とある男の追憶―10
翌日、ライトはとある講義室の前に立っていた。先ほどから、午前中の講義を終えた学生達が流れるようにして教室から出てくるのが見える。
ライトにとって、普段この時間は呪文にしか聞こえない教授の話を別の場所で聞いているはずだった。しかし、今日はサボりだ。今はそれよりも大事なことがある。
時間が経つにつれて、少しずつ出てくる学生達の数が減っていった。見ていれば、ほとんどの者が退屈な講義を終え、ようやく得た友人と過ごせる自由時間に明るい表情を浮かべている。
そんな中に、ライトは視線を俯けて歩く人物を発見した。その者は周囲と少し距離を取っているので、ライトの位置からは尚更目につく。
こちらに気付いていない様子だったので、ライトは近寄って声を掛けた。
「よぉ、リズ」
唐突に呼ばれたことに驚いたらしく、彼女ははっと顔を上げる。しかし視界にライトを映すなり、その顔は強張ったものに変わった。
それでも、彼女はいつも通りに振る舞おうと努力したらしい。ぎこちなくそのまなじりが下がり、頬も僅かに緩んだ。
「ライト……どうしたの? こんなところで」
「あぁ、ちょっとな」
ほんの二、三言の会話。だが今はそれさえも、ライトにとっては酷く苦痛に感じられる。
二人を避けて通り過ぎていく学生の群れ。ここに突っ立っていては邪魔だろうと判断し、ライトは自分の後ろ側の廊下を指で示す。
「これから食堂行くんだろ? キッシュも誘って、三人で食べようぜ」
「……私は、いいよ」
言葉を押し出すようにして告げたリズの顔に、一瞬だけ沈鬱な影が差した。
「これから、ちょっと用事があるの。その……先生に呼ばれてて。だから、残念だけど二人で食べてよ。今度は行けるようにするから」
言い終える前から再び歩き出そうとするリズ。足早にその場から去ろうとする彼女の肩を、伸ばされたライトの手が掴んだ。
怯えたように、小さくその肩が跳ねたのをライトは確かに感じた。
最後に教室から出て来たらしい生徒がちらりと二人の方を見やったが、すぐに興味を失ったようで、人気が無くなり始めた廊下に消えていった。
「ら、ライト……?」
先ほどの表情に少しの不安を混ぜた顔が、半分だけライトの方を向いた。その視線が、ライトのそれと交差する。
「何なの? 私、早く行かないと先生に怒られ――」
「嘘なんて、つくなよ」
リズの赤みがかった瞳が、僅かに揺れた。それは言葉を遮られたことよりも、ライトの言葉に驚いたようだった。
「嘘って……何のこと」
――まだ、隠すのか。
誤魔化す様なリズの微笑みに、ライトは腹の底から苛立ちが湧き上がってくるのを感じた。それは目の前の彼女に対してではない。その心を押さえつけている存在に。そしてそうさせてしまった自らの弱さに対してのものだ。
嫌な熱を帯びた感情を外に出さないように気を付けながら、ライトは指で、リズの右手の先を示した。
「その手。嘘をつく時に服をいじるの、お前の癖だぞ」
指摘され、リズは慌てて自分の右手を見る。それを見て小さく苦笑するライト。
「さっき、スカートの端を指でつまんでた。まだ知り合ってから半年だけど、それくらいは分かる……本当は、フレッドだろ?」
ライトの口から発された名。それに対する少女の動揺は、隠し切れないほどに明白だった。
それでも否定しようと、リズが大きく息を吸い込んだのが見て取れる。しかし、思いとどまったようにのろのろとその口を閉ざすと、彼女は再び俯いてしまった。
「リズ……」
そんな彼女を、ライトは胸が裂けるような気持ちで見つめていた。手を伸ばしたい。あの震える肩を抱きしめたい。そんな衝動に近い感情を、ライトはかなりの精神力を使って収めた。
「リズ、嫌々あいつの言うことを聞いているんなら、もう止めろ。お前がそんなことをする必要は――」
「駄目だよ」
今度遮られたのは、ライトの方だった。
ライトが何かを続ける前に、下を向いていたリズの顔がライトへと向く。そこには、悲しそうな微笑が浮かべられていた。
「言いたいことは分かるよ。ライト、本当は優しいから……でも、私なら大丈夫。だから――」
「……違うッ!」
叫びが、二人しかいない廊下に響き渡った。
一瞬、ライトはそれが自分の口から出たものだと分からなかった。はっと我に返れば、目の前には呆気にとられたようにぽかんと口を開けたままのリズの顔が見える。
今更ながら、幼い感情の爆発に羞恥が生まれ始める。
「悪い……でも、違うんだよ」
ライトが、こうしてリズと話している理由。確かにそこにはリズを助けたいという思いも少なからずある。しかし、それだけかと言われればそうではなかった。
それに気づかされたのは、昨夜のロイとのやり取りの中でだ。そこで、ライトはリズとフレッドが並んで歩いているのを目にした時の自分を思い出していた。
それを見た時、ライトは最初、リズがフレッドの言いなりになっていることに苛立っているのだと考えた。
しかし、もしそれがフレッドでなかったとしたら。
例えば、それがサイや他の者であったとしたら。それでも、ライトは何か締め付けられるような痛みを感じただろう。
「俺は、お前が思うような人間じゃねぇよ」
――ガキかよ、俺は。
改めて抱く自己嫌悪に、ライトは思わず視線をそらしてしまう。
「どういう、こと……?」
そんなライトに、リズが不安そうな表情を浮かべる。思わず、自分の心拍数が上がるのを意識してしまうライト。
「俺は……ッ」
気遣うように近づけられるその顔に。本気で自分のことを案じてくれるその瞳に。ライトが隠そうとした感情の防壁は、脆くも崩れ去った。ぎゅっと、力いっぱい目を閉ざす。
「お前の隣で笑ってるのが……俺じゃなきゃ嫌なんだよ!」
その叫びの残響が、ゆっくりと溶ける様にして消えた後。一瞬だけ、完全な沈黙がその場を支配した。
言った。言ってしまった。
深い悔恨が頭を支配するが、もう遅い。
――リズは、怒るだろうか。
ライトは恐る恐る、彼女の様子を窺うべくそっと薄い目を開ける。だが、予想を違えて飛び込んできた光景に息を呑んだ。
「――そんなの、ズルいよ」
ぽたり、ぽたり、と数滴の丸い雫が、ほんのりと紅潮した頬を伝って硬質な床に弾ける。最初は途切れ途切れに。次第に流れ落ちる間隔は狭くなっていく。
彼女は、くしゃくしゃに顔を歪めて泣いていた。
「私は、私だけが我慢すればいいって思って……でも、そんなこと言われたら……ッ!」
留めていたのであろう感情が、震える声となって吐き出される。彼女はそれをなんとか止めようとしているようだったが、その意に反し、大粒の涙も、溢れる言葉も止まることなく流れ続けていく。
――何で、泣いてんだよ。
予想外に事態に停止しかけたライトの思考が、ようやく動き出した。「何故」という疑問符が脳裏を目まぐるしい速度で巡り、いつぞやの記憶を呼び覚ましていく。やがて記憶同士が繋がり、混ざり合い、ようやく一つの答えとなってライトに提示された。
「そんな、だって……ははっ、マジかよ」
「何笑ってんの……バカ!」
小さな拳が、ライトの胸を叩いた。予想以上に重い一撃に息を詰まらせたライトの鼻に、不意に甘い香りが飛び込んでくる。
気が付けば、リズの顔がライトの胸に押し付けられていた。背に回された小さな手が、ライトの上着を握りしめる。
「なっ……」
どくり、と心臓が一際大きく拍動したのが分かる。
どうしていいか分からずに凍り付くライト。その耳に、くすっ、という小さな笑いが聞こえた。
「ライトって、本当バカだよね」
「……っせーな」
まだ涙に濡れている声に文句だけ返すと、ライトはその両手をぎこちない動作で彼女の背の回そうとした。
その時近くで、かつん、と高い足音が響いた。
「――なるほど、妙に遅いと思ったら……こういうことか」
反射的に、ライトは視線を正面に向けた。
数メートル先に佇む、自分よりも少し高い背の男。纏わりつくような、粘着質な声。
生まれた時から最もよく聞いてきた、あの声だ。
「フレッド……ッ!」
「やぁ、ライト」
唸るようなライトの声にも、相対した男は動じない。涼しげで、不敵な笑みをその顔に張り付けている。
ライトの真下で、掠れたような悲鳴が上がった。
「ちが……その、ライトは悪くないんです! 私が――」
弾かれたように離れようとするリズ。だがその手を、ライトがしっかりと捕まえた。
怯えた瞳が、ライトへと向けられる。
「ライ――」
「フレッド、もうリズを巻き込むな」
リズの抗議を遮り、ライトは彼女を守るように一歩前へと踏み出す。空いている方の手は、魔力をいつでも使えるように準備してある。
その言葉に、フレッドの頬がひくり、と痙攣する。
「へぇ、僕とやるつもりかい? いいよ、じゃあ手加減しない」
ゆらり、とフレッドの両腕が不気味な動作で掲げられる。面白がるように目を細め、そして――。
「……なんて、ね」
ぱたり、とその腕を下ろした。
面食らったのはライトの方だ。あまりにも唐突な兄の変化に、思わず眉を潜めてしまう。
「……何のつもりだよ」
「何のつもりも何も、何で戦わなきゃいけないのさ」
漂わせていた剣呑な雰囲気を霧散させ、苦笑するフレッド。その言葉通り、今の彼からは敵意が全く感じられなかった。
「いやぁ、まさか二人が付き合っていたなんて知らなかったなぁ。まったく、早く言ってくれればいいものを……危うく、可愛い弟の彼女に手を出すところだったじゃないか」
くるりと背を向けたかと思えば、無人の廊下をすたすたと戻ろうとさえする。面食らったのは、ライトの方だった。
「お、おい! ふざけてんのかよ⁉」
「はは、何言ってんだか……」
ひらひらと手を振り、その背は手前の角を曲がって行ってしまった。
「……どういう、ことだ?」
訳が分からないライトはリズと顔を合わせるも、彼女も呆気にとられたような表情を浮かべているだけだった。
■
ウィオルは、心の中で何度目かも分からない舌打ちをした。
その視線の先、神経を逆なでする原因がこれまた何度目になるか分からない欠伸を見せる。
「ふぁ……フレッドさん、遅いっすねー」
ぎらぎらとした光沢のある銀髪を逆立てた青年。気怠そうに廊下に胡坐を掻き、壁に寄りかかった姿からは貴族の嗜みとされる優雅さなど微塵も感じられない。
「……アウル、黙って待っていろ」
「えー。俺、喋ってないと落ち着かないのにー」
その言葉を裏付けるかのように、アウルと呼ばれた男は口を閉じた代わりに前後に体を揺すり始めた。フレッドが来るであろう方向に時折目をやりながら、退屈そうに溜め息を吐いている。
――何故、こんな奴がこの学院にいるんだ!
ぎりっ、と歯の軋む音が内側から聞こえる。
アウルはウィオルやフレッドよりも一つ下の学年で、何を思ったのか、しばらく前にふらっとフレッド達のもとにやって来た。
――あんた面白そうだから、仲間に加えてよ。
それが、彼の発した第一声だ。ウィオルはその身の程知らずな下級生の言動に怒りを覚えたが、フレッドは違った。快く、彼を自分の仲間に引き入れたのだ。以来、アウルは暇になれば彼らのところへ現れるようになった。
聞いた話では、どこぞの地方貴族の末子なのだとか。金だけはあったので、とりあえず学院には入れたというところだろうか。
「そうだとしても……限度があるだろう」
「ん、何すか?」
ウィオルの非難する視線に気が付いたのか、アウルが小さく首を傾げた。ただ、それは純粋な疑問というよりもどこか挑戦的な、不遜な態度にも見受けられる。
「さっきから何なんすか。俺、何かセンパイの気に障ることしましたかね?」
「お前――」
しかし、無礼な青年をたしなめる機会をウィオルはものにすることが出来なかった。
半身に感じた、ぞわりと総毛立つような悪寒。反射のように、ウィオルもアウルも、そちらを振り返っていた。
廊下の奥から進んでくる人物。それは、まさに二人が待ちわびていたフレッドだ。表情だけを見れば、いつもと何ら変わりはない。
だが、問題は纏っている雰囲気。大気が、明らかに重くなったのをウィオルは感じ取った。彼の知る限り、こんなフレッドは見たことがない。
二人は言葉も発することもできず、フレッドが近くに寄ってもただその場に立ちつくしていた。
「悪いね、随分待たせてしまったかな」
「いえ……そのようなことは」
口の中に張り付く舌を、ウィオルは何とか動かすことに成功した。一方で、どうやらアウルも硬直から立ち直ったようだった。「全然問題ねーっす」とにこやかに手を振っている。
尚もふてぶてしい態度を崩さない彼にいっそ感心しつつ、ウィオルは再び視線でフレッドを追う。しかし、だからと言ってとても話しかけられる状況ではない。
フレッドが二人の間を抜けていくのを見て、静かにその後ろに従おうとした時だ。
ぱたぱたと足音を立てて廊下の突き当りから現れたのは、一人の女子生徒だった。喜色をその前身で表わす様な、弾むような足取りでフレッドの前で立ち止まる。
「すいません……もしかして、レバントリア家のフレッドさんでしょうか」
大きな緑色の瞳や緩やかに丸まった毛先のせいか、どこかふんわりした印象を与える少女。それとは対照的に美しい曲線を描いて伸びた四肢が、どこか大人びているようにも見える。
それは、以前ライトに近づいてきた女子生徒だった。しかし、ウィオルはそんなことは知らない。ネームプレートから、どうやら自分達よりも下の学年らしいと判断できる程度だ。つまり、アウルと同じ学年ということ。
ただ、どこか媚びたような雰囲気はうっすらとではあるが感じ取れた。もしかするとわざわざ待っていたのかもしれない。だがそんな予想よりも、ウィオルの心を占めたのは焦りだけだった。
――何も今でなくとも!
そんな悲痛な内心の叫びなど、もちろん少女に届くはずもない。
当のフレッドはというと、ちらりとその女生徒を一瞥しただけでこれといった反応は見せなかった。特に気にしたふうでもなく、歩みを止める気配もない。普段なら、こういった者はにこやかに受け流しているのだが。
彼のそんな反応に躍起になったのか、その少女はフレッドの横に並んだ。
「私、以前からフレッドさんを尊敬しているんです。強くて、カッコいいって私の学年では噂になっていて……あ、私、弟さんと同じ学年の――」
そこで、まるで用意していたかのように流れていた言葉は途絶えた。僅かな間の後に聞こえてきたのは、「かふっ」と喘ぐような声。
見れば、彼女の腹部にフレッドの拳がめり込んでいた。
「今、僕の前でその話は辞めてくれるかな」
ぶんっ、と無造作に振られた腕が、その先にいる少女の体を床に振り落とした。どさりと床にくずおれた体は、ぴくりとも動く気配がない。
「――フレッド様!」
もし誰かに見られでもしたら、フレッドの今まで築いてきた地位が崩れ去ることは間違いない。迂闊としか言いようがないその行為に、ウィオルは慌てて周囲の様子を確認する。幸い、薄暗い廊下に自分たち以外の影はなかった。
安堵に胸を撫で下ろすウィオル。その直後、氷のような冷ややかな声が飛び込んできた。
「アウル、それあげるよ」
「……は?」
僅かに遅れて、頓狂な声が上がる。流石のアウルも、この一連の出来事には呆然としていたらしい。
ゆっくりと、フレッドの鋭い視線が彼の方へ向けられる。薄い笑みを浮かべたその表情に、ウィオルははっきりとした恐怖を抱いた。
「それ、好きにしていいよ。どうせ記憶なら好きにいじれるから」
それだけ告げると、何事もなかったかのようにフレッドは廊下を進んで行く。
その背を眺め、唖然とした顔で立ち尽くすウィオルの後ろ。どこか気を違えたような、笑いを含んだ低い声が発せられる。
「やっぱあの人、面白れぇわ」
その声に滲んだ劣情に耐えられず、ウィオルはフレッドが進んだ方へと足早に進む。
一体何があったというのか。訳が分からぬままがむしゃらに歩を進めれば、再びフレッドの背が近づいてくる。
聞いてもよいものか。一瞬迷ったが、ウィオルは思い切ってその問いをぶつけてみることにした。
「フレッド様……どうなさったのですか」
控えめに発された疑問。その答えが返ってくるまでに、数秒の間を要した。
「僕は、まだ甘かったんだろうね」
要領を得ぬ言葉に、ウィオルの頭に再びの困惑が広がる。
「それは、どういう――」
「やっぱり、兄弟だからなのかな……? もしかしたら、僕の中にも躊躇いというものが多少なりともあったのかもしれない。いや、そうなんだろうね」
その言葉で、ライトというあの生意気な少年のことを指しているのだとようやく理解したウィオル。どうやらその二人の間に何かがあったらしいことは推測できた。
「しかし、やはりご兄弟ともなればそれは当然のことでは……?」
「それじゃあ駄目だ」
即座の否定。何故分からぬのか、というふうにフレッドの細められた視線がウィオルを射る。だが、そこから理解するなど到底無理な話だ。ただ表情を強張らせるウィオルを見て僅かに熱が冷めたのか、フレッドはため息交じりに話し始める。
「あの男が言っていた……我々の元へ来るなら、人であることを捨てろと。地位も、居場所も……家族でさえも。彼らとともに行くには、それは邪魔にしかならないのだそうだ」
ウィオルには、フレッドの言う「あの男」が誰かも分からなければ、その言葉の意味も分からない。ただ、どこからか滲んできた恐怖が身体を震わせ始めたのだけははっきりと認識できた。
フレッドの整った顔立ちが、醜悪に歪められたのはその時だ。
「だから――僕がお前の全部を壊してやるよ、ライト」
どこか狂気を孕んだ笑みが、ゆっくりとその眉目を台無しに崩していく。口角が不気味に吊り上がり、つられてめくれあがった薄い唇からは犬歯が剥きだされる。最後に、その見開かれた目にぎらついた輝きがぼんやりと浮かんだ。
ウィオルはそのおぞましい変貌を、ただ困惑した表情で見ているしかできなかった。




