06 導きの妖精
妖精イリスが町のどこかで黒狼と命がけの追いかけっこをしている頃、竜人エリーと少年クロムはようやく小路の終わりに差しかかっていた。
「姉ちゃん、ここを抜ければ北の広場はだいぶ近いよ」
小路を抜け、広場に通じる大通りへ出ると、明らかに空気が変わった。レンガ造りの地面の至るところに血の跡があり、物が散乱している。崩れた家屋のがれきや、軒先の踏み潰された鉢植え、もみくちゃにされた露店、そこから転がっていって割れたタル──。どんな強盗がやったのだとしても、ここまで荒らし回ったりはしないだろう。
どうやらこの辺りで激しい戦闘があったようだ。
「どこかから敵の気配がします。気をつけてください、クリームくん」
「姉ちゃん、おいらの名前はクロムだよ……」
「そうでしたか……ごめんなさい。それで、北の広場というのはこちらで合ってますか?」
「姉ちゃん、だからそっちは南だってば……! さすがにこんなやばそうなところでボケまくってる場合じゃないよ……」
少年はどんどん不安になってきた。
それにエリーが敵の気配を感じているように、少年もなんとなく嫌な予感がする。死にたくなければこの先に進んではいけない、というような漠然とした予感だ。血のにおいが充満するこの場所では、臆病な心はすぐに恐怖に支配されてしまう。
「……なんだか妙ですね」
少年の前を行くエリーは急に歩を止めた。
「どうしたの姉ちゃん?」
「いえ、本当に北はこちらで合ってますか?」
「姉ちゃん……ついに方向オンチが末期になっちゃったの……?」
「いえ、そうではなく……。どうにも南のほうから多数の敵の気配がするのです。もちろん北側からも感じますが」
言われて少年は大通りの南側を振り返った。戦闘の爪あとが所々にあるくらいで、しんと静まり返って誰もいない。この辺りの住民はすでにみな避難したらしい。
「別になにもいないよ……?」
「そうですか。北では待ち伏せをされているような感じがして、あまり先にも進みたくないのですけど」
エリーひとりなら、たとえあの黒狼が何頭押し寄せてきても平気だろう。だが、少年を連れている今はそうもいかない。他者を守りながら戦うのは何倍も難しいのだ。特に奇襲に対してエリーは警戒していた。
「私のそばを離れないようにしてください」
とはいえ、ここにあまり長く立ち止まっているわけにもいかない。
エリーと少年は北の広場に向けて歩き出した。
と、そのときだ。
二人の後ろのほうからなにかが聞こえだした。
『──、──! ──、────ッ!?』
途切れ途切れになにかを叫んでいる声だ。意味はわからないが、切迫している様子は伝わってくる。それがエリーたちのほうへどんどんと迫ってきている。
「姉ちゃん、姉ちゃん! あの声はなんだろう……!」
「あーなるほど、あれはですね……。とりあえず広場のほうへ急ぎましょう。この道で挟撃されると厄介です」
「う……うん、わかった」
エリーたちは駆け出した。少年の足に合わせて走るので、大して速くは移動できない。やがて後ろから迫ってくる気配との距離は次第に縮まってきて、また再び叫び声が上がったときには、その内容も聞こえるほどになっていた。
『エリー、ちょっとエリー! どこにいるのよーッ、助けてよバカエリー!!』
少年は驚いて当事者の顔を見た。
「姉ちゃん、なんか呼ばれてない!?」
「そうですね。でも今は逃げたほうがいいです」
「えっ……でもきっとすぐ近くに来てるよこれ……」
と少年は走りながら首を回すと、後方の曲がり道からちょうどなにかの一団が飛び出してくるのが見えた。
それは黒狼の大群だった。十数頭の黒狼がひとかたまりになって、みな牙をむいて興奮した様子で駆けてくる集団だ。
そして、その先頭には蝶のような小さい何かが飛んでいた。
間違いない。それは妖精の少女イリスである。
「な、なにあれ……」
少年は目を丸くした。普通に生活している人間が妖精族に遭遇することはほとんどない。
イリスのほうも、広場へ向かっている少年とエリーの姿に気付いたようだ。
「あっ! やっと見つけたわよエリー! ちょっとこの後ろの犬ども、追い払ってちょうだいよーっ!」
イリスは黒狼の一団を率いて、エリーの元まで飛んできた。そしてエリーの肩にしがみついてとまると、興奮しきった黒狼たちの標的はもれなくエリーに変わった。
再会を喜んでいる暇はない。エリーたちは立ち止まらずに走り続けた。
「イリスさん、どこに行っていたのかと思えば……。あんなお土産はいらないです」
「あたしだってねぇ! アイツらから逃げるのに必死だったんだから! 元はといえば、あんたがあたしを置いて先に行っちゃうのが悪いんだからね!」
どうやらイリスは黒狼に追われていた少女と逃げ別れたあとも、度々町の人間が襲われているところに遭遇したらしい。そのたびごとになぜかイリスを追いかけてくる黒狼は増加して、あの団体になったらしい。イリスが図らずも身代わりになったことで助かった人々がいたことを、当の本人は知らない。
そうして逃げ回っているうちに結果的にこうしてエリーと巡り会えたのだから、それも〝最良〟の予知だったのかもしれないが──。
「イリスさんは飛べるんですから、せめてもうちょっとうまく逃げてきてくださいよ」
「それができれば苦労しないわよ! あんた、妖精族があんまり高くは飛べないってこと、知らないの?」
「それは初耳ですけど」
「妖精族のオキテで、アベリアの花より高いところは飛んじゃダメって決められてんのよ!!」
「なんですかそれは……。疲れるから飛びたくないとか、またそういう感じですか」
「違うって! マジだって!!」
なんでもイリスが言うには、身体の軽い妖精族は高所で風が吹くと最悪の場合墜落して死にかねないので、高いところは飛ばないようにと古くから戒められているのだとか。
「妖精ってもっとファンタジーな生き物だと思ってましたけど、なんだか虫みたいですね」
「ちょっ、ムシって言うなー!!」
再会を果たしたエリーとイリスはまたいつもの調子に戻っていた。だが、そこまでのんきでいられるほど状況は甘くないし好転もしていない。
むしろ悪化だ。少年が異変に気付いて叫んだ。
「姉ちゃん、前見て前! オオカミがいっぱい出てきた!」
見ると、大通りの前方を数頭の黒狼がふさいでいた。どこかの建物にでも潜んでいたのだろうか。姿勢を低くして、エリーたちがやってくるのを待ち構えている。
北の広場はその黒狼たちの向こう側だ。しかし彼らもただでは通してくれないだろうし、もたついていては後方の群れに追いつかれてしまう。
「つかまってください、ここは突破します!」
エリーは少年の手を引いて、彼の体を丸ごとかつぎ上げた。そして一気に加速する。
少年はあまりの速さに振り落とされそうになった。それをエリーは片手で支えながら、前方で迎撃態勢を取る集団に構わず突っ込んでいった。エリーの長髪に必死でしがみつくイリスがかわいそうなほど振り回されていた。
黒狼たちが飛びかかってきた瞬間、エリーは思いきり地面を蹴った。彼女の身体は黒狼たちの頭上を軽々と飛び越え、その遥か先へと着地した。跳躍の際に踏み切ったレンガは衝撃でひび割れて砕けていた。
「ふう、これでなんとか挟撃は脱しましたね」
エリーはそのまま大通りを走り抜けて、後続の黒狼の群れに大きく差をつけ、ついに北の広場へとたどり着いた。