堕ちた暗黒星 世界ヘビー級王者 ソニー・リストン(1932-70)
フロイド・パターソンはマイク・タイソンに更新されるまで史上最年少のヘビー級王者であり、一旦タイトルを喪失した後、王座に返り咲きした同級初のボクサーだった。そのパターソンをまるで四回戦ボーイを相手にしているかのように二度にわたって一方的に粉砕した時、ボクシングファンの誰もがリストンこそ歴代最強のヘビー級だと確信したものだ。全盛期のリストンを見る限り、タイソンでもKOしてしまいそうな気がする。
ソニー・リストンの正確な生年月日はわからない。父トーベ・リストンには連れ子も含めて二十五人もの子がおり、ソニーはその二十四番目で、後妻であるヘレンの十人の子の一人だった。
アーカンサス州フォレストシティ北西部の小作農家に育ったリストンは、靴も履かず、ろくに着る物もないという極貧の中、威圧的な父にこき使われながら殺伐とした少年時代を過ごしていたが、一九四六年、すでに父に愛想をつかして家を出ていた母の後を追った。
新生活が始まったセントルイスでも、読み書きが出来ないリストンは定職にも就けず、街の不良連中とつるんで犯罪組織の使い走りのような生活を送っていた。一九五〇年、仲間と三人でガソリンスタンドと簡易食堂で武装強盗を働き、別件の窃盗や警官に対する暴行罪も含めて、五年の実刑判決を受けた。
リストンがボクシングに出会ったのは、ミズーリー州ジェファーソンシティにある連邦刑務所に服役中のことである。そこで訓戒師をしていたスティーブンス牧師から刑務所内のボクシングクラブに誘われると、たちまちメンバー全員をナックアウトしてしまった。
刑務所内のチャンピオンになったリストンは、「ソニーボーイ(坊や)」と呼ばれるようになり、それが後のリングネームとなった。
ボクシングでリストンを更生させたいと考えたスティーブンス牧師は、仮釈放を間近に控えて友人の新聞記者に相談したところ、かつてジョー・ルイスのスパーリングパートナーを務めたモーン・ハリスンがその実力を見極めることになり、地元新聞の発行人フランク・ミッチェルがゴールデングローブのヘビー級チャンピオン、ターマン・ウィルソンとのスパーリングを手配した。
スパーリングの四ラウンド目が終わると、ウィルソンの方が音を上げてしまった。「もう勘弁してくれ、あいつは俺を殺す気だ」
トップアマと遜色のないレベルに達したリストンは、一九五二年十月、刑期を二年務めあげたところで出所し、モーン・ハリスンのジムでトレーニングを始めた。しかし、このジムはセントルイスの暗黒街の大物ジョン・ヴィターレの息がかかっており、リストンはしばしばスト破りなどの荒仕事を任された。
リストンのアマチュア時代は一年にも満たないが、その成績は目覚しく、一九五三年三月六日のシカゴ・ゴールデングローブ大会決勝でヘルシンキオリンピックヘビー級ゴールドメダリストのエド・サンダースを破った星が光る。同年九月、プロデビューを果たしたリストンは試合開始から三十三秒、たった一撃のパンチで仕事を終わらせた。
デビュー戦こそ派手に飾ったリストンも、キャリア初期はジャブを主体としたポイントを稼ぐようなアマチュアスタイルが抜けきれず、最初のブランクまでは七勝一敗(二KO)とヘビー級にしては物足りないKO率しか残せていない。
唯一の敗戦はプロ八戦目にベテランのマーティー・マーシャルに喫したスプリットの判定負けだが、四ラウンドに二十ポンド以上軽いマーシャルのパンチで顎を骨折するという苦しい試合だった。この時の骨折が癒えるまでリストンは半年間もリングに立てなかった。
一九五五年三月に再起を果たすと、マーシャルにKOで報復するなど順調に白星を重ねていったが、またしてもトラブルに見舞われ、今度は二年間ものブランクを余儀なくされてしまう。それもよりによってマーシャルとのラバーマッチに判定勝ちした当日(一九五六年三月六日)のことで、よくよくマーシャルはリストンにとって疫病神だったのかもしれない。
当時のリストンはヘビー級のホープとして地元のボクシングファンからは将来を嘱望される一方で、セントルイスの不良少年のリーダーだった頃からの悪名も轟いており、警察からは依然として要注意人物と見なされていた。
ゆえに警官からは何かと難癖をつけられることが多く、この日もリストンの自宅近くに違法駐車した友人が警官から咎められたことがトラブルの原因だった。よほど警官の態度が高圧的だったのだろう、激昂したリストンはその警官を叩きのめし、銃まで奪い取ってしまったのだ。
警官は顔面挫傷と膝の骨折という重傷を負い、リストンは九ヶ月間教護院で過ごすはめになった。
ところが出所早々、またしても警官との小競り合いが起こり、今度は警官を頭からゴミ箱に叩き込んでしまう。
毎度のトラブルに業を煮やした警察署長は、セントルイスから出てゆくよう最後通牒を突きつけ、リストンはフィラデルフィアに転居したが、ここでも反社会的行為は収まることはなかった。
なにしろ、新しくマネージメント契約を結んだ相手が、よりによってアメリカ北東部を仕切るマフィアの元締めフランキー・カルボとブリンキー・パレルモである。これでは何かにつけ暗黒街とのつながりを疑われるのもやむをえない。ましてや学がないリストンのこと、理不尽な誹謗・中傷にも言葉で対抗する術を知らず、攻撃的な性格をさらに強めていった。
リストンは、一九五九年にカルボとパレルモが数々の罪状で収監されるまで、彼らのマネージメントで出場した十二試合の全てに勝利する一方、その間自身も風紀違反などの軽犯罪で二度逮捕されている。結果、一九六一年七月十四日付でペンシルバニア体育協会よりライセンス停止処分を受けたが、これは三ヶ月後に解除された。
トラブル続きで何度もキャリアの中断を余儀なくされたものの、カルボが本腰を入れて売り出してくれたおかげで、マッチメイキングに恵まれたリストンは、一九五九年初頭には早々と世界ランキングに名を連ねている。カルボ一味と手を切った後もロイ・ハリス、ゾラ・フォーリー、エディ・メッチェンといった世界ランカーを軒並み破り、一九六〇年の終わり頃には世界挑戦の声まで聞かれるようになった。
ところが、素行の悪さゆえにリストンの世界挑戦を阻もうという連中もいた。
当時の世界ヘビー級チャンピオンは、インゲマール・ヨハンソン(スウェーデン)からタイトルを奪還したばかりのフロイド・パターソンだった。パターソンは少年時代、感化院に送られた過去を持ちながら、見事に更生し、ヘルシンキオリンピック・ゴールドメダリスト(ミドル級)を経て世界の頂点に立った模範的人物である。
好人物であり、青少年の保護育成にも力を入れているパターソンと、いい歳をして警察のやっかいになりっぱなしのリストンはいかにも好対照だったが、ことボクシングに関しては、リストンの方が上と見られていた。そのため一部の関係者は、悪玉のリストンが善玉のパターソンに勝つことが道義的に許せないと考えていたのだ。
しかし、彼らのそんな思惑をよそにボクシングファンはリストンとパターソンの対戦を熱望した。
というのも当時のヘビー級は“拳聖”シュガー・レイ・ロビンソンを筆頭にスターがひしめくミドル級から人気・話題性で大きく水を開けられており、その威信回復のためには、客を呼べる選手によるビッグマッチの開催が求められていたからである。
第二次大戦後のヘビー級は、衰えの著しいジョー・ルイスが引退した後は、エザート・チャールス、ジョー・ウォルコットと地味な技巧派王者が続いたことでファン離れが進んだ。ロッキー・マルシアノの登場でその流れは一時的に断ち切られたが、彼の引退から五年余り、パターソンとヨハンソンというやや小粒な王者ではヘビー級の威信を守るには力不足だった。
したがって、マルシアノ以来の本格的なKOパンチャーであるリストンは、その人間性はさておき、スター不足のヘビー級の中では無視出来ない存在になっていたのだ。
一九六一年十二月九日、全米ボクシング界は新たな試みをスタートさせた。クローズド・サーキットの導入である。一九四〇年代にテレビが登場して以来、ボクシング観戦は茶の間にも広まったが、その反面会場に足を運ぶファンの数が減り、かつてのデンプシー対タニー戦のように屋外に何万人もの観客を集める大規模な試合興行は次第に影を潜めていった。
その結果は興行収益や試合報酬に如実に現れている。なにしろ一九二〇年代のデンプシーやタニーによる興行記録や報酬(タニーの九十九万ドル)が三十年経っても破られていないのだ。
そこでボクシング界が新たなビッグビジネスの手段として編み出したのが、各地でシアター形式によるリアルタイムの観戦が出来るクローズド・サーキットシステムである。これによる利点は、高額なリングサイドチケットを購入しなくとも特等席なみの観戦が出来ることと、当時の小さなブラウン管では味わえないジャンボスクリーンならではの迫力が楽しめることである。
その第一弾として選ばれたカードがパターソン対マクニーリーのヘビー級タイトルマッチとリストン対アルベルト・ヴエストパルのダブルヘッダーだった。この試みは大成功で、セミファイナルに登場したリストンは格下相手のイージーファイトだった(一ラウンドKO勝ち)にもかかわらず、他階級ならば世界チャンピオンに相当する七万五千ドルもの報酬を手にしている。
以後、今日に至るまでクローズド・サーキットは興行上欠かせないものになっているが、その歴史的第一戦の勝者がソニー・リストンだった。
「今夜の君のパフォーマンスでパターソンは怖気づいたと思うかい」
試合後、インタビュアーから感想を聞かれたリストンはこう答えた。
「いつまで俺をNO1コンテンダーにしとくつもりなんだ」
「まあ一年半くらいだろ」周囲から声が飛ぶと、
「そんなに長いこと奴は俺にびびり続けるのか」と茶化してみせた。
いよいよリストンを無視出来なくなったパターソンは遂に対戦を承諾し、一九六二年七月、両者による世界タイトル戦の調印式が行われた。リストンが素行不良によりニューヨーク州ボクシングコミッションから無期限で試合禁止を言い渡されているため、試合会場はシカゴのコミスキーパークに決定した。
一九六二年九月二十五日、青少年の手本たる優良青年は、人相の悪い前科十九犯の挑戦者を前に恐怖を感じていた。
「リストンは強い」試合前から弱気とも思える発言が多かったパターソンはまるで蛇に睨まれた蛙のように逃げ惑い、リングに立っていられたのは一二八秒だった。
戦前から不利を予想されていたとはいえ、俊敏なパターソンが一ラウンドも持たないとは誰も思いもよらなかった。一服しようと煙草に火を点けたところ、吐き出した紫煙の向こうにパターソンが倒れていたという観客の証言もあるほど、呆気ない幕切れだったのだ。
この時点で史上最年少のヘビー級チャンピオンだったパターソンはまだ二十七歳の若さであり、三十八勝二敗(二十九KO)という戦績は、三十二勝一敗(二十二KO)のリストンよりKO率で上回っている。では落ち目だったかというとそういうわけでもなく、それから十年後に引退するまで世界ランカーのままだった。
ジーン・タニーが「どうも八百長臭い」と言ったのは、ヨハンソンを二度にわたってKOした得意のガゼルパンチが全く出なかったことも含めて、パターソンの策のなさに納得がいかない思いがあったのだろう。
ロッキー・マルシアノも、パターソンが元来スロースターターであることに言及し、「もう一度やれば十分勝つチャンスがある」と前王者のタイトル奪回を支持していた。
しかし、約一年後のリターンマッチでまたしてもパターソンが一ラウンドでKOされるに至り、さしものタニーとマルシアノもリストンの強さを認めざるを得なくなった。
リストンの強さはパンチの威力もさることながら、二一三センチというとてつもなく長い腕から繰り出される正確なジャブによるところが大きい。
パターソンのように小柄でリーチの短い選手と比べると、片手だけ伸ばしても拳一つ分以上長さが違う。加えてヘビー級史上最大と言われる周囲三十八センチの巨大な拳の持ち主とくれば、ジャブをかわすだけでも至難の業である。
ヴェストパルが最初のダウンを喫したのもほとんどジャブに近い左ストレートだったように、リストンのジャブは距離の測定がしづらく、威力も並のヘビー級のストレートばりに強力だった。
ゾラ・フォーリーは、やや動きの緩慢なリストンをフットワークで翻弄する作戦を取ったが、このジャブから逃れられずにKOされている。
ヘビー級の歴史を紐解いても、世界チャンピオンが同じ相手に連続して一ラウンドKO負けを喫した例など過去になかっただけに、リストンの強さは際立っており、当面彼の天下が続くと思われていたが、一人のほら吹き男がボクシングの歴史を変えてしまった。
キャシアス・クレイことムハマド・アリの登場である。
ローマオリンピックのライトヘビー級ゴールドメダリストだったクレイは、シュガー・レイ・ロビンソンがもたらしたフットワークによる技術革命をヘビー級で実現した天才児だった。
ヘビー級の歴史の中にも、ジム・コーベットやジャック・ジョンソンといったディフェンスとフットワークを主体とするチャンピオンはいたが、最重量級の醍醐味は派手な殴り合いであることに変わりはなく、デンプシーやルイス、マルシアノといった強打者が最ももてはやされてきた。
ところがクレイは軽量級ボクサーのようにジャブとフットワークで相手を翻弄しつつ、タイミングの良い右ストレート、右クロスでナックアウトすることも出来る異色のヘビー級だった。例えるならミドル級のスピードを持ったヘビー級とでも言ったらいいだろうか。一九〇センチの長身から放たれる閃光のようなジャブとダンサブルなフットワークは並み居る強打者を寄せつけなかった。
また、クレイはボクサーにしては饒舌で、試合のたびにKOラウンドを予言した自作の詩を披露する一方、恐るべき毒舌で相手をこきおろし記者やファンの笑いを誘うのを楽しんでいた。KOラウンドは的中することもあったが、外れることも多く、人々は彼のことを「ほら吹きクレイ」と呼んだ。
クレイの毒舌は、王者リストンに対しても向けられた。「のろまな熊」や「醜男」はまだしも、貧困ゆえに小学校すらまともに通えなかったリストンの無学ぶりまでけなしたが、リストンは無反応だった。
現在なら、いくらリップサービスとはいえ、クレイほどえげつなく相手をののしれば業界だけでなく社会的制裁を受けかねないところである。それでいて名誉毀損などの問題が浮上しなかったのは、クレイの陽気でユーモラスな人間性と大衆人気の成せる業だった。
一九六四年二月二十五日、マイアミのコンベンションホールに詰めかけた大観衆は、その大半がクレイに好意的ではあったものの、彼の勝利を期待していたわけではない。むしろ関心があったのは、陽気なビッグマウスが陰気な熊男にいかに残忍にいたぶられるかの一点だった。
いかに傑出したスピードを誇るクレイでも、パターソンの変則的かつ緻密なボクシングをいとも簡単に粉砕したリストンの豪腕から十五ラウンド逃げ続けることは不可能だと思われていたからだ。
試合は予想通りジャブを飛ばしながらアウトボクシングに徹するクレイをリストンが追い回すという展開だった。ただし、パターソンがピーカブースタイルでガードを固めていたのに対し、クレイはフットワークと動体視力だけでパンチをかわすため、リストンは空振りが多く、体力の消耗も激しかった。
六ラウンドにはジャブで両目を塞がれたリストンの射程まで狂ってしまい、完全にクレイが主導権を握ったかのように見えたが、精神的に追い詰められていたのはクレイの方だった。
空振りを繰り返しているとはいえ、その迫力は尋常ではなく、紙一重でかわしているクレイの精神的疲労はラウンドが進むにつれて蓄積されていった。
六ラウンド終了後コーナーに戻ってきたクレイが「もう勘弁してくれ、俺はもう闘えない」とセコンドに泣きを入れたのは、いつか命中するかもしれないリストンの拳に対する恐怖心がピークに達していたからであろう。
試合は七ラウンド開始前に、肩を負傷したという理由でリストンが棄権を申し入れたことで、クレイの勝利となったが、この時の精神状態のまま試合を続けていたらどうなっていたかわからない。
クレイが小躍りしながらリング上で雄たけびをあげていたのは、タイトルを獲得したこと以上にこれ以上リストンと闘わなくてすむという解放感の方が大きかったように思われる。
この世紀の番狂わせは、専門家筋からどのように見られていたかというと、ほとんどがクレイに対して否定的だった。『ニューヨーク・デイリーニューズ』『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』『ニューヨーク・タイムズ』『ニューヨーク・ポスト』といった大手各誌はこぞって「クレイにチャンピオンの資格なし」と酷評し、『ワールド・テレグラム』他、ごく少数だけがクレイの王座奪取を正当と見なしていた。
六ラウンドまでの採点が二対一と割れていたのも、クレイのパンチは正確であってもリストンに深刻なダメージを与えておらず、足で撹乱しながら手数だけでポイントを稼いでいるようにも見えたからだ。
軽量級ならいざ知らず、ヘビー級ならではの豪快な打ち合いを期待していた観客には、このような幕引きは到底納得のゆくものではなかった。
試合の賭け率は七対一でリストン、しかも三ラウンドまでのKO勝ちという予想がほとんどだっただけに、番狂わせというよりもむしろ八百長と見る向きが多かったのもやむをえない。
リストン対クレイ戦後に起こった八百長説は世界中に大きな衝撃を与えた。まず槍玉に上がったのは試合を放棄したリストンである。ファイトマネーの差し押さえに始まり、上院での聴聞会、世界ランキングからの削除とまるで八百長が決定したかのような扱いである。
一方のクレイもWBA執行委員による多数決の結果、十五対五でタイトル剥奪が可決された。理由は、最初から“再戦ありき”で試合がプロモートされた疑惑と、クレイの日頃の言動がチャンピオンとしてふさわしくなく青少年の悪い手本になっているというものだった。
一九六五年五月二十五日、疑惑の二人によるリターンマッチはまたしても後味の悪いものとなった。
一ラウンド二分過ぎにクレイが放った右ショートフックのカウンター一発でマットに崩れ落ちたリストンはそのままカウントアウトされたのだ。腰の入った狙い撃ちのようなカウンターならばまだしも、クレイの右はバックステップしながらリストンの左に合わせたようなパンチだったため、とても効いているようには見えず、観客も呆気に取られていた。
クレイ自身も、前のめりに崩れてゆくリストンに驚いたような視線を向けていたことから察するに、手応え十分というわけではなかったのだろう。
今日でこそ、リストン第二戦のKOパンチはスピードとタイミングが完全に合致し、ピンポイントを的確に打ち抜いた芸術的なカウンターとして評価されているが、当時はこのような切れ味鋭いカウンターを打てるヘビー級がいなかったため、観戦していた元世界ヘビー級チャンピオンのジャック・シャーキーでさえ「あんなパンチでは卵も割れやしない」と八百長説を肯定するような発言をしている。
敗者リストンは、またしても期待を裏切ったことで完全に人気は地に落ちた。元々黒い噂がつきまとう一種の嫌われ者キャラでありながら、その圧倒的な強さゆえに賭けの対象としては一番人気だったのが、二度の番狂わせで大枚をすった連中からもついに見放されてしまったのだ。
再起後も十五勝一敗(十四KO)とほぼ無敵で、とてもリストンを力でねじ伏せられそうな相手は現れなかったにもかかわらず、ついにビッグマッチの声はかからずじまいだった。
一九七一年一月六日午後八時半頃、年末からセントルイスの母の元を訪れていたジュラルディン夫人がラスベガス市郊外のパラダイスバレーにある自宅に戻ったところ、Tシャツとパンツ姿のリストンが寝室のソファーの上で死亡しているのを発見した。
死亡推定日時は十二月二十九日頃。外傷はなかったが、自宅からヘロインやマリファナが発見されたことで薬物中毒や薬物による殺害説などが流れ、リストンの暗い過去と相まってミステリアスな事件として大きな話題となった。
死体発見から二週間後の一月十九日、検視官マーク・ハーマン博士は「心臓機能の障害による自然死」であることを公式発表したが、麻薬常用の兆候も伺えるなど未だに謎の部分が多い。
アリ(当時はクレイ)とリストンのリターンマッチは、ビデオで見ても納得がゆかない人が多いのではないだろうか。あの黒熊のようなリストンが、全く体力の消耗もない第1ラウンドにいくらタイミングが完璧であったとはいえアリのパンチで起き上がれないほどのダメージを受けたとは信じがたい。仮に峠を越えていたとしたら、後に世界を制したフレージャーやフォアマンあたりが、リストンというビッグネームを踏み台にして名を挙げようと思っても不思議ではないし、フレージャーが王座に就いた頃もリストンは世界ランカーだったのだから、対戦は興行的に旨みがあったはずだ。それなのに、みんなリストンとの対戦を避けているのは、「極めて危険な相手」という認識があったからではないだろうか。つまりアリがリストンをKOしたことを真に受けてはいなかったということか?




