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白狼と少女━6

 バスクが村に滞在してから一月ほどが過ぎた。


 それだけの期間を共に過ごしたことで、少しずつではあるが、村民たちのバスクに対する警戒が薄れてきたようであった。軽い挨拶程度なら返してくれる者がほとんどだ。元々、ウィルのように気のいい者達が多い村のようだ。

 変化はバスク自身の中にもあった。人間という種に対する不信感がなくなっていったのだ。貴族たちの不当な扱いを受けて生まれた心の底にあった氷のような冷たい何かが、彼女らのおかげで溶けていった。


 村人の視線を気にしなくてよくなったため、最近ではイルミナの水汲みに同行するようにしている。水汲み自体を自分がやろうと言ったのだが、それは少女が良しとしなかった。

 理由を聞いた時、バスクは苦笑を漏らさずにはいられなかった。自分の仕事が取られるのが嫌だと言われてしまえばどうしようもない。

 

 その日は、久しぶりの曇天だった。厚い雲が空一面を覆い、大気は僅かばかり重い。


「……一雨来そうだな」

 ここのところ何日も日差しが強い日が続いていたので、村民の中には作物の心配をしている者もいた。だが、これで彼らの不安は解消されるだろう。

 バスクは湿った土の匂いをいっぱいに吸い込んだ。

 冷やされた大気が未だ完全に目覚めていない体に染み渡っていくのが分かる。この匂いは嫌いではない。むしろどちらかと言えば好きな方だ。

 これから水を汲むために外に出る身としては、あまり降られるのは喜ばしくないのだが。

 

「さっさと用事を終えて帰るぞ。お前を濡らすとウィルがうるさいからな」

 二つある大きな水桶の内の一つを背負い、後ろにいるはずの少女に声をかける。

 しかし、背後から返事が来る気配はない。


「……イルミナ?」

 振り返ると、やはり小さな影が後ろで佇んでいる。しかし、その視線はバスクの方を向いていなかった。彼に背を向け、その視線は茅葺の屋根の端に向けられている。

 バスクがその視線を辿ると、そこで二羽の白い小鳥が戯れていた。やや大きい方が端の方で、時折その向きを変えながら歩きまわる。それをもう片方が追いかけているようだ。

 やがてどちらともなく飛び去っていく。ちょうどその時だった。


「――バスク、いなくなっちゃうの?」

 問いは、少女の口からおもむろに発された。再び視線を少女へと戻すと、不安げな表情が彼を見つめている。突然のことに、反応が遅れてしまった。


「何故、そう思う」

「だって……」

 揺れる青い瞳が、僅かに下げられる。ただそれだけのことが、不思議とバスクの心をかき乱した。


「身体の怪我も治ったし……お父さん、最近騎士様の姿が見えなくなった、って言ってたもん……」

 紡がれた言葉はだんだんと小さくなり、最後の方は聞き取るのが難しいほどだった。だが、彼女が言いたいことははっきり理解できる。


 以前イルミナは、自らの背負う孤独という苦痛をバスクの前で明らかにした。しかし、彼女は村の為にとそれを拒絶しない。バスクがいなくなれば、再びそれを一人だけで背負い続けることになってしまう――そう思っている。


 だが、バスクは知っている。彼女には、自分以外に本当の理解者がいるということを。


 俯く少女の前に、バスクはゆっくりとしゃがみ込んだ。彼女の頭に右手を置き、傷つけぬように、慣れない動作でその髪を梳いていく。


「――イルミナ」


 呼びかけに、彼女が顔を上げた。その拍子に、零れた一筋の涙が頬を転がる。

 一瞬、バスクは以前聞いたウィルの気持ちを告げてしまいそうになった。だが、ぎりぎりのところでその衝動を抑える。

 それは、彼女自身が自分で知らなければいけないことだ。しかし、それにはまだ時間がかかるだろう。だから――。


「お前がいいと言うのなら、俺はここに留まろう」


 ――お前が、その真実にたどり着けるまで。


「……本当に?」

 断られると思っていたのか、少女が僅かに目を見開く。その拍子にまた涙が零れた。

 苦笑を浮かべつつ、バスクはそれを髪を梳いていた手の人差し指で拭ってやる。


「水汲みから帰ったら、ウィルにもいいかどうか聞いてみねばな」

「――うん!」

 


「――何故、獣人なんかが一緒にいるんでしょうねぇ」


 木々が作り成す闇の中、耳に残るような粘着性を持った声が呟く。困ったなどと漏らしながらも、その表情からは余裕を湛えた笑みが消えることはない。白衣を纏う男は背後の闇に顔を向けると、口の端を吊り上げた。


「まぁ、あなたならあれが相手でも問題はないのだろうと思いますが」

「……どうも気がのらねぇな」


 その視線の先、気怠そうな声で応答があった。

周囲よりも一回り太い幹。そこに、真紅のローブを纏った者がもたれるようにして佇んでいた。フードを目深に被っているために顔は窺えない。周囲の闇と相まって、真っ赤なローブだけが浮いているようにも見える。


「大体、何であんな小さな村を襲う必要がある? ドクター、あんたはどう考えているのか知らねぇが、俺にはあの村にいる連中が障害になるとは思えねぇ」

「簡単な理由です。手駒を増やすため、ですよ」


 ドクターと呼ばれた男は両手を上げ、やれやれ、と首を振る。


「予定ではもうしばらく教団の存在は隠しておくつもりでしたからねぇ……教団メンバーで目覚めているのはあなたを含め三人。〈真紅の王〉も完全には力を引き出せていない。絶対的に戦力に乏しい、ですから――」


 端正な顔つきが、狂気に歪められる。美から醜へと。その変化は一瞬だった。


「――あの少女に、我々教団の一員として加わってもらいます」


 クク、と笑いを漏らす白衣の男。ドクターなるその人物は、目の前の男がフードの奥で眉を顰めていることに気が付いていなかった。


「……他の村の奴らは?」

「ついでに皆殺しにして、アンデッドにでもしますとも。もしかしたら良質な素体が見つかるかもしれませんしねぇ」


 その言葉が終わる前に、男は踵を返して闇へと踏み出していた。村とは逆の方向に行くのを見て、白衣の男が目を細める。


「おや、協力してくれないので?」

「悪いが、どうもやる気にならねぇんでな。元々、教団ってのは居場所をなくした奴らの集まりだしな、協力する義理も――ッ!?」


 言葉が途切れ、立ち去ろうとしていた男が不意にその場に膝を突いた。再び立ち上がろうとしているが、できないようだった。バランスを取ることもままならないのか、ゆっくりと左へと傾く上体を、左手を地に着くことで支える。目に見えるほどの敵意を持った視線が、白衣の男へと向けられていた。


「テメェだろ……何しやがった」


 一触即発の状況。

 相対する男の右手に集中する膨大な魔力。それが自身の命を掻き消すだけの威力を持つことを知りつつも、白衣の男の狡猾な笑みが消えることはない。


「なに、あなた方が目覚めるまで、あまりにも暇だったのでちょっとした細工を、ね」

「テメェ……ッ!」


 目深に被られたフードの中、鮮血のごとき一対の紅点が浮かぶ。だが、呻きと共にその光は失せ、同時に濃縮されていた魔力も霧散した。


「さぁ、私の命令に従ってもらいましょうかねぇ」


 それを満足そうに見やり、ドクターは村の方を指す。


「――あなたに、選択の余地はないのだから」


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