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とある男の追憶―3

「――ごめん、ライト……」


 書庫の前までたどり着いた時、リズがようやく口を開いた。

まだその声は沈んだものであったが、ここにつくまで彼女はずっと下を向いて黙ったままだったのだ。その間、ライトに握られた手はずっと震えていた。

 だから彼女がようやく口を開いてくれたことに、ライトは内心でする。

「気にすんな……なるべく、あいつには近寄るなよ」

「うん……」


 あいつ、というのは当然フレッドを指す。

 フレッド=レバントリア。レバントリア家の長男にして、魔術、剣術の成績ともに上級学年のトップに君臨する男だ。貴族階級の者は容姿がすぐれていることが多いが、彼はその中でも群を抜いて整った容姿をしていた。そのためもあってか、生徒や教師から絶大な支持を得ている。

 だが、誰もその裏に隠された表情を知らない。

 あの男は、自らの利益のためなら手段を選ばない。弟として共に過ごした期間が長いライトはそのことをよく知っている。

 何故か、リズも初対面で彼の本性には気が付いていた。流石、学年一位の洞察力は並ではないと言うべきか。


 二人は書庫の古びた扉を開き、中へと足を踏み入れる。扉が閉まった途端、室内が完全に無音になった。聞こえるのは乾いた紙がめくれる音のみ。

 ライトたちの眼前に広がるは、円形の広大な空間。その空間を仕切るのは、壁ではなく巨大な本棚だ。それに囲まれるようにして、テーブルと椅子が配置されている。

 三百六十度を囲う棚に、ライトはエンシャントラの城壁と同じ圧迫感を感じてしまう。

「さてと……お、いたいた」

 ライトが視線を向けた先、彼の倍は肩幅があるだろう青年の姿。彼に向かって軽く手を挙げる。

 すると、その青年が二人に気が付いた。その厳めしい顔が歪められる。

 それが彼なりの笑みだと気が付くまでに、どれだけ時間が掛かったか。

「おう、ライト! それにリズ! 元気か!?」

 青年の野太い声が、書庫に響いた。同時、読書に耽っていた学生たちの鋭い視線が青年に向けられる。

「ちょっ……声がでかいっす」

「お、おう……スマン。つい、な」

 目の前の偉丈夫が申し訳なさそうにその巨体を縮めるのを見て、ライトは思わずため息を漏らす。

「……図書委員が叱られてどうするんスか」

「はは、久しぶりにお前らに会えたものでな……しかし、あまり元気そうじゃないな」

「ええまぁ……いろいろありまして」

 リズも二人の会話に加わるが、浮かべられている笑みはぎこちない。まだフレッドたちのことが頭から離れないらしい。

 だから、彼女の代わりにライトは自分が話を進めようとする。

「サイ先輩はどうです? 最近の調子は」

「おう、俺の筋肉は今日も絶好調だぞ!」

 何故か、サイと呼ばれた大男がモスト・マスキュラーを決める。前傾姿勢になり両腕を胸の前に出すこのポージングは最も力強く見えると言われているが、今現在その姿勢になる必要性が全く分からない。

 はっきり言って、制服の上からでも窺える鍛え上げられたマッスルボディに二人は若干引いた。果てしなく本とは縁遠そうなこの男が、何故図書委員をやっているのか、甚だ謎である。

「よ、よかったですね……」

 しかしサイは二人にとっての先輩。全身の精神を使って、ライトは引き攣った笑みを一瞬で戻す。

「あ、あぁそうだ。俺達、アンデッドに関する資料を探しているんです」

「アンデッド……? よぅし、俺に任せろ」

 分厚い胸板を叩き、サイは書庫中央に付けられた直径一メートルほどの石板に手をかざす。

すると、それが淡い緑色の光を放ち始めた。

「アンデッドか――とりあえずメジャーな種類と、生息地。あとは……課題ならば挿絵の入っている方が分かりやすいか……」

 ぶつぶつと小声で呟きながら、魔力を注入していく青年。先ほどまでとはうってかわり、その表情は真面目なものだ。

 

 この時代において、本はかなりの貴重品だ。作家や研究者は少なからず存在するが、印刷する術が存在しない。よって全てが手書きになるため、必然的に市場に出回る部数は限られる。

 一冊の魔導書でさえ、庶民では手に入れることが非常に困難なのだ。よって学術書から娯楽書まで様々なジャンルの書物が揃えられたこの場所は、多くの学生が利用する場の一つとなっている。

 書庫にある全ての本は図書委員によって厳重な管理のもとに置かれている。閲覧したい場合は彼らに依頼する必要があり、貸し出すことさえ許されていない。

 書庫という空間において、彼等よりも強大な権限を持つ者は存在しないのだ。


 数秒も経たぬうちに、威厳をもって直立する巨大な本棚から数冊の分厚い本が吐き出され、サイの手の中に納まった。

「ほら、これでいいか? 一応俺なりに、分かりやすいものを選んだつもりなんだが」

 何故か上背部を強調するラットスプレッド・バックの姿勢で手渡される数冊を受け取り、ライトはそのタイトルを確認する。

「ありがとうございます。でもこの一番下にある『誰でも分かる! 筋肉の魅力 初級編』ってやつはお返ししますね」

 流れるような動作でむさくるしい表紙の本を抜き取り、サイにつき返すライト。それを残念そうな表情で受け取るサイから離れ、二人は空いている席を探す。

「にしても……この学園って、変なやつ多いよな」

「で、でもサイ先輩は悪い人じゃないし……」

「マッスル同好会なんて発足させた時点で十二分に変人だろ。よく審査通ったな、あんな意味の分からん同好会」

 空いている席を見つけ、二人は適当に手にした本を読み始めた二人。



 二十分ほどが経過しただろうか。あまり本を読まないためにうとうとし始めたライトは、背後に立つ気配を感じ取って薄目を開ける。

「……本ならもうお腹いっぱいっすよ」

「いや、ただ話に来ただけさ」

 そこに立っていたのはサイ。いつの間にか、書庫の中にいる学生は既にライトたちだけになっていた。今なら私語を気にする必要もない。

「実は今、ある男から模擬戦を申し込まれていてな」

 模擬戦というのは、学生同士の魔術を使った決闘だ。研鑽を積むことを目的に行われており、学院内では珍しいことではない。

 観戦も広く認められており、有名人同士の模擬戦には観客も多く集まる。

「……へぇ、先輩に挑む人とかいるんすね」

 サイはこう見えても、優秀な魔術師だ。彼と同じ学年にはフレッドがおり、流石にトップクラスとまでは言えないが、そんな中でも上級生の中で五指に食い込むだけの実力を秘めている。

 興味を持ったのか、リズも読んでいた書物から視線を上げていた。

「相手は誰ですか?」

「……ウィオルという男だ」

 ライトの脳裏に、あの不愛想なたてがみの青年が甦る。だが、あの男がサイ程に実力を持っていると聞いたことはない。

「……それで、受けたんですか?」

「もちろんだ。男たるもの、挑まれた勝負からは逃げられないからな」

 ニッ、と白い歯を見せるサイ。その表情に不安そうな影は一切感じられない。確かに、普通に戦ったならば彼が勝つだろう。

「それで、どうだ。お前たちも観に来ないか? 明日の放課後なんだが」

 彼の話とは、どうやらその模擬戦の観戦の誘いらしい。

「どうするかな……リズは、何か予定あるか?」

「ううん、私は別に」

 どうやら彼女は乗り気らしい。それもそうだろう、上級生の模擬戦なんてそうそう見られるものではない。しかもそれが実力者のものならば尚更だ。そこから学べることは多い。

「分かりました。じゃあ、俺達も観に行きます」

「おう、待ってるぞ。いい試合にしてやるぜ!」

 意気揚々と自分の持ち場に戻っていくサイだったが、その一方で、ライトの内心に疑心がないわけではなかった。相手があの男でなければここまで警戒することはなかっただろう。何事もなく終わる可能性も十分考えられる。

 それでも、一応念には念を入れて、というわけだ。


 その日はさらに一時間ほどを費やし、ようやく必要な情報を纏めることが出来た。実は早々に課題を終わらせていたリズにかなり手伝ってもらったのだが。

 それでも、サイの試合という楽しみを得たことですっかり調子が元に戻ったらしい。彼女が浮かべていた物怖じした表情は、その日はもう見ることはなかった。



 書庫の前で、寮生であるリズと別れてから数時間後、ライトはレバントリア家の庭にいた。

 寮には人数制限があるため、家が近いライトは入ることが出来なかったのだ。

 それでも〈ラスティア学院〉ほどではないが、レバントリア家の邸宅もなかなかの敷地面積を誇る。横長の屋敷の裏手には、空き地のような空間。そこをライトは練習場として使用していた。

 学生服から動きやすいシャツに着替え、まずは軽く素振り。うっすらと汗が滲んできたあたりで、そこに実戦的な動きを入れていく。剣舞のような型に則った動作から、アレンジを加えた連撃へ。荒い息遣いと木刀が生み出す風切り音が、周囲を囲む木々に吸い込まれる。

 属性魔術が使えないのならばと、ライトは幼いころからこれを日課にし、剣の腕を鍛えてきた。初めてから一度も欠かしたことはない。


 剣を振り始めてから三十分ほどが経過しただろうか。

 額に浮かんだ汗を、手の甲で拭う。薄手のシャツも吸汗によってすっかり重くなり、ライトの体に張り付いてしまっている。

 乱れた呼吸を整えるべく、深呼吸を数度行うライト。

「ふぅ……こんなもんかな」

 シャツの襟を摘まみ、バタバタと湿った生地と皮膚の間に夜気を取り入れる。いつの間にか外はすっかり暗くなり、足元もはっきり確認できなくなってきた。これ以上続けるのは危険だろうと判断する。

 そのまま屋敷の玄関に向かおうとした、その時だった。


「こんな時間まで練習とは、随分と熱心じゃないか」

 闇の中に、細身のシルエットが浮かび上がった。その声に、ライトは僅かに表情を曇らせる。

「……そっちこそ、珍しいな。こんな時間にここにくるなんて。特訓か?」

 冗談のつもりで尋ねてみる。ライトとは対照的に、フレッドは日頃から訓練するようなことはしないからだ。やはり部屋着のままであるところを見ると、ライトと目的は違うらしい。

「夕食の準備ができたらしいからね。呼びに来たんだよ」

「……それだけか?」

 普段は執事かメイドかが呼びに来る。だからフレッドがここに居ることに、何か理由があるはずだった。

 予想通り、ライトの予感は的中する。

「……どうだろう、少しばかり手合せでもしないか」

 そう言って、フレッドは握られた木刀をライトに見せる。見通しが良くないため、その時まで彼が木刀を持っていることに気が付かなかったのだ。

「でも、兄貴は部屋着じゃんか」

「……何か、問題でも?」

 声の調子で、フレッドが笑みを浮かべているのが分かった。冗談を言うような温かなものではない。相手を見下した冷笑だとライトは確信した。


「――来ないのなら、こちらから行こうか」


 近くで、革靴が土を踏みつける音がした。

「――ッ!?」

 相手の動きがほとんど見えない。反射的に上体を逸らすと、振り下ろされた木刀が頬を掠めていく。

「っぶねぇ……本気かよ!?」

 返されたのは言葉ではなく、横薙ぎに振るわれた木刀。 

 舌打ちをし、ライトは数歩下がることで距離を取る。

「ほら、かかってこないのかい? なら、一方的にやらせてもらうけど」

 数歩分の距離を詰めようと、フレッドが大きく足を踏みだした。

「ふざけがって……ッ!」

 再び水平に振り抜こうとする木刀を、ライトは己の木刀ではじき返す。一瞬フレッドがよろけた隙を狙って、左側に回り込んだ。

 背後からきつい一撃をお見舞いしてやろうと、右手に持った木刀に力を籠める。

 ――だが。


「甘いよ、ライト」

 体勢を崩していたはずのフレッドの身体が、驚くほどの速さで前後を反転させる。

 あれはただのフェイク。

 剣を握っていない手が、ライトの眼前で広げられた。そこに宿る淡い輝きは、魔術発動の兆候。

「ぐっ……!?」

 突進の体勢に入っていたライトは、何とか横に身を投げることでその射程から逃れる。間髪入れずに、そこに緑色の溶解液が射出された。

 射線上にあった大岩が、一瞬にして蒸発する。

「ん――残念。もう少しで、可愛い弟の顔をぐしゃぐしゃにできたのに」

「テメェ……ッ!」

「ウソウソ、ちゃんと避けるって分かっていたさ」

 そう言って、蛇のように男は目を細めた。

 間違いなく嘘だ。確かに本気で当てる気はなかったようだが、それでも避けさせる気も感じられなかった。第一、ふざけるつもりであんな強力な魔術は使わない。

 

 ライトの腸が煮えくり返りそうな憎悪を、目の前に立つ男は涼しい表情で受け流す。

「悪かったよ、もう魔術は使わない。約束する」

「うるさい!」

 その言葉を最後まで言わせずに、ライトは全力でフレッドに突進する。正面からの突進――などするはずはない。

 肉薄する寸前、ライトは上体を僅かに上げた。

 同時、肉体強化魔術を両脚に掛ける。

 限界まで強化された脚力が生み出すは、爆発的な加速。一瞬の内に、彼は再びフレッドの背後に回り込んでいた。

 

 これはライトにとっていわばとっておきの技のようなもの。瞬間的に速度に緩急をつけることで、相手からはまるで消えたかのように見えるのだ。

 先に魔術を使ってきたのはフレッド。罪悪感などない。

 背を向けたままのフレッドは、微動だにする気配もすら感じられない。どうやら完全にライトを見失っているようだ。


――喰らえッ!


 今度こそ一撃を入れようと、上段に木刀を振りかぶるライト。それは、その剣戟が撃ち出される寸前のことだった。


「――お詫びに、少し本気を出そうか」


 驚いたことに、フレッドが木刀を捨てた。さらに、ライトの一撃が当たる寸前でその上体が右に逸れる。まるで、背後に目でもあるかのように。

 突き出した木刀を持った手と胸倉にフレッドの手が伸びた。もがく間もなく、次の瞬間にはライトの体は宙を舞っていた。

「なっ――がふッ!」

 一回転したところで、鳩尾を膝で突き上げられる。

 勢いがついていた分、その威力は並ではなかった。

 大地に叩きつけられると同時、ライトは胃からこみあがってきたものを吐き出す。直後、さらなる一撃が脇腹に叩き込まれた。ライトの身体は軽々と吹き飛ばされ、そのまま先ほど溶かされた大岩のところまで転がっていく。

 未だその効果を失わぬ酸の残留物が、じりじりとライトの皮膚を焦がした。


「ほら、どうした。才能のない奴っていうのは、敗北から学ぶんだろう?」

「あ……ぐっ」

 嘲笑を浮かべ、フレッドはライトに近づいていく。だが、既にライトは動くことすらもできない。あるかないかの意識を、必死に繋ぎ止めるので精いっぱいだった。

 それですらも、あと何秒もつのか分からないほどだ。

「……はっ、すこしやり過ぎたか」

 フレッドはライトの耳元まで屈みこむと、更に口の端を醜悪に歪め、囁く。

「明日、私の友人のウィオルの模擬戦があるんだ……お前なら、来てくれるだろう?」

 それが、限界だった。

 足音が遠ざかっていくのと入れ替わりに、屋敷の方から小さな悲鳴が聞こえる。

 ライトの脳裏にぼんやりと、小太りのメイドの姿が浮かんだ。口うるさいが、いつもライトによくしてくれる中年の女性。

 おそらく彼女のものであろう豪快な足音が、ライトの名を叫びながら近づいてくる。

 そこで、ライトは意識を失った。


 学園に君臨した、勝ち組の中の勝ち組。

 剣技、魔術、智謀、そして権力。全てを兼ね備えた最凶の天才。

 フレッド・レバントリアとは、神の悪戯によって産み落とされた悪魔だった。



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