とある男の追憶―1
いつ見ても、城壁というものは圧迫感を感じさせる。
ぐるりと見渡しても途切れない壁に、少年が嘆息する。
「こんな国、ぶっ壊れちまえばいいのにな」
誰に言うでもなく、彼は独り言ちる。
少年は、この国が嫌いだった。
いや、正確にはこの国に住む人間が嫌いだったというべきだろう。
生まれた家柄、生まれ持った才覚。それによって、この世に生を受けた瞬間から、彼らは生き方が決められている。物心ついた時には、誰かに敷かれたレールを歩むことしかできなくなっているのだ。
その有無を言わせぬ雰囲気が嫌だった。
そんな気持ちから生まれたのが、先ほどの言葉だ。それは風に攫われて、すぐに立ち消えてしまう。まるで彼に無力さを教えてやろうとしているように。
しかし憎らしくも、心地の良い風だった。少年のくすみのない金の髪が弄ばれる。
風は自由だ。少年と違って、どこへでも行ける。
そんな風に身を任せていると、自分の枷も攫われて消えていくようだ。
そんなことを考えていると、次第に瞼が重みを増してきた。抗いがたい欲求に、少年が身を委ねようとしたその時。
「――くぉらああああ! ライトォ!」
「うおっ!?」
突然響いた怒声。別に大したことではない――ここが、十メートルを優に超える大樹の枝の上でなければ。
咄嗟に両腕を枝に回し、落下という致命的な結末は防いだ。ただ、両腕でぶら下がるという醜態は晒すはめになったが。
安堵の息を漏らし、ライトは恐る恐る声のした場所を窺う。
そこには紺色の制服をなびかせる、赤髪の少女の姿。腰に当てられた両腕は、まさに怒っている時の彼女がよくやる仕草だ。
「お、おう……リズ。びっくりするじゃねぇか。お前授業は――」
「サボったあんたを連れ戻しに来たんでしょうが! ほら、降りてきなさい」
「いや、でもここすげぇ眺め良いぜ? どうだ、リズも一緒に」
「……ふぅん。ちょうど魔弾の練習用に、的が欲しかったんだよねー」
「今すぐ降りさせていただきますッ!」
彼女の実力は、ライト自身がよく知っている。いや、知らない人間などこの学園にはいまい。学年一位の魔術の練習台など、誰が好き好んでやると言うのか。
即答し、ライトは振り子の要領で手近な枝へと飛び移る。そこから幹を蹴り、三角跳びでさらに下へ。
一分もしないうちに、少年の足は再び地を踏んだ。その身軽さに、リズは呆れたような表情を見せる。
「本当、ライトって高いところ好きだよね」
「んだよコラ、馬鹿って言いたいのか」
不満げに、ライトが彼女を睨む。それが面白かったのか、リズは小さく肩を揺らした。
「ううん、そうじゃなくて……楽しいのかなぁ、って」
「あー……ちょっと違うな」
どう表現したものかと、ライトは首を捻る。おもむろに上を見上げた時、彼はようやく良い表現を思いついた。
彼が指を立てると、リズの視線がその先を追う。しかしその先には刷毛で描いたような晴天が広がっているばかり。
だが、彼が示したかったのはまさにそれだったのだ。
「空に、少し近づける」
無限に続くかのような大空。その中を緩やかにたなびく白雲。風も、鳥も、そこではすべてが思いのままに振る舞っている。
木に登ることで、そこに存在する自由に少しでも近づけるような気がした。単純だが、それが理由だ。
理解したのかしていないのか、リズは小さく相槌を打つ。
「ふぅん……何か、いいね」
てっきり馬鹿にされると思っていたライトは、その意外な反応に驚いた。
「ね、今度私にも木登り教えてよ」
「はぁ? いいのか、優等生様がそんなことやって」
そんなところを教師にでも見られたら、彼女の評判は間違いなく下がるだろう。素行の悪いライトといること自体、ここにはよく思わない人間が多い。
それでも、彼女は引かない。切れ長の瞳に、その強い意志が見え隠れする。
「いいの! 私がやりたいっていうんだから、ね?」
「……分かったよ」
「やった! 約束だからね!」
ピョンピョンと、彼女の体が小さく跳ねた。まさかそこまで喜ばれると思っていなかったので、ライトは面食らってしまう。
言い出したら聞かないのが彼女だ。加えて、言うことを聞かないと後が怖い。寧ろそっちが本音だった。
「はぁ……んじゃ、講義に戻りますかね。お前の成績まで下げさせるわけにゃいかねーし」
本来の目的を忘れている様子の彼女を連れて、ライトは学院へと歩き出した。
■
人間の国、エンシャントラ。三種族の中で、最も広大な国土を誇る大国。そして国が広ければ広いほど、人口もまた増えるのが道理。必然的に、多くの優秀な人材を有してもいた。
しかし、才能は磨かれてこそ真価を発揮する。そこで人材の育成を目的に、国は魔術師養成施設を設立した。
それが〈ラスティア学院〉。かつての偉大な魔術師の名にちなんだと言われるその教育施設は、エンシャントラの北西に位置する。
正方形型の敷地に、巨大な校舎が余すことなく展開されている。その広く複雑な構造ゆえ、迷子はよく生まれる。半年をこの学院で過ごしているライト自身、普段使わない棟に入った時は場所が分からなくなるほどだ。
そんな校舎の外にはいくつかの魔術訓練場が存在し、それもまた呆れるような面積を誇る。おかげで学生は魔術を練習するスペースには事欠かない。
そんな好待遇の学び舎だ、当然その敷居も高くなる。
講義中なので廊下は人気が少ないが、たまにすれ違う学生は皆一目で高貴な家柄の者と分かる。服装や身に着けている装飾品など、腹も満たせない装具などに金を費やせるのはそういった者だけだ。
入学資格を持つ者は突出した魔術の素養がある者、もしくは高位の貴族階級を持つ者のみ。ライトには、はっきり言ってずば抜けた才能はない。つまり後者だ。
対してリズは一応爵位が与えられている家の出ではあるが、条件を満たすほどの高い位ではない。申し訳程度の小さな領地を持つ、地方貴族だ。しかしその魔術の才が認められ、晴れて入学することができた。
実際、彼女は優秀だ。学年一位という成績はさることながら、人間性も優れている。教師受けもいい。おまけに容姿端麗とくれば、いっそ僻むどころか清々しくさえある。
噂では、同性から言い寄られたことがあるとかなんとか。
ただ、ひとえに才能の成せる業とは言い難い。
ライトはその成功の裏に、想像を絶する努力があるのを知っている。その真っ直ぐな姿勢から、彼女がどれだけこの学院に憧れていたのかが窺えた。
だからこそ、自分という存在が彼女の邪魔をしているような気がしてならないのだ。
「まったく、いつも連れ戻しに来る私の身にもなってよ。留年しちゃうよ?」
「だってな……俺、属性魔術全然使えないし」
ライトが今回サボったのは「属性魔術基礎」という、数多くある魔術の中でも一般的に使われる魔術に関する講義。実際に魔術を発動させたりすることはないが、効率のいい魔力の収集方法、属性の相性などを学ぶことができる。
しかし学生の中では珍しく、ライトは属性魔術を使えなかった。これは生まれつきの才能によるのでどうしようもない。必修と言われているために一応履修はしているが、はなから学期末の試験以外出席する気はなかったのだ。
「それでも、講義受けてれば学べることもあるじゃない。ほら、実戦で相手が属性魔術使ってきたらさ」
「俺はそういうのは頭じゃなくて体で覚えるからいいの。接近して斬って終わり、それで十分さ」
「もう、そんなこと言ってるから変な魔術ばっかり使えるようになるんじゃん。まともな魔術覚えなよ」
彼女の言葉に、ライトの足が止まった。リズが振り返れば、何故か真剣な表情をした彼の視線にぶつかる。
「失敬な、変な魔術とはなんだ! 相手を探知したり身を隠したり視力を強化したりするどこが変なんだ!」
「ゴメン犯罪の匂いしかしない」
熱のこもった抗議はあえなく一蹴されてしまった。数少ない友達からの言葉に、さすがのライトも愕然とする。
「お、お前なんてことを……はっ、まさか自分の身を危惧してか!? 安心しろ、誰もお前のド貧乳になんか興味な――いたいいたいゴメンって」
容赦なく首を締め付ける腕を叩き、ギブということを伝える。
そう、彼女は容姿端麗。頭のてっぺんからつま先まで非の打ちようのない容貌をしている――ただ一点、胸を除いては。
神は何を間違え給うたのか、胸の代わりに腕力といういらぬオプションをぶち込んだ。
意識が飛びそうになる寸前で、彼女の腕がようやく離れる。
「げほっ……お前な、もうちょいで死ぬとこだぞ」
振り返ると、彼女の紅潮した顔が視界に入る。うっすらと涙が浮かんでいるのには、多少罪悪感を覚えた。
「うっさい、死ね! ライトの胸なんて風魔術で抉られてなくなればいい」
「お前が言うと冗談に聞こえないからやめろよ!?」
彼女はずんずんと先に歩いて行ってしまう。どうやら相当怒らせてしまったらしい。ライトは慌ててその後を追った。
隣に並んでも、目も合わせてくれる気配もない。
「なぁ、悪かったって。胸なんて無くても生きてけるさ」
「……ライトは?」
「はい?」
質問の意味を秤かね、ライトの口から頓狂な声が漏れた。やがて、もどかしそうに彼女が言葉を続ける。
「ライトも、どうせ胸がある方がいいんでしょ!」
何故ここで自分の名が出てくるのか。困惑の中、彼女の視線が剣のような鋭さをもって突き刺さってくる。
「い、いや。俺はそういうわけでもねぇけど」
「……ウソ」
「いや、実際に昔付き合ってたやつはそんなに胸無かっ――うげふっ!」
リズの肘が、横腹に突き刺さった。
床を転がり悶絶するライト。横を通り過ぎる学生たちが、ひそひそと話をしながら通り過ぎていく。おそらく馬鹿にされているのだろうことは容易に想像できた。
見れば、既に彼女の姿はない。
「くっそ……何だってんだよ」
必死に原因を考えるが、残念ながら彼女の気持ちに気付くような察しのいい男ではなかった。ああでもないこうでもないと悩んでいた、その時。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
背後から、柔らかな女性の声が聞こえてきた。だが、ライトが聞いたことがないものだ。
振り向けば顔――ではなく、たわわに成熟した胸。開いた襟元は、わざと見せつけているようにも解釈できる。
そんな魔性の産物から慌てて視線を上げると、温和そうな顔立ちの少女が、ライトを心配そうに見つめていた。緑色のネームプレートを付けていることから、どうやら同学年らしい。
それでも、すらっと伸びた四肢が大人びた雰囲気を漂わせていた。
先の方がくるりと丸まった、金糸のような髪。貴族の中では珍しくもない色だが、彼女の纏うふんわりした雰囲気は印象的だった。
「あ、その……すごく痛そうだったんで。私、治癒魔術使えるんですけど、どうです?」
「ぜひ! お願いします!」
男とは、馬鹿な生き物であった。
やや食いつき気味の反応に彼女も若干引いていたが、そんなことは面に出さない。ライトの脇腹に手をかざし、一生懸命魔力を集めていく。
一方で、ライトの顔面は完全に緩んでいた。まさに、幸福の絶頂といった表情。
そんな彼の耳に、その女性の言葉が届く。
「――あの娘、ムカつきますよねぇ」
「……え?」
予期できぬ言葉に、一瞬ライトは固まってしまう。
にこにこと柔和な笑みを浮かべながら、尚も彼女の言葉は続く。
「大した家の出身でもないのに、学年一位とか。きっと調子に乗っているんですよ。ああいうのは一度、叩き潰された方がいいに決まってます」
その言葉を聞いているうちに、ライトの表情が変わっていく。
――ああ、そういうことか。
ようやく得心がいき、彼女の意図を理解したライト。だから、彼女の手を押しのけて立ち上がる。
「え、あの……まだ魔術が」
「いや、ゴメン。もういい」
その言葉に、彼女の表情が僅かに曇った。おそらく、自分の魔術の実力を馬鹿にされたと思ったのだろう。
「大丈夫ですよ! 私だってこれくらいの魔術は……」
「――あんた、俺のこと知ってるな?」
彼女の言葉を遮る。彼の先ほどまでとは明らかに違う口調に、彼女は驚いたようだった。
おそらく、先ほどの言葉に彼女は罪悪感など抱いてもいないだろう。
平民は貴族に支配されるべき。その常識から外れようとする者は、彼女にとって敵でしかないからだ。
別にそれがおかしいわけではない。家柄が全て、それが普通である貴族からすれば、そう考えるのは呼吸と同じくらい当然だろう。
そして、わざわざライトに声を掛けた理由。それも貴族の中では日常茶飯事なものだ。
「どうせ俺に取り入って、親父のコネにあずかりたいってのが本音だろ。そうするように、あんたの父親にでも言われたか?」
「あ……そんな、私は……」
明らかな動揺。それが、ライトの予想が当たっていたことを物語っていた。
高位の家柄の子息とコネクションを作ること。それがどれだけ重要なことであるか、世渡りが重要な貴族の中で、知らない者はいない。様々な爵位の家柄の者たちが集まる〈ラスティア学院〉は、まさにその目的に最適な場所なのだ。
つまりは、自らの子どもでさえも、貴族どもにとっては私欲のための道具でしかないということ。
企みを見抜かれたことか、それとも父から与えられた命をしくじったことか。何にせよ、放心状態の彼女から離れようとするライト。歩み去ろうとし、しかしすぐにその足は止められる。
「そうそう、言い忘れてた」
首だけ後ろに向けると、彼女と視線が合う。まだ可能性が残されているとでも思ったのか、彼女の目に僅かに光が灯る。
だが当然、そんなはずはない。
「――あんたじゃ、リズには勝てないよ」
それだけ言うと、ライトはその場を後にした。




