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とある男の追憶━11

 教室棟へと続く廊下。昼休みが終わりに近づき、速足で行きかう学生たちの中、食堂側から三つの影がゆっくりと歩いていく。

 その先頭に立つ、丸眼鏡を掛けた少年が後ろにいる二人へと振り返った。

「で……二人とも、何かあったの?」

「別に、何でもねぇって。つーか何回聞けば気が済むんだよお前は」

 不思議そうに首を傾げるキッシュに、ライトは面倒くさそうに答える。隣で歩くリズを見ても、苦笑を浮かべているだけ。ただ、その頬がほんのりと赤く染まっているのに気付いているのは自分だけだろう、とライトは思う。

 あれから学食でキッシュと合流し、三人で昼食を食べた。まだどこかぎこちなかったライトとリズのやり取りも、キッシュと会うまでにはだいぶ自然に戻ったはずだ。

 それでも、二人の前で歩くキッシュは何かしらの変化に気が付いているようだった。眼鏡の奥で、その細い目が面白がるように細められる。

「本当にー? 怪しいなぁ」

「あのな……いい加減にしろ。大体、何を根拠に言ってんだよ」

 確かに何もなかったわけではないが、あまり人に言いふらしたくない。こうやって茶化されているような状況では尚更だ。

 そろそろ怒るぞ、とライトはキッシュを睨み付ける。リズも何か言ってくれればいいのだが、彼女は困っているようにも、嬉しがっているようにも見える顔をしているだけだ。 

「根拠も何も、何か二人とも元気になったなぁ、って思ってさ」

「二人……え、私そんなに変だった⁉」

「自覚してなかったんだな……全然、いつも通りじゃなかったぞ」

 ライトの言葉に、今更ながら気恥ずかしさが出てきたらしいリズ。気恥ずかしさゆえか、がっくりと肩を落とした。

「ま、何はともあれ元に戻ってよかったよ。二人も進展したみたいだし。もしかしてその、もうキスとか――」

「調子に乗るなっての」

 ライトの繰り出した蹴りが、前を歩く尻に命中した。つんのめりながらも、キッシュは何とか転倒を避ける。

「うわっ⁉ 蹴ることないじゃないか」

「うるせー。ほら、馬鹿なこと言ってると講義遅れるぞ」

「分かってるよ」

 そう言って、ライトが指した講義室へと駆けていくキッシュ。そこで、彼は次の講義を受けなければならないのだ。そろそろ講義が始まるのか、人の出入りが激しくなってきた。

「リズさんも、早く」

「うん、ちょっと待ってて!」

 走っていく彼にそう叫ぶと、彼女はライトの方へ向き直る。

 次の時間にそこで行われる講義に、キッシュだけでなくリズも出席しているのだ。「魔装具生成」という講義らしいのだが、彼女も興味があるとかでその講義を取っているのだとか。

「……本当に、優等生の鏡だよな」

「ん……何か言った?」

「いや、何でもねぇよ」

 苦笑しながらの答えに、尚も不思議そうに小首を傾げるリズ。いつも見ているその仕草が何故かとても愛おしいように思えて、ライトはその苦笑をさらに広げる。

 ――こりゃあ重傷だ。

「……早く行かないとまずいんじゃないのか?」

 ちらりとライトが目をやれば、教室の入り口でそわそわと二人を窺っている少年が見える。

「うん」と頷いたところから、リズ自身もそれは分かっているらしい。ただ、言いづらい用事なのか、先ほどから体の前で組ませた手をしきりに組み直したりしている。

 そんな彼女の様子に、思わずライトまで身構えてしまう。

「な、何か大事な用なのか?」

 再びの「うん」という返事。

「その、さ……ライト、この講義の後って時間空いてる?」

「あ、あぁ。今日の分はもう終わったぜ?」

 リズを待つためにサボった講義しかなかったため、実際は何も講義を受けていないわけだが。そんなことは間違っても言わない。おせっかいな彼女のことだ、言えばまた小言を聞く羽目になるだろう。

 そんな考えの中、ふと、ライトの脳裏を昨日の記憶が過った。

「あ……もしかしてあの約束か? 木に登ってみたいとかいう」

 当たったのか、えへへ、と照れたように頭を掻く少女。

「ライトが見てる景色を、私も見てみたい。どうせなら今日がいいの」

 ――二人の気持ちを伝えあうことができた、今日が。

 そんな言葉が聞こえてくるようで、ライトはどこかむず痒さを感じてしまう。だが、キッシュが見ていることもあり、その気持ちをそのまま表すことはできなかった。

 ふい、と顎を横に向けてしまう。

「……別に何時だっていいけどな。それじゃあ、あの木のところで待ってるぞ」

「分かった……あ、じゃあまた後でね!」

 周囲に学生がいなくなりつつあることで時間的にまずいことを感じ取ったのか、リズは慌ただしく手を振って目的の教室へと走っていってしまう。

 彼女が教室の中に吸い込まれるように消えるのを見届けたライト。

「……んじゃ、それまで時間でも潰してるか」

 そう呟いて、閑散とし始めた廊下をゆっくりと引き返していった。


 校舎から少し離れた、この学園のシンボルである大樹。その真下についたライトは、その威容を見上げるべく視線をゆっくり上げていく。

 ライトが入学したころはまだ咲き誇っていたピンク色の花弁も、今はもう跡形もない。だがあともう半年もすれば、期待に胸躍らせる新入生を歓迎するかのような満開の花が、この特に目立つものもない空間を華やかに染め上げるだろう。

 そんなことを考えていた時、ライトは誰かの声を聞いたような気がした。

「……何だ?」

 後ろへと視線を移せば、そこにあるのは古ぼけた長方形の倉庫。以前は物置として使われたらしいが、校舎の増築によってほとんどの道具が移された今では、そこに立ち入る者などいないはずだ。普段は施錠もされているはずである。

 しばらく待ってみるも、やはり何も聞こえてこない。気のせいかと思った、その時だった。

 どすっ、という重々しい音。その後に聞こえたのは人の声だろうか。

「誰か、いるのか?」

 もし人がいたとして、そんな場所で何をしているというのか。不思議に思ったライトは、その煤けたような色をした物置に近寄ってみる。

 ひょっとすると教員の誰かが中の整理でもしているのかもしれないな、などという甘い考えは、閉ざされた扉の下に落ちていた、真っ二つにされた錠前を見た瞬間に吹き飛んだ。

 思いっきり引き開けられた扉の先。仄暗い空間の中に、ライトは二つの影を認めた。

 壁に沿って置かれた、埃まみれの大道具。使わなくなった机や椅子の壁を背景に、一方がより細身の人物を組み伏せていた。

 どうやら、押し倒されている側は少女らしい。ウェーブのかかった金色の髪に、ライトは見覚えがあった。それは以前レバントリア家に接触することを狙って近づいてきた、あの少女。

 しかし今、あの静かな微笑みはない。皺になって乱れた制服。所々裂けた部分は、上質なシルクのような滑らかな肌を覗かせている。大きく見開き、涙を浮かべたその目が助けを求めているのを、ライトははっきりと感じ取った。

 一体、どうなっているというのか。訳が分からず混乱するライトに、ドスのきいた低い唸りが発せられた。

「何だテメェ……誰に許可取ってここに居やがる」

 少女の傍らにいた男が、ライトに鋭い視線を向けていた。背格好からしてどうやらライトとは同じくらいの歳らしいが、逆立てられた銀髪や瞳に宿る獰猛な光が、威圧感のような、その男に近寄りがたい雰囲気を発している。

 あまり目が良くないのか、それとも逆光が眩しいのか、もともと細い目を更に細める男。

「先公じゃねぇな? だったらとっとと失せろ。そうすりゃ手は出さねぇ」

 その言葉に、ライトは歯を剥き出す彼から床に倒されたままの、名も知らぬ少女へと視線を移す。怯えた犬のようにふるふると首を横に振る姿に、ライトは深々と溜め息を吐いた。

「……分かった、とっととどこかへ行くさ。そもそも、お前に恨みもないしな」

 その言葉を聞き、にやりと薄い笑いを浮かべる男。

「物分かりがいいじゃねぇか。そうした方が身のためだ」

「生まれつき、面倒なことは嫌いなんでね。それに、そいつはあまり好きじゃない」

「そんな……」

 ライトに指された少女は、その表情に絶望を浮かべた。その光景に、男がさらに笑みを醜悪なものへと変える。

「いいねぇ。そういう割り切り方、俺は好きだぜ? 気が合いそうじゃねぇか」

「生憎、俺はこういう陰湿なやり方は嫌いだ」

「ハッ、そいつは残念」

 肩を竦める男に、ライトはさっさと背を向け出て行こうとする。だから、その瞬間に男が見せた凶悪な笑みを見逃した。

 男が屈みこむようにして、その体を前傾させたのだ。その視線は、まっすぐにライトの背へと向けられている。

「確かに手は出さねぇ。そう言ったが――」

 ばねのように、その脚がしなった瞬間。

 弾丸のように撃ち出されたその体は、ライトのすぐ後ろへと肉薄していた。

「足は出してもいいよなあッ!」

 抉るような角度で放たれた回し蹴り。つま先が、無防備な首を背後から刈ろうと迫る。

 それを見て咄嗟に、危険を知らせようと口を開く少女。間に合うはずがないと分かってはいるが、反射的なものだった。

 しかし――繰り出された蹴りは、虚しく空を切った。

 ライトが、少しだけ上体を前に倒したのだ。

「は……?」

 驚きに、目を見開く男。そこで飛び込んできたのは、ライトの声だ。

「俺も、別に恨みはねぇよ。でもな――」

 右足を軸にしつつ、左の足を引く。それだけの動作で、蹴りを空振った男へと向き直るライト。その時には既に、握られた右の拳を全力で引き絞っていた。

「テメェのやり方が気にくわねぇんだよ!」

 右腕を通し、がごん、という衝撃が身体を走り抜ける。吹き飛ばされた男の体が、その先に積まれていた用具を巻き込んで大きな音をたてた。

 男の上に次々と重そうな物が崩れ、層をなしていた埃がぶわっと空間に舞い上がった。

「あ――」

 ライトは、すぐ横で発された声の方に視線を落とす。弱々しい少女の目が、ライトの方を見つめていた。

「何で……私はあんなことしたのに、何で――」

 ただ「何で」と問い続ける少女の言葉は、ライトが肩を掴んだことで途切れた。

「あんた馬鹿か⁉ 何でフレッドなんかに近づいた!」

 ライトの怒声に、びくっと体を震わせる少女。怯えたように俯く彼女に、ライトは更に苛立ちを募らせていく。

「今のやつは最近フレッドと一緒にいたやつだろうが! 俺が駄目ならフレッドにしようとでも考えたのか⁉ あんた、そんなに権力が欲し――」

 不意に、はっと息を呑むライト。少女の肩が震えていることに気が付いたのだ。顔を上げた少女がライトを睨み付ける。強い意志を感じさせるその目からは、今にも零れそうな涙が見受けられた。

「私だって――私だって、こんなこと本当はやりたくないですよ! 友達とだって、家柄なんて気にせずいっぱいお話ししたい! ライトさんとも、本当は普通にお友達になりたかった! でも……」

 そこで、彼女から窺えた一本の芯のようなものが失われた。一瞬だけ姿を現したそれは霧散していくようになくなり、後に残ったのは、すべてを諦めきったような気弱そうな少女だった。

「お父さんに、言われました……私達みたいに吹けば飛ぶような家柄じゃ、みんなから馬鹿にされるんだって。だから、どんな手でも使って、もっと位の高い家柄の人と仲良くなれって。それができないなら、お前なんていらないんだって……! だから――ッ」

 血を吐くように、隠してきた思いを吐露していく少女。しかしそこで限界が来たのか、声は次第に弱々しくなり、最後には口をつぐんでしまった。

 その時になって、ようやくライトは悟る。目の前の少女も、この貴族社会の犠牲者なのだと。彼女もただ、その中で必死にもがいていただけなのだ。

「お前――」 

 だが、ライトの言葉は最後まで紡がれることはなかった。

「痛ッ……てぇ」

 がしゃん、と先ほど来たばかりの山が崩れる。おそらく、すぐに男は起き上がってくるだろう。

「行くぞ、ここにいたらまた襲ってくる」

「……はい」

 そして、飛び出すようにして物置きを後にする二人。何かを思い出したかのように少女が顔を上げたのは、校舎の近くまで走って来た時だ。足を止めた彼女に従い、ライトもその場でブレーキを掛ける。

「どうした」

「あの人……危ないかもしれません」

「あの人?」

「あの学年一位の……えぇと」

 学年一位、という言葉で、ライトの記憶に馬部名前は一つだけ。何故か、嫌な予感が頭に浮かぶ。

「……リズか⁉」

 その問いに、案の定少女は小さく頷いた。

「気を失う前、あなたのお兄さんがその人の名前を言ってました。まさかとは思いますが……」

「そんな……」

 やはり、あのフレッドが何もしかけてこないはずがない。しばらくはリズの周辺を見張るつもりだったが、改めて狙われているのだと聞かされれば少なからず動揺はする。

 まさか、講義が行われている状況の中で彼女に手が出せるとは思えない。しかし、そんな常識は通じないことは今までに何度も見せつけられてきたではないか。ライトの記憶は、例の不気味なオブジェクトの存在をはっきりと覚えていた。

 すぐに対処しなかった自分の迂闊さが、今になって悔やまれる。

「あんたは、さっきの男のことを先生に伝えておいてくれ。事実だってわかれば、相応の処罰がされるはずだ」

 彼女にそう言って、リズがいるはずの講義室へと走り出そうとするライト。しかしその右手を、少女が伸ばした手が掴んだ。

「おい、あんた何を――」

 言いかけた言葉は、振り向いた瞬間に止まってしまった。

 小さな両手で、優しく包みこむようにされたライトの右手。少女は、それをそっと自分の胸へと押し当てた。

 僅かな間を置いて、緑色の淡い光がそこへと集まっていく。陽光のように暖かい光が、魔力によって生み出された。それが治癒魔術だと気づいた時には、既にその光は薄れていき、小さなたなびきを残して消滅してしまっていた。

「右手……さっき助けてくれた時に、怪我してたみたいでしたから」

 顔を綻ばせ、そっとその手を離す少女。

 彼女の言う通り、先ほど男を殴り飛ばした時、ライトは右手の甲を僅かに切っていた。大した痛みではなかったので放っておこうと思ったのだが、どうやら彼女はいつからかそれを知っていたらしい。

「……もしかして、まだ家のこと狙ってんのか?」

「ふふっ、どう受け取るかはお任せします」

 くすり、と微笑を浮かべるその表情は、家柄に縛られた貴族の娘のそれではなく、普通の少女のもの。少なくとも、ライトにはそう見えた。

「ありがとな。助かったよ」

「いえ……その、頑張ってください」

「あぁ」

 手を振り、再びリズがいるはずの講義室に向けて走り出すライト。しかし彼女に無事でいて欲しいと願う一方で、心のどこかでは決着の時が近づいているのだと感じ取っていた。


 ■


 ライトが貴族の少女と別れる、ほんの少し前。

 キッシュは、五百人程を収容できる部屋で講義を受けている最中だった。最前列の端近くの席に座り、教壇に立つ老教授の説明の中で新たに得る知識に感心していた。

 そんな彼の思考を停止させたのは、隣の席から聞こえた物音だった。

「リズさん……?」

 隣に座る、見知った少女の方を窺う。そうして見た光景に、キッシュは思わず眉を潜めてしまった。焦点を結ばぬ視線に、緩んだ口元。普段彼女が見せないその表情のまま、固まっていたのだ。

 教授の意識が此こちらを向いていないことを確認し、キッシュは声を押さえて彼女に尋ねる。

「どうしたの? 具合でも悪いとか……?」

 だがリズはそれには答えず、それどころか、急に立ち上がったかと思えばそのまま端に設けられた通路から、講義室の出入り口までふらふらと歩いて行ってしまう。

「ちょっ……」

 一体彼女は何を考えているのか。慌てて老教授の方を窺うと、彼もリズの様子には気が付いたようだが、特に何も言わずに講義に戻ってしまった。どうやらこの者は生徒に甘い、いわゆる緩い先生なのだろう。

 迷ったが、結局キッシュも彼女について講義室を出ることに決めた。明らかに、普段の彼女からは考えられない様子だからだ。

 聴講している他の学生の視線を受け、キッシュは顔を赤くしながらリズの後を追う。最前列という位置は、後方の者からは目につきやすい場所なのだ。一方で、彼女は全くそれを気にしていないようだった。

「リズさん、一体どうしたんです?」

 再び問いかけるも、やはり反応はない。小声だから聞こえていないというわけでもないだろう。そのまま扉を抜けるリズに続いて、キッシュもすぐに講義室を出る。彼女は、右手側にある階段を上っているところだった。

 講義室を出た今ならば、こそこそとする必要はない。キッシュは思い切って階段を走り、リズの前に回り込んだ。

「どうしたのさ、急に講義室を抜け出して⁉」

「私……行かなきゃ」

「行くって――」

 その時、キッシュはあることに気が付いた。今のリズの状態は、講義で聞いた『魅了』というものに似ているのではないか。しかしそれで何者かに動かされているのだとしても、一体どのタイミングで魔術を掛けたというのだろうか。

 だが、今はそんなことを考えている場合ではない。

「リズさん、目を覚ましてください!」

 だが、彼女の目はどこか遠いところを見ているようなままだ。キッシュの姿が彼女の視界に入っているのかどうかも分からない。彼の横を通り過ぎ、さらに上の階へと上がっていこうとする。

「駄目だ……こうなったら、ライトに――」

「ライト? へぇ、君は友達なんだね」

「なっ……」

 何者かの声。しかし、振り向く寸前でキッシュは壁に押さえつけられた。手も後ろで拘束され、頭も押さえつけられてしまう。

「ぐっ……誰――」

「ははっ。多分、君は知らないと思うよ」

 確かに、キッシュには聞き覚えの無い声だった。だが気配を消して近づき、体の自由をこうもあっさりと奪うほどの人物ならば、実力のあるものだということは分かる。

「まさか……お前がリズさんにチャームを……⁉」

 すぐ近くで、小さく息が洩らされた。後ろの人物が、笑ったのだ。

「そうだと言ったら、どうするのかな」

「お前……ッ!」

 壁に押し付けられた状態から脱しようと必死にもがくが、全くその手を振りほどけそうな気配はない。むしろより強い力で顔を押さえつけられてしまい、壁で擦れた眼鏡が床に落ちた。

「ぐ……」

「ライトが来たら伝えておいてくれないかな。教室棟の屋上で待ってる、ってさ」

 その言葉が終わらないうちに、突然キッシュを押さえつけていた手が外された。この隙に後ろにいる者と対峙するべくステップを踏もうとし――その足は、虚しく宙をかくだけに終わった。

 体は、階段の下に向かって放られていたのだ。

「う、わ……」

 キッシュは、懸命に手をばたつかせるが、その手は虚しく宙を切るだけ。暗転する前に視界が映したものは背を向けた少女と、その目に狂気を湛えた男の姿だった。


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