白狼と少女━4
人であれ獣人であれ、農村に住む者達の朝は早い。日の出とともに、皆が活動を開始する。男は畑に出る準備、女は朝食の支度といったように、そこではそれぞれが役割を持つ。子どもでさえも貴重な労働力だ。
イルミナの朝は水汲みから始まる。起床するとすぐに身の丈よりも大きな桶を背負って数キロ離れた川まで歩き、帰りは更に重くなった桶を背負う。
当然、村を出れば安全などというものは存在しない。獣やアンデッドが多い森を迂回し、比較的安全な道を選んでいるつもりだが、それでも絶対ではない。今朝などは偶然森から彷徨い出たゾンビを見つけ、数十分ほど岩場で息を潜めている羽目になった。
しかし、これが彼女に任された仕事だった。これが日課であり、いたって普通のことだったのだ。
「ふぅ……」
いつもより遅めの帰宅を果たし、イルミナは額に浮き出た嫌な汗を右手で拭う。水汲みついでに川辺で軽く体を拭いたが、無駄になってしまった。服に汗が染みこみ気持ちが悪い。
たった今汲んできた水で汗を流したいが、ここまで来てしまえば水は限られた資源だ。功労者と言えども、勝手に使うことは許されない。
恨めしそうに背負っていた桶を睨んでいたイルミナだったが、溜め息一つで諦めをつけることにした。
「……ただいまー」
とぼとぼと家の中に入れば、鼻孔をくすぐるのは香ばしい匂い。返事がないことから、ウィルは既に畑へと出たらしい。テーブルの上には火の魔法石で炒めた野菜と果物が置いてあった。どうやら水を使わないで調理できるものにしたようだ。
緊張のせいで押しやられていた空腹が再び戻ってくる。すぐにでも食べたいのが本音だが、彼女にはまだやらなくてはならないことがあった。それはつい最近できた日課だ。
イルミナは今しがた入ってきた入口の方を向く。開け放たれた扉からは、村の中央にある納屋が覗いていた。
「バスク、お腹空いただろうなぁ……」
■
目覚めてから数日、完治にはまだ程遠いものの、肉体は普通に動けるまでに回復した。そこで、バスクは村の中央にある納屋へ移ることをウィル達に申し出た。それは村民が共同で使用している建物で、以前は馬などがいたらしいのだがそれらは戦争によって徴収されてしまい、今では形だけ残っているという。
当然ウィル達はそのまま家にいればいいと言ってくれたが、バスクは自分の意見を押し通した。建前上は小さな農家に大柄な獣人は窮屈であるということにしていた。しかし本音は、生まれた時から憎悪の対象でしかなかった人間と同じ空間にいることが、そう易々とは受け入れ難いものだったというもの。
それは人間の側から見ても同じだろう。事実、外に出ると村人の中に獣人である自分の存在を疎ましく思う者がいることはすぐ分かった。ウィルやイルミナ達のような存在こそが異常なのだ。
人々は「村長であるウィルがいうのだから」と表面上は取り繕っているが、隠し切れない部分というものは当然出てくる。
そういった理由もあり、現在バスクは納屋の中でひたすら暇を持て余しているという状態に落ち着いていた。早々に立ち去るのが最も良い手段なのだろうが、体の調子が万全でない今、下手に動いて再び騎士団と鉢合わせるのは不味い。
「まぁ、むしろ暇な方がマシだったかもしれんな」
溜め息交じりにそう呟くと、おもむろに納屋の入り口の方に顔を向ける。扉は閉まっており、外の様子を見る隙間などはない。だが――。
「鍵など掛けていない。入りたければ入ればいいだろう」
「だって、両手塞がってるんだもん……」
扉越しに、少女の声が返ってきた。仕方なく、バスクは扉を開けてやる。
そこには朝食が乗った盆を持つイルミナが立っていた。
「バスクってすごいんだね」
「何だ、いきなり」
少女がテーブル代わりに積み上げた藁の上に盆を置く。野菜や果物の入った器が二人分あることから、どうやら彼女もまだ朝食を摂っていないようだ。
「だって、いつも私が声をかける前に気が付くんだもん。すごいなぁ」
「……ただの獣人と人の聴覚機能の差だろう。特に便利なものでもない」
藁の山のまえに胡坐をかき、箸を取るべく手を伸ばしたバスクだったが、ふとその動きを止める。イルミナが険のある顔でこちらを見ていたためだ。
「……あぁ、分かった分かった」
やれやれ、とぎこちない動作で合掌。
「いただきます……これでいいか?」
「ん、よくできました」
満足げに頷き、彼女自身も同じ動作をしてから箸を手に取る。
バスクが食事をする際、必ずこの謎の儀式をさせられる。以前これにどういった意味があるのかと尋ねると、「食物となった命に感謝の意をあらわすため」だそうだ。どうやら人間はこのような奇習を順守する生き物らしい。リーパー達は例外だったのだろうか。
そんなことを考えていると、イルミナの傍らに一冊の絵本が置かれていることに気が付く。表紙上部にタイトルらしき文字があるが、読み書きのできない自分に理解はできない。その下には純白の甲冑に身を包む一人の騎士と、青いドレスに身を包んだ女性の絵があった。
するとイルミナが此方の視線に気が付いたらしく、傍らにあった本をバスクの目の前に掲げた。
「『騎士と王女』。お父さんがこの前街に出た時に買ってきてくれたんだよ」
少女の手から薄い冊子を受け取り、パラパラとページをめくっていく。絵の内容から想像するに、悪い竜に攫われた王女を、騎士が連れ戻しに行くという物語らしい。ページの最後には、竜を倒した騎士と王女が二人で並んでいる絵がある。
「俺には何が面白いのか分からないな……ただの夢物語のようにしか思えない」
「またそういうこと言うしー!」
即座に手から絵本がもぎ取られ、再びそれは少女の傍らに置かれた。
不機嫌そうに食事を再開する少女に、バスクは苦笑する。
「悪かったな。しかし、ひょっとして王女様にでも憧れがあるのか」
問いに、少女がこくりと首肯する。自分でも子どもじみた欲求であることを理解しているのか、その顔は僅かに紅潮している。
「……今度遊んでよ。バスクは騎士の役ね」
「ウィルとすればいいだろう。それに、俺なんかよりも村の子どもたちと遊べばいい」
「……やだ」
意外な言葉に、思わず彼女の顔を凝視しようとする。だが、伏せられてしまった表情は窺えない。
「みんな、嫌いだもん。バスクがいい」
「……イルミナ?」
その時になって、バスクは彼女の肩が小さく震えているのに気が付く。
「みんなね、私にヘンに優しいんだ。他の子が怒られるようなことやっても、全然気にしなくてもいいよ、って言うんだよ」
「……気のせいだろう」
「違うよ!」
少女の顔が勢いよく上げられ、表情が露わになる。深海を思わせる色合いの瞳は、今は大きく揺らいでいた。
「私、他の子から聞いたんだよ! 『イルミナちゃんは大きくなったら傭兵さんになって、お金をいっぱい稼いでこの村を守ってくれるんだから、優しくしろ』って言われてるって!」
「そんな、馬鹿な……」
そこまで言いかけ、バスクは目の前の少女が高度な水魔法の使い手であることを思い出した。目覚めたその日の内に、彼女はコップに入った水を、形や体積を変えながら自由自在に操って見せた。この年でそのレベルに到達できる者はほとんどいない。間違いなく天才と言われる部類に入るだろう。
さらに、確かに寂れた農村部出身であるそういった者が傭兵会社に入り、稼いだ金を村の再興や維持に当てるという話はよく耳にする。だが――。
「いくらなんでも、酷だろうが……」
知らず知らずのうちに、バスクはその少女を自らの境遇に重ねていた。いや、むしろ同じ境遇の仲間がいた自分の場合よりも、この孤独な少女は辛い目にあっていると言える。
まだ幼く、抵抗することもできない。周囲からの見えぬ圧力に、ただ自分を殺して生きていく。周りの者達が、喜ぶように。
「バスクは……バスクは違うよね?」
少女の口から紡がれる、最早泣き声となった問いにハッとする。小さく、柔らかい手が自らの手に重ねられた。
「……俺は絶対にそんなことはしない」
安心させるように、少女の手を優しく、しかし力強く握り返した。だが、くしゃくしゃになった顔が晴れたのは僅かな間だけだった。
「お父さんも……村の人と同じなのかな」
「……ッ!?」
発された問いに、思わず息を呑む。少女にとって、父でさえ疑いの対象であるという事実に言葉も出なかったのだ。
自分の願いと違っていた時を恐れ、それを本人に聞くこともできずに過ごしてきたのだ。疑心を抱きながら、それでもこの少女は生きてきた。
ずっと、一人で。
――こんなの、俺の柄じゃないんだがな。
バスクは右手を彼女の頭に置く。その下で一瞬だけびくりと震えたが、それだけだった。そのままゆっくりと撫でる。
「……大丈夫だ。ウィルは、そんな奴じゃない」
「うん……」
頷くも、彼女の両目からとめどなく流れる涙は止まる気配がない。どうしたものかと思案していると、ある考えが浮かんだ。
「イルミナ、いいものをやる」
「いいもの……?」
バスクは上着のポケットからあるものを取り出した。
青く、透き通るような鉱石で作られたもの。花の形をしたそれは、バスクが盗賊たちと襲った馬車からの戦利品だ。当然、手に入れた過程を目の前の少女に語るつもりはないが。
これで泣き止んでくれれば、と思っての行動だったのだが、結果からいうとそれは予想以上の効果をもたらした。
確かに涙は止まったが、今度は「信じられない」といったような表情をするイルミナ。どうしたのか、とバスクが尋ねるより早く少女は口を開いた。
「これ……私がお母さんから貰った……」
「貰った? それが何故……」
「この前来た徴税の人がね、税が足りないからって持って行っちゃったの。高い値段で売れるだろうから、って」
言われてみれば、リーパーがあの馬車は徴税のものだろうと言っていた記憶がある。どうやらその担当区域がこの村だったようだ。
「お母さんね、私を生んですぐに亡くなっちゃったからよくは思い出せないんだけど、私のためにこの髪留めを残してくれたんだって……お父さんが言ってた」
「なら、やはりこれはお前のものだな」
「いいの?」
「お前の母がそう言っていたのだろう」
「……うん」
彼女が頷くのを見てから、バスクはそれを小さな手の上に置いた。イルミナはそれを再び眺め、しっかりと胸の前で抱える。
「バスク……ありがとう」
「気にするな。それよりも、時間はいいのか。まだ仕事があるのだろう?」
「うん。急がなきゃ、だね」
再び箸を動かし始めるイルミナ。一方でバスクはふと湧いた疑問について考えていた。
――ありがとう、か。
少女に気付かれないように、小さく苦笑を浮かべる。いくら考えても、その答えが出そうにないことを悟って、だ。
「……一体いつ振りだろうな。そんな言葉を聞いたのは」




