第1話 予定された不在
初日の夜にしては、楽屋は静かすぎた。
無人なのではない。
静かなのだ。
ヒカリはスマートフォンを両手で持っていた。
画面には、同じメッセージがいつまでも開かれたままになっていた。最後の一行の末尾で、カーソルが明滅していた。辛抱強く、ほとんど無関心なくらいに。
彼女は文面を一度読み返した。
それから、もう一度。
それでも、一語たりとも直さなかった。
鏡の冷たい照明が、耳の上に留めたヘアピンを照らしていた――ガラスの小さな惑星。あの人工的な白の下では、それは綺麗というより、壊れやすく見えた。
ヒカリは送信予約をタップした。
その一秒のあいだ、彼女はそれ以上なにもしなかった。
震えもしない。
深く息を吸いもしない。
泣きそうな顔すらしない。
それが、すべてをおかしくしていた。
手のひらの中で、スマートフォンがかすかに震えた。
メッセージを予約しました。
ヒカリは鏡の中の自分に目を落とし、ほんの少しだけ肩を正して微笑んだ。
扉のほうへ振り返る頃には、もう舞台に出る準備ができているように見えた。
星空アーツ・アカデミーは、誰も値段なんて口にしないのに、高そうだとわかる類いの美しさをしていた。
ハルには、その建物が無垢に見せようと頑張りすぎているように思えた。
メインアトリウムは、自然光にしては出来すぎた光で満ちていた。床から天井まで届く高いガラスパネルから、光が流れ込むように降り注いでいる。イベントポスターはギャラリーの展示みたいに正確に並べられていた。告知しているのは単なるショーケースではない。この学校の権威そのものだった。校名は控えめな金色、イベントタイトルは清潔な白。そしてその下、小さめの文字なのに決して見逃せない場所に、今夜の約束が記されていた。
KiraMiu 正式お披露目
その横で、パフォーマンスコースの生徒たちが、あまりに大きな声で、わざとらしくないふりをしながら話していた。
「今日うまくいったら、これ絶対、事務所の公式動画に使われるよね」
「“うまくいったら”じゃないって。うまくいくの」
「当たり前でしょ。ヒカリ先輩がいるんだから」
神田辰巳は最後の一言を聞いて、もうその日を好きになると決めていたみたいな、少しだけ歪んだ笑みを浮かべた。
「ほらな。これが“空気”ってやつだよ。みんなの高揚感、学校の誇り。きれいなもんだ。せめて一時間くらいは台無しにしないでくれよ」
ハルは画面から目を離さなかった。
月野ヒカリは、無音のプロモ映像の中で、いつも通り完璧に微笑んでいた。髪に留めたガラスの惑星が、ちょうどいい角度で光を拾っている。あの大きすぎる画面の中でさえ、彼女だけがどこか枠に馴染んでいなかった。完璧ではないからじゃない。たぶん、その完璧さそのものが、いつも少しだけ自分自身に疲れているように見えるからだ。
「別に台無しにはしてない」
「もう“若者向けエンタメの道徳的退廃”について論文一本書き終えた顔してるけど」
「学校が事務所みたいな顔をし始めた時点で、もう手遅れだろ」
辰巳は笑った。
「そういう台詞を、即興のふりして言うところ、ほんと好きだよ」
ハルはようやく画面から目を逸らした。
周囲では、小さなグループで生徒たちが行き交い、教師たちは大事な日にだけ現れる、あの丸く整った礼儀の笑みを浮かべていた。舞台スタッフでさえ、歩幅まで測られているみたいだった。
何もかもが、うまく回りすぎていた。
綺麗だ、とハルは思った。
効率が良すぎる。
二人はアトリウムからパフォーマンス棟へ続く脇の通路を進んだ。そこでは、光は少しだけ“見せるため”の艶を失って、もっと実用的なものになっていた。壁際に寄せられたバッグ、テープで貼られた進行表、半開きの稽古室から漏れるくぐもった声。ヘアスプレーと新しい布地、それに緊張の匂いが混じっていた。
辰巳はカメラのことや、撮り方の工夫や、もし学校が少しでも賢ければ公式動画がどれだけ再生されるかを喋り続けていたが、そこでハルは一歩、歩調を緩めた。
大きな音ではなかった。
音と呼ぶほど出来上がったものですらない。
まだ平静を装おうとしている身体が、うっかり漏らした小さな綻び――そういう種類のものだった。
ブラックボックス・シアターの扉の近く。
一年生らしい少女が壁にもたれ、胸に抱えたファイルへ指を食い込ませていた。呼吸は短すぎる。肩は上がりきっている。視線は床の一点に釘づけで、顔を上げた瞬間、自分が失敗するところを世界に見られるのが怖い――そんなふうに見えた。
別の女子生徒が二人、その横を気づかないふりで通り過ぎていった。スタッフの一人が脇の扉から出てきて、パフォーマーの列へ素早く目を走らせ、そのまま通り過ぎる。イベントは、すべてを前へ前へと押し流していく。誰にも、ひとりを落ち着かせてやる時間なんてなかった。
足を止めたのは、ヒカリだった。
それを、自分の登場にはしなかった。
彼女はちょうどその通路を歩いてきたところだった。どこへ行っても、追われているようには見えないのに、柔らかな注目だけは必ずついて回る。目を逸らせないほど綺麗で、急いでいるようには見えないほど落ち着いていて、それでも、一日の許容量より何時間ぶんも多く背負っている人のような顔をしていた。
少し先から誰かが彼女を呼んだ。ヒカリは二本の指だけを軽く上げた。すぐ行く、という短い合図だった。そして彼女は少女の前で立ち止まった。そこにある奇妙なものが、ただ二人のあいだの沈黙だけであるかのように。
「こっちを見て」
小さな声だった。
少女は、最初は聞こえなかったみたいに反応しない。
ヒカリは半歩だけ前に出た。通路と、その向こうの世界を、ちょうど隠せるだけ。
「みんなじゃなくて。私を」
少女は苦労しながら顔を上げた。
ヒカリは二人のあいだに手を上げた。目立たないように、見世物にならないように。ただ指先だけで、呼吸のリズムを刻む。
「吸って」
待つ。
「もう一回」
舞台の声ではなかった。
センターの声でもなかった。
ハルは、その違いに名前を与える前から、それを知っていた。
それは、彼女が“枠に収まろうとすること”をやめたときの声だった。
少女は一度目で合わせきれなかった。ヒカリはそれを正そうとしない。ただ、身体のほうが追いつくまで待った。
「私を見て」
もう一度、低く。
「大丈夫。ちゃんと入れるから」
少なくともこの一分だけは、その言葉を本当のものとして貸してやると決めた人の言い方だった。
ハルは黙っていた。
大したことではない。
拍手を呼ぶような仕草もない。
見せるための輝きもない。
ヒカリはただ、その子の視界から通路を奪い、呼吸の速さを落とし、パニックが人目にさらされる前にそっと塞いだだけだった。
それが人目を引く前に、終わらせてしまった。
少女は少しずつ息を吐き、ようやく肩が一センチだけ下がった。ヒカリはその子の胸元のファイルをそっと整えた。輪郭を返してやるみたいに。
「うん、もう大丈夫。行って」
少女は短すぎる、ほとんど不格好な会釈をして、まだ頼りないが機能はしている足取りで去っていった。
ヒカリは、彼女が角を曲がるまで見送った。
それからわずかに振り向いて――そこで、ハルの視線が自分に固定されていることに気づいた。
驚いたようには見えなかった。
記憶と呼ぶには短すぎて、何でもないと片づけるには鮮明すぎる一瞬。
彼女の目は、頭が追いつくより先に彼を認識していたみたいに、ハルの上に止まった。
名前は呼ばない。
なにも言わない。
ただ、その一秒を、ほんの少しだけ長く保った。
だがすぐ、今度は舞台にもっと近いところから声がかかった。
「月野さん、そろそろです」
ヒカリは「今行きます」とだけ返し、急いでいるふうを見せずに歩き出した。
そのとき、ハルはもう一人の少女を見た。
数メートル後ろから、誰の注目の中心にも入らないまま歩いてくる。制服は申し分なく整い、姿勢は正しすぎるほど正しかった。薄いファイルは身体の線の一部みたいに、隙なく脇に収まっていた。どの仕草も所定の位置から外れない。歩幅も正確。リズムも正確。余白がない。
彼女は扉のそばのスタッフに、ごく小さく会釈した。
冷たくもなく、温かくもない。
ただ、妙に整っていた。
辰巳がハルの視線を追った。
「誰?」
ハルは半秒ほど遅れて答えた。
「別に」
だが、その少女が通路の角へ消えるまで、目は追い続けていた。
正しすぎる。
余白がない。
ショーケースは、“あまりに多くの人間が同時に失敗を恐れたときにしか生まれない種類の完璧さ”で始まった。
光は綺麗だった。
声も綺麗だった。
進行も綺麗だった。
この学校は、他の場所が商品を売るのと同じ精度で、誇りを売っていた。そしてその近さを、ほとんど誰も奇妙だとは思っていないようだった。
少なくとも、ハルはそう思った。
辰巳が、そこらの学校イベントより撮りの質がいい、みたいなことをまだ口にしていたが、ハルは聞き流した。舞台はもう、エラーという概念そのものを認めたくないくらい“正しすぎる”領域に入っていた。
だからこそ、ずれを感じ取るのが早かった。
まだ欠落ではない。
まだパニックでもない。
ただ、問題と呼ぶには小さすぎて、無垢と呼ぶには長すぎる、ひとつの沈黙。
そこで、ヒカリが入るはずだった。
客席はすぐには反応しなかった。
一人、二人と顔が上がる。
誰かが、理由もわからないまま息を止める。
舞台の上では、その列が“まだ予定通りの内側にある”ふりをするように、ほんの半秒だけ長く保たれた。
ハルは中央を見なかった。
見たのは袖だ。
アシスタントの一人が身を乗り出し、短く手を動かした。低く、正確に、目に見える焦りはない。どうするかを尋ねるでもなく、許可を探すでもなく。最初から床に引かれていた印のように、正しい場所へ、正しい人間を呼ぶ。
ユナだった。
早すぎる、とハルは思った。
彼女は、次の瞬間にはもう動いていた。
あからさまな驚きもない。
躊躇と呼べるほどの間もない。
ただ、自分の身体がもう“センターまでの距離”を知っている人間の、あの綺麗な微調整だけ。
それが最初に、ハルを凍らせた。
ヒカリがいないことではない。
彼女がいなくても、もう道が用意されていたこと。
ユナは、失敗する余地を与えられていない人間の精度でフォーメーションへ入った。そこに自然な華やかさはなかった。あるのは制御だ。心に許可を求める前に、もう従ってしまう種類の制御。
振付は続いた。
観客は受け入れた。
受け入れたかったからだ。
舞台はまだ綺麗だったから。
音楽は止まらなかったから。
そして、ショーという機構が前へ進むと決めたとき、たいていの人は、そのほかのことまで意味が通っていると信じるほうを選ぶからだ。
今度は辰巳もなにも言わなかった。
ハルも。
ただ、ヒカリが現れるはずだった舞台袖を見つめ続けて、理解した。
最悪なのは、あの沈黙そのものじゃない。
あそこにいる誰一人として、本気で驚いているように見えないことだ。
曲は、正しい場所で終わった。
それがいちばん、ハルを苛立たせた。
観客は拍手した。疑いになるには短すぎて、礼儀に飲み込まれるには十分な、ほんの一瞬のためらいを挟んで。舞台の照明は暖かいままだった。フォーメーションは開き、閉じ、最後の絵を、さっきの綻びを中央に隠したままの優雅さで保ち続けた。
奥のスクリーンでは、KiraMiuのロゴが、何ひとつ割れていないみたいに光っていた。
拍手が引いていく。
ほとんど間を置かず、場内スピーカーに声が入った。軽く、滑らかで、空白を残さないよう訓練された声だ。
「本日はご来場いただき、誠にありがとうございます。予期せぬ事情により、キラミュウは一部構成を変更してお届けいたしました。引き続き、本日のステージをお楽しみいただけますと幸いです」
予期せぬ事情。
遅刻、ではない。
欠席、でもない。
名前すらない。
事情、だけ。
「……早すぎるだろ、これ」
辰巳が呟いた。
ハルは答えなかった。もう見えていたからだ。整然と動くスタッフ、途切れたように見せないまま退いていくパフォーマーたち、機関の笑顔を崩さない教師たち。イベント全体が、誰かに“傷”と呼ばれる前に、その傷口を閉じようとしている。
サイドスクリーンには、ショーケースのタイトルがまだ完璧なまま残っていた。
夜は、まだ壊れていない。
壊れたのは、ヒカリだけだ。
そのとき、ブレザーのポケットの中でスマートフォンが震えた。
一度だけ。
短く、乾いた振動。
ハルはほとんど反射で取り出した。
通知の一番上に浮かんだ名前を見て、半秒だけ動きを止める。
ヒカリ
メッセージを開く。
もし私がこれを選んだって言われても、信じないで。
それだけだった。
辰巳は画面を見る前に、ハルの顔で異変に気づいた。
「どうした?」
ハルはすぐには答えなかった。
その一文を、もう一度読む。
それから、さらにもう一度。
いちばん怖かったのは、その乾き方だった。
慌てて書かれたようには見えない。
別れの言葉にも見えない。
パニックにも見えない。
まるで、あらかじめ用意されていたみたいだった。
ハルは、ヒカリが現れるはずだった空白へ目を向けた。
さっきまでの沈黙は、もはやただの不具合じゃない。
前触れみたいに見え始める。
「ハル?」
今度の辰巳の声は、少し低かった。
ハルは無言のままスマートフォンを差し出した。
辰巳は読んだ。
学校に来てからずっと顔に残っていたあの笑みが、完全に消える。
「……これ、今来たのか?」
「わからない」
でも、わかっていることは十分にあった。
彼女は、公式の“ひとつの筋書き”が出ることを予想していた。
そして、その筋書きはもう動き出している。
この夜の最悪は、ヒカリが欠けたことじゃない。
誰かがもう、彼女の代わりに物語を語り始めていることだ。
ハルはスマートフォンをしまった。
周囲では、観客がまた従順に動き始めていた。次の幕間が、さっき起きたことを洗い流してくれるとでもいうように。
そんなはずはない。
ただ、“普通のこと”に見せるための余白が生まれるだけだ。
そしてその瞬間、ハルはもう、ここを出て「ただの舞台トラブルを見ただけだった」と自分に言い聞かせることはできないのだと悟った。




