とある男の追憶―7
放課後。ライトは、ただ教室棟の廊下を何をするでもなく歩いていた。
何故、リズがフレッドと一緒にいるのか。
数日前の事件の首謀者がフレッドだということを、彼女自身察しているはずなのに。サイを最も慕っていたのは、他ならぬ彼女であるはずなのに。
「何でだよ……」
思い出されるのは、最後に聞いた彼女の言葉。
――私が、ライトを守るから。
「リズ……」
考えられるとしたら、ライトの保身を条件にフレッドと共にいるということ。
事実、ライトがレバントリアの邸宅で過ごしている間も、フレッドから特に接触はなかった。元々彼とはなるべく合わないようにして入るが、流石に同じ家に住んでいれば、食事など、仕方なくとはいえ共に過ごさなくてはならぬ時はある。
それでも、彼はまるで別人のように振る舞って見せた。父の、母の前で彼は理想の息子という仮面を外さない。
そんな中、たとえライトがあの事件の真相を話したとしても、両親は信じてくれないだろう。むしろ、彼らは出来のいい兄の方を擁護する側に回ることも十分考えられる。
もしこちらが下手に動いてフレッドの怒りを買おうものなら、次は間違いなく消される。おそらく、両親は出来の悪い息子のことなどすぐ忘れるだろう。
鬱屈とした気分が、まるでそれ自体質量を持っているかのようにライトの足取りを重くしている。誰かが知らぬうちにそう言った魔術を掛けているのではないかとさえ思える。
「……どうすればいい」
もし、リズがフレッドのことを本心から好いていたのだとしたらライトにできることはない。しかし、その行動が本心からではなく、ライトのためなのだとしたら。彼に見せていた笑みも、本心からではないのだとしたら。
意識は、完全に思考の海へと沈んでいた。何者かの手が肩に置かれたのは、ちょうどその時。
まさかフレッドかと思い、勢いよく振り返るライト。
しかしその先にいたのは丸眼鏡を掛けた、気弱そうな少年だった。彼は、一瞬とは言えライトの見せた鋭い眼光に竦んだように見えた。
「……何だ、キッシュか」
「な、何だじゃないよ! 驚くじゃないか」
「いや、驚いたのはこっち――いや、何でもない。それで、何の用だ」
思考を中断されたことへの苛立ちに、がしがしと頭を掻くライト。しかし、目の前の少年に悪気があったわけでないのは明らかだ。彼はリズやライトが置かれている状況を知らないのだから、起こるのは筋違いだろう。
少年は、ライトの前で心配そうに眉を下げる。
「いや、なんか元気なさそうだったからさ……。どうしたのかな、って」
「……そんなに、はた目から分かるような雰囲気を出してたのか」
キッシュに分かるということは、他の者からもそう思われているということ。多少の気恥ずかしさを覚えるが、事情が事情なのだし仕方がないだろう、というのは言い訳だろうか。
そんなことを考えていると、キッシュが何かを思いついたというふうに手を打った。
「そうだ! ライト、これからどこかに行く時間はないかな?」
「どこかって……」
「家が街に近いからさ、いいお店を知ってるんだ。リズさんも誘ってさ、三人で行かない?」
どうだろう、と無邪気に首を傾げるキッシュ。確かに、ライトは特に予定はない。どうせこのまま家に帰ろうと思っていたところだ。
しかし。
「リズは、来ないと思うぞ。その……仲のいい先輩と、一緒みたいだったから」
「仲のいい先輩」という言葉に、何故か胸の奥が軋むような痛みが走った。先日受けた怪我はほとんど完治しているはずなのに。錯覚ではない、疼くような痛みだ。
そんなライトの様子には気づくこともなく、言葉を真に受けたキッシュは残念そうな表情を見せる。
「そっか……でも、それじゃあしょうがないね。二人で行こうか」
「あぁ……あ、ちょっと待ってくれ」
あることを思い出し、方向転換しかけていたキッシュを呼び止める。不思議そうな顔の彼に、ライトは寄り道したい場所があるのだと告げた。
■
「――おう、ライトか」
真っ白な部屋で、野太い声が発せられた。その声の主を前に、ライトは小さく頭を下げる。
「今日から面会できると聞いたんで……調子はどうっすか、サイ先輩?」
ライトは目の前のベッドに横たわるミイラ男に問いかける。すると、予想通り豪快な笑いが返って来た。
「ははっ、この状態を見れば分かるだろう! 見ての通り、絶対安静と言われていてな。筋トレもできんよ」
本当に病人かどうか疑わしいほど、相変わらずの元気さだ。取りあえず、彼のそんな姿を見ることが出来たことにライトは安堵する。
あの模擬戦の結果は、形ではサイの自滅によってウィオルの勝利というものになった。てっきり落ち込んでいるものだと思っていたが、杞憂だったらしい。
「まぁ、まさか俺も『土神』が暴走するとは思わなんだ。まだまだ俺も鍛錬が足らんということだな」
「暴走って……」
思わず眉を潜めてしまうライト。召喚した術者自身が、『魅了』を使われたことに気付いていないのだろうか。
ライトはちらりと後方の入り口を見やる。キッシュは外で待っており、今この医務室にはライトとサイの二人しかいない。だから、他の者が聞いているという心配はない。
「サイ先輩、あれは――」
「言うな」
ぴしゃりと、出掛かった言葉は即座に遮られた。ぐるぐると巻かれた包帯の下、彼が温和な表情を収めたのが分かる。
「俺だって分かっている。何しろ相手がウィオルだったからな……フレッドだろう?」
「……すいません」
「お前が謝ることじゃないだろう」
苦笑を浮かべるサイ。彼の声には、確かに責めるような響きは感じられなかった。
「お前だって、陰でいろいろと動いてくれていたんだろ? 聞いたぞ、俺にもう一発食らわせようとした『土神』を止めてくれたらしいじゃないか」
お前に非はない。暗にそう告げる彼の慰めも、ライトには受け入れることが出来なかった。
「でも、俺がもっと早くあいつの計画に気が付いていたら……もっと、強ければ……ッ!」
ありえたかもしれない別の結果。それを捨てることが出来ず、悔しさに、ライトはただ肩を震わせる。そんな彼を見て、サイは小さく肩を揺すった。
笑ったのだ。
「お前は、本当に強いやつだな」
「……そんなこと、ないですよ」
フレッドに二回も叩きのめされた記憶もまだ冷めやらぬというのに、そんな言葉を素直に受け取れるはずがない。
それでも、サイは小さく首を振った。
「他のやつなら、起きてしまったことにそれほど強くこだわらんさ。仕方がない、と割り切るやつが大半だと思うぞ」
「……そんなもんですかね」
サイの言う強さというのが、ライトにはよく分からなかった。強い者というのは、それこそフレッドのような全てを兼ね備えている者をいうのではないのか。
ライトが普段見せない神妙な表情がおかしかったのか、サイは小さく噴き出した。
「ははっ、過去を糧にするか、枷にするかはそいつ次第ってことだ……ま、あまり気にするなよ」
「はぁ……」
サイ自身も、深い意味があって言ったわけではないらしい。結局よく分からぬまま医務室を後にしようとしたライトの耳に再び声が届いたのは、扉に手を掛けた時だ。
「ヤツには、手を出すんじゃないぞ」
ヤツ、というのがフレッドを指すのだということは、すぐに分かった。
「ヤツもあまり目立った行動はとりたくないはずだ……何かしない限り、明らかな攻撃はないだろう」
「……分かってますよ」
背を向けたまま、ライトはサイの声に答える。即答するつもりだったが、僅かに間が空いてしまった。それ以上何かを言われる前に、ライトは急いで医務室を後にする。
――疑われただろうか。
いや、と首を振るライト。もしライトの本心が分かったとしても、サイは動ける状態にない。どうすることもできないはずだ。
顔の前に上げた手を、ゆっくりと拳にする。今一度決意を確かめるように、ライトはそれを握りしめた。
「ライトばっかり、いいなー。僕もサイ先輩と話してみたいよ」
顔を上げれば、すぐ近くにキッシュが立っていた。羨望を込めた視線が、ライトに注がれている。
「……今度紹介してもいいけどな。言っておくけど、かなり変人だぞ」
「強い人って、どこか普通の人とは違うっていうよ」
「……本当かよ」
また新しい強さの基準が増えた、と嘆息するライト。
そのまま、二人は学生たちがまばらに行き来する廊下を歩き始めた。次はキッシュの案内したい場所というところに付き合うことになっている。
「そういう意味じゃ、ライトも大概だよね」
「それ、馬鹿にしてるって捉えていいんだよな?」
ライトが隣の少年を睨むと、彼は小さく笑みを漏らした。
「いいね、いつものライトらしくなってきた」
「……お前なぁ」
呆れたように肩を落とす。しかし、実は内心で嬉しく感じてもいた。キッシュと話していることで、かなり気持ちが楽になった気がする。
少なくとも、二人の会話の中にフレッドの名が出てくることはない。それだけでもライトにとっては重苦しい枷が外せたような、そんな気持ちになるのだ。
おそらく、ライトのことを心配してくれているのだろう。彼と知り合うことが出来てよかったと、本当にそう思う。
学院を出ると、思わず目が行くのは巨大な木。学院の校舎から少し離れたところに位置するそれは、気が向いた時、よくライトが昇っているものだ。
時期が来れば、それは綺麗なピンク色の花弁を付ける。今でこそすっかりそれは散り、葉もかろうじて残っている程度だが、あともう半年もすれば再び華やかに咲き誇るに違いない。
「そう言えば、ライトって木登り得意なんでしょ?」
「……何で知ってるんだよ」
「あはは、リズさんが言ってたよ」
あぁ、とライトは思わず足を止めてしまう。
思い出されるのは、数日前の記憶。木に登っていた時に、彼女に突然大声で呼ばれたものだから危うく落ちそうになったのだった。
「……約束、したんだったな」
今度、木登りを教えると。
その時の彼女の嬉しそうな表情がつられるようにして思い出され、再び胸の奥が疼いた。それほど時間は立っていないはずなのに、すっかり忘れてしまうほどに朧な記憶になってしまっている。
「……ライト?」
キッシュの声が聞こえる。少し行った場所で、彼はどうしたのか、と振り返ってこちらを見ている。その表情が心配そうな色を帯びる前に、「何でもない」とライトは速足で彼に追いつく。
今度こそ、忘れてはならぬ約束を記憶にとどめるようにしながら。