【ヤクト・名前のない怪物】
名前のない怪物。
【此処】に属する数名は、時折そう呼ばれる事がある。意味はきっとそのままなのだろう。その名で呼ばれた数名はいずれも、本当の名前がないのだ。名前どころか世界を喰らう彼らには、ぴったりな異名でもあろう。
「いやいや、不名誉だよ」
影の薄い少年は、即座に否定の言葉を投げ打った。
*
灰の雪が降る。
熱い。
想い。
重い。
灯の中に燃え尽きた設計図は、二度と原型には戻らない。
1:
化け物染みた金の眼で、サングラス越しに空を見る。くすんだ色彩の青空は快晴とは程遠く、薄っすらと雲掛かった曇りともいえない空。この眼はそう認知した。だからそうなのだろうし、実にどうでもいい話だ。
倒れ掛かった廃ビル達、それを喰らうように包む無数の青い花。そしてケダモノの咆哮が空を揺らし、気を抜けば人はいつでも死の淵際。あぁどこまでも世界の終わり。彼が生きるの此処は、そんな世界だ。
「いつ来ても酷い場所だ」
この国の人間にしてはまだ標準的な真っ黒の、墨色の髪を風に靡かせて。この橋と同化した廃空母からよく見える、街ともいえないあの街を、既に濁り切った狼の目は感情もなく写す。眼の内側に宿す感情は、きっと誰にも読み取れない。それにだめ押しするように、この廃空母には誰もいない。少し前まではいたが、彼が喰い、追い払ってしまったためだ。
「どうやっても、帰すつもりがないんだな」
独り言。
静かに摩った彼自身の左腕は、まるで内部から爆発したかのように黒々しく、鋭く、ケダモノの腕と変質していた。なんて憎き悪き腕、さぁこれからお前は私と同じになるのだぞ、とでもいいたいのだろうか。
これは彼の持つ心臓と同じ拍音で脈動し、その度に彼という人の形は、ケダモノの形に作り変えられていく。もう立ち戻れない場所まで、やってきてしまった彼の証。
「もう……こんなにも遠い」
彼は何度も仲間のいる住処へ戻ろうとした。だが、上手く行かなかった。本能では分かっているのだ、帰っても狩られるだけだと。もう帰る場所など何処にもないと。原因も、頭では分かっている。分かっているのだ。
「なぁ、隊長。見ているか」
彼は、罪を犯した。
人を殺した。それはとても、大切な仲間を。彼はその手で、大切な仲間を殺した。全ての責任と業を彼一人が背負い込み、誰にも言わず、誰にも言えず、最善策だと一つの蝋燭を殺し倒した。頭の中に、記憶の中に、唸るほどの悲鳴と咆哮の耳鳴りが響き続けている。どうしようもない袋小路は、対象が死ぬまで逃がしてはくれないのを、彼は痛いほど知っている。
「見ているのだとしたら、其処で散々嗤って貶してくれ」
許せとは、いわないから。罪は生きて償うものだとあの人はいった。どこまでも惨い茨の道だが、罪はそうして償うものなのだと。だから、【俺】もそうしよう。償おう、それはもう全てに裂かれ狩られ、死に行くまで。
「──逝こう、【名前のない怪物】」
名前がない【俺】は、名前にたいしての執着を解こう。認めよう。だがまだ降参はしない。降参するとしたら、それは誰かに狩られるときだ。
名前のない怪物が去った後、その廃空母には1輪の赤い花が咲いていたという。
2:
その1輪の赤い花を摘み取った少年がいた。エメラルドの色を宿した瞳が花を捕らえたときには、もうその花の虜となっていたのだろう。少年は迷いもなく摘み取ったそれを、沈んでいく星に重ねて見つめている。
「あっ」
唐突に強い風が吹く。赤い花はあっけなく花びらを散らし、それはすでに花ではなくなってしまった。少年の髪の色と同じ赤色は、たった一度の強風にもぎ取られて死んでしまった。どこか少年自身の末路を連想させたその現象に、少年当人は酷く悲しい顔をする。
「……偶然にしては、悪意がありすぎるよ」
吐き捨てるように呟き、手の内に残ってしまった赤い花の残骸を、溝のような海に捨てる。とても軽い足を、わざと空母のコンクリートに打ち付けるように進めてみた。砂利を踏みしめる音しかない、なんて、軽い。なんて存在が薄い音なのだ。
いつの間にかやってきていた同胞も、当然のように少年の隣を通り過ぎてこう呟く。
『変だな、誰もいないじゃあないか』
同胞はそのまま、少年に気付きもせずに帰っていった。少年の影は確かに其処にあるというのに、誰も気が付かない。気が付けない。生暖かい風が吹くこの廃空母で、確かに少年は此処にいるというのに。
「ねぇ、気が付けよ」
言ったって、そこにはもう誰もいない。少年は奥歯をかみ締め、空となった手で空を握り、砂利交じりのコンクリートを踏みしめて、誰もいない大空に向かって、大声で、叫ぶ。
「なぁ、気が付けよ────ッ!」
誰に向かって気が付けといっているのか、少年は分からないままに叫んだ。反響すら起きずに、声は音として、大空に飲み込まれてかき消される。虚しさだけがそこに落ちて、引きずり出されたかのように、黒い雨が降り注ぐ。
少年の全身に雨が打ち付けられ、急激に少年の体温は奪われていく。奪われていきながら、その黒はエメラルドの瞳すら侵食していった。元から在った影が一層と深く墜ち、光を侵食し、花を喰らうように奪っていく。
「……いいよ、もう」
だが、少年はそれに抵抗もせず受け入れる。たとえ命の蝋燭が縮まろうとも、少年は逃げはしない。穿つように打ち付ける雨を、天を、少年はじっと目をそらさずに受けいれる。
こんなことをする理由は、少年、只一人しか知らない。ここで語ることすら出来ない、深く浅く軽く重く消えない理由。もう曇天で埋め尽くされた大空は、只ひたすら黒い涙を流し続けて、懺悔のように雨音が轟いた。少年の歪み掛かったあの瞳はもう真っ黒だが、少年と同じ色をした花はもう壊れてしまったが、
これぞ報いだ。
「仕方ないよね」
「受け入れるよ」
そこには何も残らず、黒い雨だけが滾々と降り続いた。
3:
その黒い雨を飲み込んだ青年がいた。傷だらけの手で小さな器を作り、雨を溜め、とても小さな池を作り上げて。手の中の池を覗き込むと、そこには傷だらけになった顔と、白金の瞳が写りこみ、こちらを覗き込んでいる。
「黒い雨、か」
きっと体には毒だろうと気が付くものの、喉の渇きに掻き立てられる衝動に勝てるはずもなく、黒々と穢れた涙の水を、一気に飲み込んでしまう。鉄のような、塩のような味がした。お世辞にも上手いとはいえない不味い水。きっとではなく、これはもう毒だろう。それでも、飲むしかない。飲み込むしかない。そうでなければ、今を生きることすら困難なのだ。
いつからだろう、こんな黒い雨ばかり降るようになったのは。雨というものは天の恵みだと言われていた時代があったが、いまはもはや天災としかいいようがない。木々を枯らし、人を焼き、鉄をも溶かす、毒の雨。天は……大地を見捨てたのだろうか。
冷たい音の旋律が止まない。雨はまだ止まない。止んだところで、何もでないが。昔はよく、雨が止んだあとには【にじ】という七色の橋が見えると、大人たちはよくいっていたらしいが、結局それを見たのは一度だけで、二度目を見る前にこの黒い雨は降り始めた。
そんなことだから、今ではもうその色さえも思い出せず、青年は色のない世界を生きる。
「知らないほうがマシだった」
掠れきったその声で、言葉を一つ投げかける。
「二度と見れないのなら、いっその事」
青年は知っている。
かつての青い空の清清しさ。七色の虹の美しさ。きれいな水の甘さ。満月の明るさ。人の暖かさ。知っているからこそ、奪われた感覚が心を締め付ける。それを知る人間にしか分からない、あの感覚を。知ってしまっているからこそ。
青年は誰にも分かりえない、生存者の痛みを、知っているからこそ。
「知らないほうが、マシだったんだ」
それでも、痛みを受け入れ歩き続けるしかないのだが。
青い花が咲き乱れる廃都にて。
(どうしようもなく先がない)
(そういう世界で俺たちは生きる)