大な薔薇。一瞬の内にいくつものそれが複雑に茨を伸ばし、絡み合い、彼らを阻む。
氷片が宙を漂い、光を反射して煌めく。一見すれば美しくも思える光景に混ざる異色な存在。それが発する深雪よりも冷たい殺意が、彼らを委縮させる。
紅いローブの男。先ほど耳にした通りの恐怖が、目の前に立っていた。




