憂鬱な満員電車のはずだった・序章中編
前回の女の子と少しだけ近づきます。「憂鬱な満員電車のはずだった」を序章の前中後編にしました。今回は中編です。
トイレから出てきた俺を待っていたのは、先ほど改札を出てすぐに別れたはずの彼女だった。なぜか前髪をとめていたヘアピンを外しており、目が前髪に隠れている。
彼女は俺に駆け寄って、かすかに頬を紅くしながら言った。
「あの、さっきはティッシュ、ありがとうございます……」
彼女は少し俯いていた。上目遣いで俺を見ている、のかもしれない。前髪から少しだけ黒い目が覗いた。
「ああ、いえ、お気になさらず……」
咄嗟に敬語が出たのは、おそらく同じ学校の、彼女の学年がわからないからではなかった。そこでようやく、彼女のセーラー服の襟に自分と同じ学年、2学年を示すピンがついていることに気づいた。
視線が駅の中を行き交う学生や、スーツのビジネスマンに移りそうになるのを抑えて、彼女を見つめる。特にどちらが言葉を続けることもなく、沈黙が続く。俺は左手の腕時計に目をやる。登校時間にもう余裕がないことを思い出した。
「学校、行きましょうか」
彼女は少し驚いたようで、前髪の向こうで目が大きくなったようだ。
すぐに、はい、と小さく返事をして俺の斜め後方に立って歩き出した。
女子と一緒に登校する……しかも美人に属するであろう人と。
本来、男子高校生であれば喜ぶべき状況なのだろう。
しかし、彼女が俺を待っていたことが予想外で、思考が頭の中で滑っていった。とりあえず何か話題を、と思い言葉をひねり出す。
「良い天気ですね」
俺は空を見上げて言った。残念なことに曇っていた。
彼女は空を見上げた。
「そ、そうですね?」
彼女は首を少し傾けて答えた。
適当すぎた。もう少し考えてから、話題は出すべきだった。特に初対面相手には。
俺は羞恥と、話すべき言葉を思案して黙り込んだ。そして一つの疑問が浮かんだ。
そもそも、彼女は今、なぜ俺と一緒に学校に向かうのだろうか…
学校に着く頃には、すっかり彼女と打ち解けていた…ならば、いくらか気は楽だったろう。
結局、天気の話で失敗した後、どちらからも話しかけることはなかった。
道中何度か振り返って彼女の方を見ても、彼女は恥ずかしそうに前髪の奥で視線をそらすだけだった。
なぜ彼女は、駅で俺のトイレをわざわざ待ってまで接触してきたのか。
単にティッシュのお礼を言いに来ただけの、律儀な女性なのかもしれない。
見たところ、彼女は恥ずかしがりの人間だ。それも極度の。それでもお礼を言うために勇気を出して、自分から話しかけてきた、と考えれば彼女の健気さに感銘する。
だとしても、お礼以外で自分から話さないのはどうかとも思う。俺も途中から無言でついてくる彼女に恐怖を感じてきて、また腹痛に襲われていた。
学校に向かう足を速めても、彼女は俺との距離を維持したままついてきた。
学校にたどり着くと、それぞれの教室に向かうために別れた。
「じゃあ、おれこっちだから」
少し息を切らせる彼女は、こくりと頷いた。廊下を少し歩いてから振り返ると、彼女は俺を見送るように立っていた。前髪で表情が見えず、何を思っているのかやはりわからない。
腹痛がひどくなった。
学校生活は忙しいものだ。授業は朝から夕方まで続き、昼休みを除いて授業と授業の間の休憩時間は10分ずつ。授業中は睡魔との戦いで、本当の孤独を味わうことで精一杯だ。人間の三大欲求の一翼に一人で抗い続けるのは、気力も大きく消耗する。10分の休憩時間は、トイレに行くことや授業準備、次の授業に備えて眠るなどで、余分な時間もない。忘れられそうになかった彼女のことも、昼休みまで頭から離れていた。
彼女はお礼の他に何か伝えたいことがあったのでは?
昼休み、昼食を食べ終えた俺は図書室に向かう。憂鬱な気分が酷いときには、図書室に行って本棚に並ぶタイトルや、表紙のイラストを眺める俺の習慣だった。
そうやっていると、漠然と、世界は広いものだなぁ、などと感じて憂鬱さを忘れることもできた。
いつものように本棚を眺めながら歩いていると、図書室の奥、大型の図書(貸し出し不可)のコーナーの前にある、六人掛けの読書用机に一つ、人影が映る。
普段であれば人気がない場所だったので、珍しく思ってのぞき込んだ。
今朝の彼女が座っていた。
俺と話していたときに目を隠すように垂らしていた前髪は、読書のためなのかヘアピンでしっかり目にかからないように留めている。
彼女の手には、電車の中で持っていたものと同じブックカバーに覆われた本がある。
そういえば、彼女の名前は何だろうか。
俺はそんな疑問で今朝彼女に対して感じた恐怖も忘れていた。
本棚を眺めるふりをしながら、彼女の位置まで近づく。
もし彼女が俺に気づけば、話しかけてくるかもしれない。
期待をこめて、彼女の周辺の本棚でうろうろしたり、実際に本を取って開いたりもしてみる。しかし、彼女は一向に気づかない。
ちらちら見てみるものの、彼女の視線は本に固定されていて、こちらに移る気配がない。
10分ほど近づいたり離れたりしてみたが、彼女の視線は本から離れない。
直接声をかけるのが確実な手段だが、気後れしてしまう。
よく見たら、彼女の本に向かう目が少し怖い。
獲物を睨む蛇のようだ。
俺は彼女の邪魔をしては悪いな、と誰に対してか分からない言い訳をして立ち去ろうとした。
最後にもう一度、彼女の方を見る。
あの目が、こちらを凝視していた。
かっと開いた目と、その中の瞳孔がこちらをとらえている。
彼女の視線にさらされ、今朝の恐怖とは別の恐怖から体が強ばる。
俺はぎこちない動きで彼女と反対の方に体を向ける。
廊下側の窓ガラスに写る彼女は、こちらに視線を固定したまま、ゆっくり立ち上がろうとしていた。
小さな勇気を振り絞って、顔を彼女の方に向けた。
彼女は中途半端に椅子から腰を上げ、中腰の姿勢で、こちらを見つめたまま止まっていた。
そのまま静寂が流れる。
数秒というには短く、数分というには長い時間だった。
気づけば、司書の西野先生が半笑いで、不思議そうにこちらを眺めていた。
何をしているの……?と思っているのがありありと伝わる表情だ。
俺たちは西野先生の視線を浴びながら、図書室から出た。
廊下で、前髪のヘアピンを外した彼女は、やはり今朝と同じように頬を赤らめて、話しかけてきた。
「お名前……何ですか?」
「えっ?大友です。大友知久。」
今朝から緊張が続いたせいで、俺の頭は尋ねられたことを何でも答えてしまうほどに疲労しているらしい。彼女は俺の名前を確かめるように繰り返した。
「大友君……大友ともひさ君……」
「はい」
「本好きなんですね」
「え?あ、はい」
彼女は手に持っている本を、大事そうに両手で持っていた。
「……あ、あなたのお名前は?」
「えと……秋月餡奈です」
ようやく名前を聞けたことに、体の力が少し抜けた。
「あ、秋月さん……」
目が隠れているが、わずかに彼女が微笑んでいる気がした。
「……何組ですか?……大友君」
「……2年5組です。秋月さんは?」
「9組です。2年9組」
彼女の反応が少し早くなる。会話が続くというのは、こんなにも達成感のあるものだったのか、と感慨にふける。雲間の光が地面から伸びているのを眺めている気分だ。
「あの、大友さん、放課後一緒に帰りませんか?」
「え」
一緒に帰る?彼女……秋月さんと?なんで?
「お話ししたいことがありまして……」
ちょうど、昼休みが終わるチャイムが鳴り響いた。
ようやく名乗りあう二人でした。次回、序章の終わりです。




