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02 黒き獣の群れ



 夕日が地平に沈む頃、その町は赤い陽を浴びて全く違う色合いの顔を見せる。昼と夜の境界──町は終焉たそがれときを迎えていた。奇妙な気配が町の至るところからする。だれかの息遣いが聞こえてくるような気がする。なにか異質で異常な空気が、町を充満しているように感じる──。

 どこかから慌しく走る足音が聞こえた。


「──はぁ、はぁっ!」


 走っていたのは少年だ。

 方々から火の手が上がり、黒煙が包む町の中を彼はひたすら逃げていた。どちらへ向かえば安全なのかはわからない。しかし、生き延びるためにはここにいてはだめだ。留まっていると〝ヤツら〟がやって来る。その迫り来る恐怖から、少年は逃げていた。

 走る。走る。かつては町の露店通りだったみちを少年はひたすらに走る。焼け崩れた家屋のがれきがそこらじゅうに散乱している中を走る。〝ヤツら〟に噛み殺され、喰いちぎられた住民の肉片と体液が散らばる中を走る。一歩でも踏みとどまれば、足元に転がる死体と同じ運命をたどるだろう。そうなりたくない一心で、少年は路を駆け抜けた。


「──はぁ、はぁ、東門まで、あとちょっとだっ──」


 少年はあえぐ体に鞭を打って、大通りまで一気に抜け出た。そこから町の外まではすぐだ。外へ出られれば、ひとまず町中を徘徊している〝ヤツら〟からは逃げおおせることができるだろう。その安全地帯までの距離は歩数にしておよそ百もない。

 だが、少年の逃走劇もそこまでだ。

 少年の目前に一つ、横の家屋から影が飛び出してきた。それは少年の前に立ちはだかり、行く手を阻んだ。

 ヤツらだ。町を襲った、ヤツらのうちの一匹だ。


『ググルル……グルググ……』


 少年の逃げ道をふさぐそれは、黒い毛並みをもつ狼のような大型の生き物だった。うなり声を上げながら太い四肢で地面を踏みしめてにじり寄ってくる。むき出しになった牙はどす黒い血をしたたらせていて、住民を何人も噛み殺してきたということが嫌というほど見て取れた。


「う……うわ……あっ……」


 少年は恐怖におののいて尻もちをついた。

 少年が何も考えず、この相手に猛進していったのならば、まだ状況を打開できるチャンスはあったのかもしれない。しかし、日常を急激に血と惨劇で塗り替えた化物モンスターを目前にして、ただの少年が立ち向かえるはずもない。対峙した瞬間に一歩も前へ進めなくなってしまって、その場で足を震わせることしかできなくなっていた。

 そのうちに、少年の後ろからニ、三の追手が迫ってくる。同じように血をしたたらせた凶暴な黒狼だ。もうあとは前方の黒狼に噛み殺されるか、後方の黒狼に喰い殺されるか、そのどちらかの運命しか少年には残されていない。

 そのときの少年の脳裏をよぎったのは、兄の言葉だった。


『──いいか? 俺はこれから町を守りにいく。お前のことは助けてやれん。だが、お前も男なら自分の身は自分で守れ。絶対に諦めるんじゃないぞ、わかったか?──』


 ここへたどり着く前に別れた、兄と交わした言葉だ。

 それが今このときになって脳裏に浮かび、死に目の少年を奮い立たせた。


──そうだ、どうせ死ぬくらいなら……!


 少年は足元に転がっていた焼け落ちた木材を拾い上げると、それを握り締め、前方の黒狼に突進していった。


「う、うわあぁぁ──ッ!」


 少年の運命は、それで決まった。

 糸が切れたように突進する少年。飛びかかってくる黒狼。その勢いに少年はあっけなく倒されてしまう。どう猛で強力な黒狼の前足が少年の肩や腕を地面に押し付け、間髪いれずに牙が少年の首筋に襲いかかる。だが、少年は黒狼の血塗れのあぎとを木材で受け止めていた。それを黒狼が噛みちぎろうとして荒々しく首を振る。どす黒い血のりと粘着質の唾液が少年の顔面に飛び散る──。

 全てのことが一瞬のうちに起こった。

 次の瞬間には、激闘を続ける少年に後続の二頭が殺到したことだろう。そうなれば少年の死は決定的──だが、ちょうどそのときだったのだ。少年の運命を変える存在がやって来たのは。


『──────ッ!』


 少年は始め、なにかが軟体に思いきりぶつかるような、耳に残る鈍い音を聞いたような気がした。それに続いて飛び散る血しぶきと脳しょうと生ぬるい液体。それらは仰向けに倒れた少年の顔を汚しながら、その横の地面にもビチビチと広がって汚らしい溜まり(・・・)を作り出した。

 少年は一瞬何が起こったのかわからなかった。ただ直前まで頭上をおおっていた黒狼の巨体がなくなったことに気がつく。その代わりにそれは首のない肉のかたまりと化していて、少年は驚いて小さく悲鳴を上げた。指令中枢を失くした肉塊の四肢がまだビクンビクンとけいれんを続けている。

 その黒狼の死がいに抱きつかれたまま動けない少年は、ふと人の話す確かな声を聞いた。血と死で充満したこの場には似つかわしくない、清らかで美しく透き通るような女の声だ。


「──危ないところでしたね。大丈夫でしたか? 後始末が済んだら、すぐに起こしてあげますから」


 声の主は少年に向けてそう言った。一体誰の声なのか、少年には検討がつかない。けれど、不思議と不安な気持ちはなく、安堵の息がこぼれた。


「状況はよくわかりませんが、人を襲う化物モンスターは撃滅します」


 この声の主こそ、妖精とともに旅をする不可思議な女性〝エリー〟である。もっとも、その相方である妖精イリスは遥か後方に置き去りにしてきてしまったのだが。先に町へ到着したエリーは少年が襲われている現場に偶然遭遇すると、ひとまずその黒狼の頭部に握りこぶしを食らわせてやったのだ。それは恐るべき威力で黒狼を亡き者にした。

 間一髪のところだった。もし少年が途中で生きることをあっさり放棄していれば、いかにこの超人的なエリーとて間に合わなかっただろう。

 そのエリーの元に残りの二頭の黒狼たちが駆け寄ってくる。


『グルググ……グゴオオ……』


 血したたる牙をむき、肉裂く爪を光らせ、低く荒々しいうなり声を上げている。その目は人間を完全に獲物としてとらえている目だ。あぎとは常人の骨すら砕くだろう。首筋を喰われた者は血液を滝のように流して一瞬で絶命する。そうやって町の人間たちは何人も犠牲になったのだ。

 それに対するエリーは全くの徒手空拳すで。刃物の一本すら持っていなければ、粗末で簡素な服装に身を包む以外、身を守る防具もなにも着込んではいない。この彼女が眼前の化物モンスターを撃滅する術は──己の肉体のみで十分である。

 と、そのとき一頭の黒狼がエリーのふところへ飛び込んできた。

 大きく跳躍をした黒狼の爪がエリーの首元に突き刺さる──その寸前でエリーは身をそらし、ひらりとかわした。すかさず黒狼のがら空きになった側面から鋭い手刀を放つ。

 それは正確に黒狼の首をとらえていた。それも半端な威力ではない。肉も皮も骨すらも裁断し、首を丸ごと刈り取る手刀だ。ちぎれ飛ばされた黒狼の首が鮮血を吐き出しながら宙を舞う。頭部を失った身体はうまく着地することすらできずにその場に崩れ落ちる。四肢はバタバタと意味のない運動を続け、気味悪くもがいていた。


「やはり生き物を殺す感覚は不快です。できれば、貴方にはどこか人のいない森の奥にでも逃げ帰ってほしいのですが」


 エリーは残されたもう一頭に向けてそう言った。

 しかし、人の言葉を解さない野獣にそれが伝わるはずもない。変わらず牙をむいて襲いかかってきた。


「……残念ですね。せめて安らかにお往きなさい。一瞬の苦痛もなく、私が送ってさしあげましょう」


 正面から飛び込んでくる黒狼。その頭部をエリーの掌底がぶち抜いた。すさまじい勢いによって放たれたその打撃は、黒狼の頭蓋を砂糖菓子のようにたやすく粉砕し、黒狼の意識を一瞬でこの世から消し去った。ぱん、と水袋が割れるような鈍い破裂音がしたのと同時に、黒狼の頭部だった肉片は辺り一帯に飛び散った。眼窩からこぼれてひしゃげた目玉が地面を転がっていった。


「──まぁ、こんなところですか」


 戦闘が終わり、エリーは一息をついた。

 結局、黒狼の三頭はエリーに一撃を入れることすらできずに、逆に一撃で撃滅された。黒狼が弱いわけではない。標的にした相手が悪かった。

 エリーは人間である。だが、エリーの身体の大部分は人間のものではない。化物モンスターの血を宿した、人外の身体だ。見た目は優雅な妙齢の女性そのものであっても、その身体能力は常人の域を遥かに凌駕している。硬い石壁に素手で大穴を空けることもできるし、ちょっと刃物で刺されたくらいでは傷一つつかない。飲まず食わずで数日間、旅をし続けることも可能である。

 エリーがそんな身体になってしまったのも、全ては地上に跋扈ばっこする化物モンスターのせいだ。たった今叩き潰した黒狼のような、人を襲う生物のことを一般的にまとめて化物モンスターと呼ぶ。


「お待たせしました。どこかお怪我しているところはありませんか」


 エリーは少年のそばに歩み寄り、少年の上にのしかかっていた黒狼の死がいを片手でつまみあげた。大の大人より重量のあるそれを軽々しく持ち上げるとは、さすが人外だけある。少年も驚いてうまく声が出せない。


「えっと……。姉ちゃん、なにものなの?」

「ただの通りすがりですよ」


 エリーは持ち上げた死がいを道の脇に放り捨てる。どすん、という重たげな衝撃音が響いた。

 少年は飛び散った血と体液でどろどろになった身体をぬぐいながら、エリーを見上げておそるおそる尋ねた。


「あの……姉ちゃんはおいらを助けてくれたの?」

「はい。……もしやお助けしないほうがよかったですか。実はさっきの狼はペットだったとか」

「そっ、そんなことないよ! 助けてくれてありがとう、ほんとに!」


 少年は、ばっとエリーの手を取って感謝の意を示した。もしエリーが現れなかったとしたら、少年は今頃黒狼の胃袋の中だっただろう。それを思い出して少年はぞっとした。


「そうですか? それはよかったですね」

「うん、ほんとにありがとう。……それで、もう一つ聞きたいことがあるんだけど……」

「はい、なんですか?」

「姉ちゃん、さっきアイツらを素手で倒してた……よね? もしかして姉ちゃんって、ヤバいくらい強かったり……する?」

「やばいかどうかは知りませんが、腕に覚えはあります」

「じゃ、じゃあ……姉ちゃんに一生のお願い! 町を襲ってるアイツらをやっつけて、みんなを助けてほしいんだ!」

「それは構いませんけど、今この町でいったい何が起こって──」

「ほっ、ほんとに助けてくれるの!?」


 エリーの言葉をすべて聞き終わる前に、少年の顔はぱっと明るくなった。先ほどまで死人のような目をしていたのが、ようやく子どもらしい活き活きとした表情をみせた。


「そういえば、まだ名前も聞いてなかった。おいらはクロムっていうんだ、姉ちゃんは?」

「友人からはよくエリーと呼ばれています」

「じゃあエリー姉ちゃん、どうか化物たちをやっつけて、町を助けてください!」


 少年は再びエリーの手を取って、強いまなざしで嘆願した。黒狼の襲撃におびえていた様子はもうない。


「わかりました。この町の勝利に手を貸しましょう」


 消えかけていた少年の命を救ったのは、彼女──人ならざる旅人エリーだ。




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