とある男の追憶━14
強い意志を伴った叫びが、空へと木霊する。
変化は、すぐに起きた。
ライトの手に収まった鞭。白銀の色合いに輝くそれ自身が、まるで意志を持つかのように、大きくうねった。
先端がより大きく、長く。そして、神々しく。
一瞬の後に現れたのは、全身を白銀の鱗で覆った蛇。鞭の中程からその身を中空に捩じらせ、叡智を湛えた、まるでルビーをはめ込んだかのような目が上空から屋上を俯瞰する。その威風に、その場にいた者達は静寂を持って答えるしかなかった。
魔術によって作り出されたという点では、以前サイが生み出した『土神』と似ているが、その威容は全くの別物だった。あの猛々しい人型のゴーレムが畏怖を与えるとすれば、今出現した大蛇は神々しさをその身に纏っている。
ただ、まだライト自身が完全には使いこなせていないためなのか、その姿は濃霧ように、うっすらとその向こうが透けて見える。
すると、赤い双眸がライトへと向けられた。まるで新しい主人を値踏みするかのようなその眼差しに、苦笑するライト。
「俺じゃ不満か……? 何だよ、いずれ使いこなして見せるって」
その言葉に納得したわけではないだろうが、ふい、と赤い瞳は横に向けられてしまう。
どうやら認めてもらうにはまだ時間が掛かりそうだ。そう思った時だった。
「馬鹿な――馬鹿な馬鹿な! あり得ない、お前が選ばれるはずが――そんなこと、許されるはずがないッ!」
掠れ、聞いたことがないほど狼狽した声。それは、フレッドが発した怒りの咆哮だった。彼は負傷していない右手を突きだし、大蛇へと狙いを定める。
「返せ……それは僕のものだ」
「だったら奪ってみたらどうだ。あんたが求めた強さってやつで……『大蛇』ッ!」
ライトの合図に従い、しゅー、と威嚇するような音をたてながら突進する蛇。その銀鱗が地面に擦れ、無数の破片となって道を開けるかのように左右へ爆ぜ跳ぶ。
「クソッ、止まれ!」
直後に放たれたいくつもの酸弾。しかしそれすらも、渦のような軌道を描いた大蛇が全て掻い潜っていく。
最後の足掻きとばかりに薙がれた毒の大太刀すらも躱し、『大蛇』は鎌首をもたげる。
直後、射出されるような勢いで撃ち出された巨体。
それが轟音と共に、フレッドへと叩きつけられた。
巻き上がる粉塵。陥没し、めくれ上がり、四散する地面。
『大蛇』がその流麗な胴をどかせば、できあがったクレーターの中央、深々とその体の半分以上を埋めたまま、フレッドは完全に沈黙していた。
苦悶に固まったままの表情が、その一撃の威力を雄弁に物語っていた。今度こそ、動き出す気配はない。
「……頼むから、もう動くなよ」
そう呟いてから、ライトは視線をその横に向けた。そこにあったのは、先ほどフレッドから叩き落したあの不気味な魔道具だ。所々にひびが見えるが、まだ完全には輝きを失っていなかった。
これは、存在してはいけない。
ライトは今度こそ確実にそれを破壊しようと、それに近寄って持ち上げた。もう一度地面に叩きつけるべく大きく振りかぶった、その時だ。
――……けて。
「――え?」
どこからか聞こえた声。だが、既に振り下ろされた動作を止めることはできなかった。
まるでたくさんの悲鳴を閉じ込めていたような、そんな大音量の破砕音と共に、その魔道具は微塵に砕け散った。
その残骸をぽかんと見下ろすも、しかし特に変わったところもない。
「……今の声は」
一瞬聞こえた、まだ幼さを残した少年の声。聞き覚えがあるようで、それでもライトはどこで聞いたものか思い出せなかった。
そのまま四散した残骸を、しばらくライトは呆然と見つめていた。
だが、唐突に何かの気配を感じ、背後を振り返った。
「ぐう……ッ⁉」
眼前に迫る拳。咄嗟に重心をずらし、ライトはそれを躱すことが出来た。
その横を、足を縺れさせながらフレッドが抜けていく。ライトに目をくれることもなく、彼は魔道具の前に跪いた。
「ふふ、クククッ――まだだ、まだ終わるはずがない」
どこか狂気じみた声を上げながら立ち上がると、ゆっくりとライトの方に向き直る。
「フレッド……お前」
その目を見た時、思わずライトは息を呑んだ。
あるはずの眼球が消え去っている。いや、正確には存在するのだが、それを濃密な闇が覆い隠していた。まるで巨木の洞の中を覗き込んだような、底知れない、黒々とした深淵。うごめくそれに、思わずライトは吐き気を覚えたほどだ。
そこから感ぜられる異常なまでの狂気に、ライトは自分の知る兄が完全に別のものになってしまったことを知った。
思い出されるは、ロイの言葉。
強さに呑まれた者の末路――滅び。
フレッドの満足に動かせる右手には砕け散った魔道具の破片。鋭利な先端が皮膚を裂いて血を流しているが、それすらも彼は気が付いていないようだった。その魔道具の残骸を掲げ、まるで天を仰ぐようにして声高に叫ぶ。
「そうだ……僕はまだこんなところじゃ終わらない。終わるはずがない! 僕は選ばれたんだからなァ!」
尚もどこか外れた調子で哄笑を続けるフレッド。最早理性など窺えないその姿を見ていられず、ライトは目を背けてしまいそうになる。
だが、その時だった。
フレッドが握りしめる破片に、何かがぼんやりと浮かび上がったのだ。
最初は表面の傷と湾曲した面のために、滑稽なまでに歪んだそれが何であるのかは、ライトには全く分からなかった。だが次第にそれは正確な形を作っていき、すぐに人の顔だと知れる。
その時、ようやくライトの中で、先ほどの声とその人物が結びついた。
「フレッ、ド……?」
驚愕のあまり、ライトは自らの声がどこか遠くのものに聞こえた。
球面の奥で、悲しそうな表情を浮かべる人物。今ライトが相対しているフレッドよりもかなり幼い顔立ちをした少年。それは、ライトの知る、まだ少年のころのフレッドに他ならなかった。
その苦しそうに歪められた唇が、僅かに動きを見せる。
――負けちゃダメだ。負けたら、全部無くなっちゃう。
脳内に、直接語り掛けるような幼い声。それが響くと同時に、ライトは何かどす黒い感情が自分の中に流れ込んでくるのに気が付いた。
「何だ、これ……ッ⁉」
全てを押し流す漆黒の濁流。そう形容できるほどの荒々しさに耐えられず、気が付けばライトはその場に膝を突いていた。
襲い掛かったのは、何かに対する恐怖。その根源にあるのは、敗北だった。
その時になって、ようやくライトは流れ込んでくる負の奔流が映し出された少年のものだと気づく。
少年は敗北というただ二文字に怯えていた。自分の価値を一瞬にして台無しにしてしまうのではないかと、ただ震えていたのだ。
そんな強迫観念が、彼の性格を歪ませていった。
敗北は、終わり。他者とは、己の強さを証明する踏み台でしかない。
全ては、誰かから認めてもらうために。
自分を保つために。
そして、尊敬する父から見捨てられぬために。
――もう、嫌だ。お願いだから、僕を……。
「――バカ野郎が……ッ!」
ライトは、未だ自分を苛む少年の感情を堪えながら、激情をにじませた呻きを洩らした。
何故、誰かを信じられなかった。
何故、全てを一人で抱え込んでしまった。
悲しみとも、怒りともつかない心の叫び。それを打ち消すかのように、ライトの耳には再びフレッドの狂ったような声が響いていた。
「クハハッ、僕がァ……僕が、落ちこぼれ如きに負けるはずがないんだ! 『大蛇』も、リズも、思い通りにならないはずがない! こんなの、何かの間違い――」
閃いた長大な鞭。
ずっ、という湿った音が、フレッドの言葉を途切れさせた。
何が起こったのか分からないというように、そのままの表情で己の腹部を見下ろしたフレッド。その視線が深々と牙を突き立てた〈大蛇〉を、その先でグリップをきつく握るライトへ移る。
「……もう、いいだろ? 兄貴」
ライトがその鞭を引き抜けば、つられるようにしてフレッドの体も、がくりと膝を突いた。そのまま呆然としている彼に近寄ると、ライトはその体に手を回して抱きしめる。
「ライト、お前……」
「もう、いいんだ。楽になれ」
その言葉に、フレッドの背がぶるりと震えた。掠れた笑いが、ライトの耳元で発される。
「……――」
彼の最後の言葉は、吐き出された血と混ざって聞こえなかった。それでも彼の体を横たえた時、その表情がどこか穏やかなものであったのをライトはしっかりと見ていた。
「――どうするつもりだ」
不意に背後から駆けられた声。振り返れば、胸の傷を押さえたウィオルが立っていた。出血自体はすでに止まっているようだったが、まだ大丈夫層にはとても見えない。
「先輩……大丈夫なんすか?」
「傷自体は浅い。用心して持っていた解毒薬のおかげで、まだふらつくが、死にはせん」
「そうですか。それは……」
よかった。そう言いかけて、相手の鋭い視線に気が付く。
「俺のことはいい。それより、お前だ。兄殺しなど……軽い罪じゃ済まないぞ」
「分かってます……」
そう言うと、ライトは足元にあった魔道具のかけらを一つだけつまみ上げた。それは、まだ微かにその力を宿していることを証明するように、淡く輝いていた。今にも消えてしまいそうなそれを手に、ライトはリズの元へと向かう。
「……どうするつもりだ」
再び背後からかけられた問い。
それに、ライトはちらりとウィオルの方を見る。
「俺は、もうここにはいられません」
「……逃げるのか?」
「捕まりたくないですし。それに、俺はレバントリアの家宝も盗んだ。怒り狂った親父なら、俺をすぐに殺そうとしますよ」
「逃げ切れる保証もないだろうが! たとえ追っ手を撒いても、どこに身を隠すつもりだ」
背後の声に答えず、リズのもとに屈みこむライト。どうやら気を失っていたらしい彼女は、今のやりとりが聞こえたのか、薄目を開けた。
「ライト……?」
「あぁ……大丈夫だ、もう終わったから」
その言葉に、少女は小さく表情を綻ばせる。そんな彼女を見て、ライトの胸がちくりと疼いた。
しかし、やらねばならない。
彼女に、これ以上傷ついて欲しくなかったから。辛い思いをして欲しくなかったから。
――たとえ、自分がどうなったとしても。
「それは……?」
リズは、目の前に差し出された魔道具の欠片を見つめた。
ライトはぐっと唇を噛み、気を抜けばくしゃくしゃに歪んでしまいそうになる顔に、無理やり笑顔を張り付けた。
「リズ……お前に会えてよかったよ」
彼女が何か反応をする前に、ライトはすぐに言葉を連ねた。
「――ライト・レバントリアに関する記憶を、すべて忘れてくれ」
直後、握られた欠片が一瞬だけ今までにないほど強く、そしてどこか儚げに瞬いた。
■
「――いたぞ! そっちだ!」
「罪人を捕えろ!」
夕刻に響く鋭い声。
整備された大通りを、大声を上げながら騎士たちが走っていく。彼らが過ぎ去ってしばらくして、脇道の角から顔を覗かせる少年がいた。
「……行ったか」
溜め息を吐き、近くの暗がりに身を潜めるライト。しゃがもうとして、自分の体が目に入った。血まみれで背の部分で大きく裂けた学生服。裾から覗く腫れあがった左足は、まだ動かすだけで悲鳴を上げそうになるほど。
今のところ〈不可視化〉を使うことで上手く逃げられているが、それも時間の問題だろう。こうして魔力を回復させているところを見つかれば、この体ではもう抵抗の余地もない。
そんな状況に輪を掛けて、ライトにとって予想外だった要素がある。それは、ライトが手配されるまでの驚くほどの時間の短さだった。
どうやら、父は相当頭に来ているらしい。
「まぁ、自慢の息子を殺されて、家宝を盗まれたんじゃ、そりゃあ怒るわな。俺を始末し損ねたらレバントリアの権威にもかかわりそうだし」
そう言って、自嘲気味に笑うライト。今更ながら、リズを守るためとはいえ、自分のしでかしたことの大きさに震えが来る。
だが、もしこうなることが分かっていたとしてもライトは同じ行動を採るだろう。それが正しい選択だと信じ、同じ状況を甘んじて迎えていたはずであると断言できた。
とはいえ、みすみす捕まるつもりもない。
「さて……どうしたもんかな」
当初の目的では、エンシャントラを出てウルムガント辺りに行こうと思っていた。流れ者も多いあそこなら、そうそう嗅ぎつけられることもないだろう。
しかし、問題はどうやってこの国を出るかだ。姿を消そうにも、その程度の魔術ならば衛兵は容易く看破する。国の出入りを管理する者を、それほど簡単に出し抜けるはずがない。特に今は普段よりも警戒しているはずである。
「……商人の荷車にでも忍び込むか」
残された手段に、ライトは苦々しい表情を浮かべた。結局、これもそれほど成功する確率が高いわけでもなく、むしろ失敗する確率の方が大きいだろう。
仕方なく、荷車でも探そうと振り返ったその先。
淡い輝きを纏った刀の切っ先が、ライトの目の前に向けられていた。
おそるおそる視線だけ動かし、目にした顔に、思わず苦笑してしまう。
「……よぉ、久しぶりだな」
剣の持ち主はその軽口に答える素振りもなく、以前と変わらぬ冷たい目が、ただライトを凝視していた。
緑色の隊服に、鷹の紋章。それは、あのロイという王国騎士だった。
「……ハッ、こうなったらもう逃げきれる気がしねぇや」
微塵も動かぬ切っ先を前に、ライトは観念したかのように両手を挙げた。
「足も怪我してるし……まぁ、全開でやってもあんたに勝てるわけないんだけどさ。ほら、捕まえるんならさっさとしてくれ」
「……要求されているのは、お前の死だ」
ようやく口を開いたロイ。その平坦な声からは、やはり何の感情も読み取れない。
静かに告げられたその言葉に、ライトは「だよな」と肩を竦めた。
「考えてみりゃ、捕まったとしても親父が手を回して殺そうとするだろうな……ほら、やれよ」
「随分と素直だな」
「見苦しく足掻くのは嫌いでね……早くしてくれねぇと、怖くなって逃げだすかもしれねぇけど」
半ば本音の混ざった自虐。
確かに、不思議と恐怖も後悔もない。こうなることをどこかで予測していたこともあるが、それよりも、ウィオルがしてくれた約束が大きかった。
ライトに代わり、リズを守ること。リズが再び気を失った後、彼は自らの贖罪としてこれを守ると誓ってくれたのだ。律儀そうな彼ならば、これを反故にすることはなさそうだと思えた。
ただ、同時に胸に去来する虚無感の正体も理解している。
「本当は……俺がやりたかったんだけどな」
「何だと?」
「あぁいや、何でもない」
目の前の騎士は尚も訝しむ様子を見せたが、「ふん」と鼻を鳴らして切っ先を持ち上げた。しかし、それが不意に途中で止められる。
怪訝そうに眉を寄せるライトの耳に、聞こえてきたものは疑問だった。
「最後に聞かせろ……何故、あんなことをしでかした」
「何故ってもなぁ……」
考えることもなく、苦笑と共に言葉は出てきた。
「この前あんたにも言ったとおりだ――俺の守りたいものを、ただ守っただけさ」
「……そうか」
そう言って、ロイは今度こそ刀を握る右腕を大きく振りかぶり、そのままの体勢で止める。
「ならば俺も、自らの職務を全うするだけだ」
僅かな間を置いて、彼の体がぴくりと動いた時に、ライトは己の首が飛ぶ瞬間を悟った。
自然と、その目を閉じる。
――そういや、さよならも言えずに来ちまったなぁ……。
その時、ふと脳裏に「約束」という単語が再び浮き上がってきた。その理由に気が付き、「あぁ」と口の端を歪めるライト。
思い出されるは、既に遠い過去のようにさえ思える、数日前の記憶。すっかりその枝を寂しくさせてしまった巨木の下で、大切な人と交わした約束だ。
――あの木の上で、いつか同じ景色を。
果たされる寸前でついぞ叶わなかったそれが、今更重くライトにのしかかる。
「リズ……」
呟きと同時。
その身に残照を宿した刀が、ライトへと振り下ろされた。




