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とある男の追憶―4

 意識の浮上と同時、鈍い痛みが同時に襲い掛かってくる。

「――うっ……」 

 ライトが薄目を開けると、二つのものが視界には映っていた。

 一つは仄暗い天井。本来なら白色のそれは、部屋の光量が少ないために煤けているように見える。陽光の色合いからして、どうやらライトは一日近く気を失っていたらしいことを知る。太陽は疾うに真上を過ぎてしまったようだ。

 視界に映るもう一つは、彼の顔を心配そうに覗き込む中年の召使いだった。

「ライト坊ちゃま……あぁ、気が付かれましたか」

 彼女の心配そうな表情が、安堵へと変わるのが見えた。

 首を僅かに動かせば、自室の見慣れた内装が目に入る。巨大なクローゼットに、その横の姿見、高価な魔法石の照明――。

 一見高価そうなものが並んでいるように見えるが、実際の値段はそこまででもない。ライト自身が高価なものを好まないからだ。父から貴族としての嗜みというものについて口うるさく言われているので、見た目だけはそこそこの物を選んだ。

 それでも、到底平民では手が出ないものが多いのだが。


「……俺、何でこんなところに――」

 そこまで言いかけて、ようやく昨夜の記憶が少しずつ戻って来た。

 フレッドによって受けた屈辱。

 痛感させられた実力の差。

 そして、気を失う間際に聞こえた言葉。

「そうだ、模擬戦……ぐっ」

 起き上がろうとして、唐突に腹部の痛みが甦ってきた。胃を鷲掴みにされたような、ひどい痛みだ。

 慌てて召使いがその背を支える。

「いけません! 安静にしていて下さい」

「……大丈夫。これくらいなら、問題ないさ」

 骨までは折れていなさそうだが、ひどい痣にはなっているだろう。恐ろしくて確認する気にはならないが。

「まさか! ご自分がどれほど酷い状態か、お分かりにならないのですか」

 そう言うと、彼女は再びベッドにライトを寝かせようとする。

「いや、本当に行かなきゃいけないんだって……」

「また無茶を。駄目ですよ、今日一日は安静にしていてもらいます」

 その言葉に、思わずライトは顔を引きつらせる。彼女が言い出したら聞かないことは重々承知しているからだ。

 彼女は普段から無茶をしているライトのストッパーであると自負していると他の召使いから聞いたことがある。その心遣いはありがたいが、今日ばかりは勘弁してほしい。

 今からでもラスティア学院に向かわなければ、模擬戦に間に合わないだろう。

「……今日だけ、ダメかな」

「ダメです、いつもそれじゃないですか。私が見張ってますからね」


 意気込んでベッドの脇にある椅子にどかりと腰を下ろす彼女。それを見て、ライトは仕方ないな、と溜め息を漏らす。

「……今の内に謝っておくよ。ゴメン」

「はい?」

 何のことか、と聞き返そうとする彼女に、ライトはしっかりと視線を合わせた。


「――〈魅了(チャーム)〉」


 一瞬、ぼうっとライトの瞳が燃え上がるような色を帯びる。それは正面にある召使いの目に伝染し、次いで彼女は呆けたような表情に変わった。

「俺、学院に行ってくるけどいいよね?」

「はい……もちろん、ですとも」

 夢うつつ、といったその目は焦点が定まっていない。

 〈魅了〉魔術は、相手を自分の思い通りに動かすことができるもの。一見強力なように見えるが、相手の不意を突かねば成功しない。さらに習得が大変で、効果時間も短いという欠点が、それほどメジャーな魔術にならない理由だ。大抵は些細ないたずらで終わる。

 この召使いも、あと数分もすれば元に戻るだろう。そうなれば、次は同じようにはいかない。

 その時になって、ようやく自分が昨夜の格好のままであるということに気が付いた。まずは制服を見つけなければならない。

「制服は?」

「……テーブルの、上に」

 彼女が示した方を見れば、確かにそこには入り畳まれたライトの制服が確認できる。

「んじゃ、行ってくるよ」

 体の痛みを堪え、ライトはテーブルの上に畳まれた制服を手に取る。おそらくは彼女が畳んでくれたのだろう。

 僅かな罪悪感に申し訳なさを覚えながら、ライトは急いで着替え始めた。



 ラスティア学院に到着したのは、ちょうど模擬戦が始まる直前だった。

 会場となる訓練場はドーム型。太古に存在したという闘技場という建造物に似ている。既に見物客の生徒は大勢集まっており、訓令以上の上部に設置された円形の観客席を隙間なく埋めている。それだけ、皆今回の模擬戦に何か得られるものがあると踏んでいるのだろう。

 確かに、サイの対戦相手がウィオルでないならば、ライト自身も彼らと同じようにどちらが勝つか、などの議論に加わっていたかもしれない。議論するための付き合いがあるかどうかは別として。

 取りあえず、今のところフレッドの姿はない。それが良いことなのかどうかは分からないが、今すぐ何かが起こるということもなさそうだ。

「あ、ライト。こっちこっち!」

 客席の通路に佇んでいたライトを呼ぶ、聞きなれた声。見れば、眼下の客席で身を乗り出したリズが手を振っていた。隣には、昨日知りあったキッシュの姿もある。

「なんだ、キッシュも一緒に来たのか」

「そりゃあ、僕だって魔道具の生成にしか興味がないわけじゃないからね。一応、一般的な魔術だって学んでる」

 得意げに胸を張るキッシュ。そんな彼を脇に押しやるようにしてライトの前に顔を突き出したリズは、不機嫌そうに口を尖らせていた。

「昨日せっかく課題手伝ってあげたのに、何でサボるのよー」

「あぁいや……いろいろあったんだって」

 おざなりな言い訳で誤魔化し、それよりも、とリズの耳に口を寄せる。キッシュは新しくできた友人であるが、彼が知る必要はない。関わる必要のない面倒に、友達を巻き込む気にはならなかった。

「ここに来てから、フレッドは見たか?」

「……今のところいないみたいだけど」

 やはり、彼はまだここに現れていない。

「じゃあ、見つけたら俺に教えてくれ。何かしないか、見張ってる」

 分かった、と頷くリズ。それを確認したライトが顔を上げると、キッシュから訝し気な視線が向けられていることに気が付いた。

「……何だよ」

「いや、二人はそういう関係なのかなと思っ――ぐえっ」

 視界の端から伸びた腕が、何かを言おうとした彼の襟を思いっきり絞めた。

「そ、そんなんじゃないよ⁉ やだなぁもうあははー」

「は? よく聞こえなかったんだが」

「聞かなくていいんじゃないかな!」

「……そうか」

 ギブギブとリズの手を叩くキッシュ。しかしながら、彼女はそれに気づいていない様子。

 仲がいいなぁ、と眺めていたライトも、危うく自分のすべきことを忘れてしまいそうになってしまった。

「じゃあ、俺は他の場所も見てくるわ」

「……え、見て行かないのかい?」

 ようやくリズの拘束から逃れたキッシュが、目を丸くしてライトを見る。信じられない、といった面持ち。それだけ、サイ達の模擬戦は注目されているということだ。

「大丈夫、すぐ戻るよ」

 それだけ言うと、ライトは通路までの階段を駆け足で上っていく。

当然嘘だ。ここはリズに任せ、ライトは別の場所でフレッドを探す。試合が終わるまで、気を緩めるわけにはいかない。

 階段を上り切ったライトが、通路を駆けだすと同時。

「――お、出て来たぞ!」

 近くの客席で、興奮した声が上がった。

 さざ波のように広がっていくどよめきにつられ、ライトの視線も訓練場の中へと移る。そこには十分な距離を開けて対峙する、二人の男。

 一人は鍛え抜かれた肉体を誇る偉丈夫、サイ。シャツ一枚になり、威圧するかのようにその肉体美を晒している。

 そんな彼が、目の前に立つ相手にびしぃ、と指を突きつけた。

「俺に勝負を挑むとは、いい度胸だな! その意気込みだけは買ってやろう」

 映えるような夕日を背に、彼のダブルセイバップスが決まる。観衆の内、一か所に集ったむさ苦しい男衆が湧いた。

 そんな状況に、対峙する男はその苛立ちを露わにした。たてがみを思わせる髪を震わせる。

「お前のような男より実力が下だと思われているなど、我慢ならん――今日、ここで叩き潰すッ!」

 天に咆哮するウィオル。サイと比べれば細身ではあるが、彼の声は地をも揺るがさんばかりの迫力を見せつけた。一層の盛り上がりを見せる観客達の姿が、彼が言葉だけの男ではないことを示しているよう。

 互いの前口上が途切れると、訓練場の端、巨大な銅鑼の前に立つ教師へと皆の視線が移動する。審判を務める教師が、これまた長大なばちを思いっきり振りかぶった。

 ――いっそあの銅鑼が鳴らなければいい。

 そんなライトの思いも虚しく、大気を震わせる重奏が、二人の勝負の始まりを告げた。

 

 初撃は、ほぼ同時だった。

 正確には、ウィオルの方が僅かに早い。

 両腕を突き出すと同時、三つの火球がサイ目掛けて放たれた。

 属性魔術で最も一般的とされる火。行使する者が多ければ多いほど、当然その魔術で名を上げるのは難しくなってくる。だからこそ、多くの者は他の魔術を組み合わせることで他者よりも優位に立とうと考える。

 だが、彼は違った。

 火という属性が本来持つ、純粋な破壊力のみを追求した。それができるだけの才能があった。

 血と汗の結晶。そうして鍛え上げられた魔術は、果てしなく強大で、そして残忍だった。

 サイに迫る巨大な火球。狙いはその周辺。直接当てるよりも、逃げ道を断ち、その業火の余波で焼き尽くそうという意図だ。

 それでも、サイは動じない。

「――『岩人形召喚サモン・ロックゴーレム

 詠唱と同時、その周辺の地面が突然ひび割れた。中空に浮かび上がったそれは一瞬の内に人型に固まっていき、遂にはサイと全く同一の形へとまとまる。

 観衆が確認できたのはそこまでだった。

 僅かな間隔を開けて次々に地面に炸裂した火球は、瞬く間にサイのいた空間を灼熱地獄へと変貌させた。炎で焼かれずとも、そこに充満した熱波が皮膚など容易く焦がすだろう。

 しかし観衆の誰もが、術を行使したウィオルでさえも、サイがこの程度でくたばるとは思っていない。

 唐突に、立ち込める黒煙から人影が飛び出した。それは、煤まみれになってはいるものの、火傷一つ負っていないサイの姿。

 火球が地面に触れる直前、作り出したゴーレムをそこに割り込ませることで熱波の及ぶ方向を変化させたのだ。

 興奮した見物客が、さらに盛り上がりを見せる。

「男なら、拳で語ろうじゃないか!」

 何故か、そう言ってシャツまでも脱ぎ捨てる大男。日に焼けた褐色の肌が露わになり、一部の観衆のボルテージが一気に上昇した。

 対して、その相手は脳筋キャラとは程遠いウィオル。九割の観客を代表するように、思いっきり表情をひきつらせた。

「……近づく前に燃やしてくれる!」

 再び前に突き出された両腕。それぞれが生み出した炎が、直線を描くようにして形を成していく。

 突出した先端から、円錐を描いて広がる槍頭。ある程度まで広がったそれは、炎のたなびきを残して収縮、長大な柄に接続される。

 五メートルを優に超える、二本の大槍。炎によって構成された同形のそれが、サイへと狙いを定めていた。

「貫けッ!」

 交差するようにウィオルが両腕を振り下ろせば、高速で回転するそれらが勢いよく射出された。

「むぅ、シャイなボーイめ!」

 先のウィオルを真似るように、剛腕を真っ直ぐに突き出すサイ。しかし、召喚術師である彼に魔弾という選択肢はない。

「召喚術というのは、こんなこともできるのさ!」

 再び、サイの周囲の地面が隆起していく。ぼごり、ぼごりと大地から剥がれたそれは、混合、圧縮されて彼の両腕へと纏わりついていく。それはまるで、ゴーレムの腕だけを顕現させたようでもあった。

「ゴーレムアーム!」

 完成したそれで何かしらのポージングを取ろうとしたらしい。だが高速で接近する炎の槍を前に、残念そうにそれを諦める。

「ふんぬっ」

 がっちりと、サイは己の胸目掛けて突き進む二本の大槍の穂先を両手で掴む。しかし、それでも完全に槍を止めるには至らない。彼の踏ん張った両脚が、がりがりと地面を削りながら下がっていく。勢いの弱まらぬ高速回転に、岩のコーティングもすり減っていく。

 加えて、ウィオルが更に魔術を追加せんと火球を形成する。両腕を塞がれた今のサイに、防ぐことはできないだろう。

「はっ……大したことないな」

 薄い笑みを浮かべ、火球を放とうとしたその時。

 ちょいちょい、と何かが彼の肩を叩いた。

「なっ……⁉」

 振り返れば、一体のゴーレム。ところどころが崩れかけているところから、先ほどサイが火球の盾として召喚したものだろう。

 慌ててウィオルはそれに標的を変更しようとするも、既にそのゴーレムは巨腕を振りかぶっていた。

「ゴォオオオオオ!」

 ばごん、と凄まじい音をたててめり込んだ拳は、ウィオルの体を軽々と吹き飛ばした。大地で数度跳ねてもその速度は失われず、彼の体は訓練場の隔壁に勢いよく叩きつけられる。

 術者がダメージを負ったことで、サイが受け止めていた槍が魔力へと霧散。音もなく、あっという間に消えてなくなった。

「ふぃー……」

 一難が去ったことに額の汗を拭うサイ。


 わっと盛り上がりを見せる客席に、ライトも安堵の息を吐いた。

「って、俺は見入ってちゃダメなんだよな」

 思わず二人の戦いに視線がくぎ付けになってしまった自分を叱責し、再び怪しい動きをしている者を探す。何かが起こるとすればフレッドが首謀者だろうが、彼には駒にできる取り巻きが何人もいる。流石にライトは彼ら全員の顔は知らないため、見つけることが難しいのだ。

 しかし、人でごった返している中で特定の個人を探すのは非常に骨が折れる。このままでは見つけられる可能性は低い。

 そこでライトは通路を進む足を止め、代わりに頭を働かせることにした。

 考えてみれば、対戦中の試合に介入することなど不可能に近い。観衆の目があるために目立った行動は出来ず、加えて戦いが行われている下層には魔術耐性のある結界が教師によって張られている。そのおかげで魔術が飛び交う試合の観戦などということが可能になっているのだ。

 不可視のドーム型で、上空からも地中からも双方向に魔力を一切通さない。その結界は生徒では破ることなどできないだろうし、万が一それを試みる不届き者が出れば常駐している警備員がすぐに飛んでくる。

 この状況下で、一体どうやってサイを陥れるというのか。

「あー、分からん」

 普段使わない頭が、こんな時に限って役立つはずがない。結局しらみつぶしに調べるしかないか、とうんざりした気分でライトが天を仰いだ時だ。


「……鳥?」

 見れば、訓練場の真上を数羽の小さな鳥が飛び交っている。おそらくつがいか何かが戯れているのだろうが、問題はそこじゃない。

 その鳥達がいるのは、明らかに結界の内側なのだ。魔術耐性の結界とは言え、物体にも多少の魔力は通っている。通過など不可能なはずだ。

 何かの手違いで結界が張られていないのかと、慌ててライトは結界があるはずの場所に目を凝らす。

見えるのは、僅かな空間の揺らぎ。ということは、少なくとも側面の結界は存在している。

「……頂点に近い結界が、張られてないのか?」

 ドームの頂点周辺なら、観衆の目もいかない。気付く者は皆無だろう。

 部分的な結界の解除。術者である教師自身なら不可能ではない。そんなことをしてその教師に得があるとも思えないが、それしか考えられないのだ。

「クッソ、何やってんだよ!」

 相変わらず魔術の衝突音が響く場内の端、審判役の教師がいる場所にライトは視線を落とす。彼が結界維持も兼ねているはずだ。

 とにかく、結界が張られていない場所を探す必要がある。ライトは上空に目を凝らしながら、再び通路を走り出した。


 そのころ、サイとウィオルの戦いを見ていたリズも、言い知れない焦燥感に似た感情から試合に集中できずにいた。ライトに言われた通り、自分の席から見える周辺を見張っているが、フレッドらしい人物は見当たらない。

 それでも、悪い予感は消えようとしない。

「……ごめんキッシュ。ちょっと席外れるね」

「あ、分かったよ」

 彼自身は眼下で繰り広げられる魔術の撃ち合い釘付けになっているらしく、曖昧な返事が返って来た。何も気にせず観戦できる彼を羨ましく思うが、これは自分でやろうと考えたことだ。文句は言えない。

 何より、ライトの助けになることが出来る。彼女にとってはそれが一番だった。

 客席から通路に続く階段を昇りきり、やはりライトと同じように通路を駆ける。しかしやはり試合も気になってしまい、生徒達の歓声が上がるたびに戦っている二人に視線を向けてしまう。

 ウィオルの連射した火球が、サイの引き締まった肉体を掠めていくのが見えた。その隙に距離を詰め、振り下ろされるサイの拳をウィオルは全力で受け止める。

 今のところ、サイの方が有利か。

「……すごいなぁ」

 気付けば、リズは感嘆の言葉を零していた。

 その称賛はサイだけに向けられたものではなく、彼に喰らいつくウィオルにも向けられたもの。性格はいただけないが、その実力を生み出した努力は素直に尊敬できる。流石上級生というべきか、今のリズでは及ばない位置に二人は立っている。

 ――それでも、いずれ追いついてみせる。

 飽くなき向上心を表わすように、視線の先で両手を握りしめて拳をつくる。よし、と気合を入れて顔を上げ――目の前に、薄汚れたシャツの胸があった。

「わっ⁉」

 慌てて止まろうとするが、もう遅い。音と共に感じた、重苦しい衝撃。堪らず、リズは通路に尻もちをついた。

「っと……すまない、つい試合に見入ってしまっていた。大丈夫かね?」

 リズの視界に、差し出された細い手と、丈の長い白色の服が目に入る。どうやら相手に怪我はないらしいことに、リズは安堵した。

「い……いえ、すいません。こちらもよそ見をしていたので」

 そして指し伸べられた手を取って、顔を上げ――一瞬、自分の呼吸が止まったのが分かった。

 そこに立っていたのは、見知らぬ若い男。中性的で整った顔立ちに、華奢な体。見慣れない服装から、ラスティア学院の者ではないことが窺える。だが、リズが思わず凝視したものはそれではない。

 男の優れた容姿を台無しにして余りある、狂気に濁った瞳。まるでその視界には、ここではないどこかが映し出されているよう。

 それを見た瞬間、リズは体が動かなくなった。足元から伝わった怖気が、まるで不可視の蛇のように、腹、胸と彼女の体を上って締め付けていくような感覚。そのままゆるゆると、窒息してしまうのではないかとさえ思えた。

「どうかしたかね」

「あ……いえ、何も」

 思わず、リズは彼から顔を背けてしまった。この上なく失礼なことだとは知っていながらも、その男と目を合わせてはいけないと本能が警告しているのだ。

「……ふむ、まぁいい」

 それだけ言うと、男はリズの横を通り過ぎていく。

 ――一体、何者なのか。

 もう一度だけその姿を見ようと、彼女は後ろを振り返る。

「……え?」

 そこには、既に男の姿はなかった。まるで煙か何かのように、目を話した一瞬の内に彼は消えてしまったのだ。

 呆然と立ち尽くす彼女。男が幻ではなかったと言える証拠は何一つ残っていなかったが、その体に残った不気味な悪寒だけは、まだしばらく消えることはなかった。


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