憂鬱な満員電車のはずだった・序章前編
まだ最初だけですけれど、いつでもご感想お待ちしています。
夢はなんだろうか。小学校の頃は当時ソフトボールをしていたのでプロ野球選手。中学生では公務員。俺が高校生になる頃には、七色の飴のように甘い「将来の夢」というものを見失った。
スポーツ選手や芸能人という夢を、高校生が持っているわけではないと知らないわけではない。
だから俺がわざわざ「将来の夢」なんてものを引き合いに出して、自分がかわいそうなやつだと演出して悲劇の人物として感慨に浸っているだけだ。
小学校の頃に持っていたプロ野球選手という夢は、周りの友人が「将来の夢」の作文でプロサッカー選手とかプロ野球選手と語っていたから。中学校の頃は、親の仕事が「公務員」という職種であると知ったから。高校生では、中学生の生活を通じて抱えた絶望を捨てきれなかったゆえ夢を見失った。
やはり悲劇の主人公を演じたがるのは俺の悪いクセだ。本当に語りたいのは夢がないことではない。
わざわざ小学生の頃まで振り返ったのは、つまり、俺は今高校生活において漠然とした絶望を抱えているということを言いたかったからだ。将来の夢なんてのは、自分がいかに悲劇的か、ということを説明するために後付けした根拠の一つでしかない。
毎朝俺の親が作ってくれた栄養満点の朝食を食べる。
満員電車に身をねじ込み、謎の腹痛に耐えながら登校する。
眠たい頭を揺らしながら授業を受ける。
気の合う友人となんとなく話す。
紅く染まる夕方の空を見上げながら下校する。
突然クラスメイトが語る、「人生とはどうたらこうたら~」という高説に聞き耳をたてる。
帰ったらバッグを放り投げて、録画したアニメを視る。
親の作った夜飯を食べて、次の日の準備をして眠る。
そしてこう思う。
この生活が楽しくないなんて…俺はどうすれば…?
飢える心配もない。アニメを視る余裕もある。なのに肝心な何かが欠けている。そんなことに頭を回したら、原因の一つとして「夢」がないから…なんてことを考えてみる。
楽しくないと気づいたら、毎日楽しくない原因ばかりを探してしまう。
朝ゆっくり眠れないから。
毎朝満員電車に乗るから。
毎朝腹痛に悩まされるから。
友人との会話がつまらないからだ。
毎日昼と夜の間に夕方があるからだ。
まだ十数年しか生きていない小僧がもっともらしく人生を語りたがるからだ。
アニメがワンパターンだから。
親の作るご飯が多いからだ。
気づいたら眠る時間になるからだ。
夢がないからだ。
(この世にある全てが退屈でつまらないものではないのか?そうだ、つまらないんだ)
そう結論づけた。
「手も出していないことにさえ、つまらないというこそが本当に退屈な人間だ」
世界に毒づいていると、頭の中で誰かが囁く。声が大きいわけでもないのに鮮明で透き通るからか、耳に残って何度も繰り返される。
「世界がつまらない」
「お前自身がつまらない」
繰り返される自分と脳みそに住まう誰かの言葉の繰り返しで、朝から夜までずっと体が重たい。
鏡を除けば、辛気くさい隈を目の下につけた、図体だけ大きく育ちやがったネズミがいる。毎朝毎晩、餌を与えられ、カゴに取り付けられた回し車で遊ぶ。目の前のネズミは疲れた顔だけは一人前のくせに、幼さが残る表情で不気味なまなざしを向けている。
「誰なんだよ…お前」
鏡に写る巨大なネズミが何も言わずに口端だけをつり上げた。その笑顔はこの世のあらゆる不気味な絵画より気色悪い。俺はあまりの不快さに鏡を見ることさえ憂鬱になっていった。
電車の窓に学ラン姿の自分が写る。無表情を貼り付けて、何を考えているのかわからない。石像のほうがまだ感情豊かだ。皮肉に顔を歪めると、またあのネズミが現れる。学生バッグを大事そうに抱えて、身を縮み込ませている。なんて惨めなやつだろう。生きていて楽しいのか?
(…くそっ…腹が…)
急に腹痛が起こり、人をかきわけて電車のトイレに向かう。トイレの前で一人の女が入り口を塞ぐように立っている。自分の高校の生徒のようで深い紺色のセーラー服を着ている。あまりの人の多さに、ここまで追いやられたのだろうか、落ち着かないように目で周辺を見渡して、手に持った、黄色のブックカバーに覆われた本に集中できないでいるようだった。
「失礼します…」
静かに声をかけてから、目を合わせずに彼女を避けてトイレに入ろうとすると、彼女は本を手にしたまま身をよじって入り口の前を空けた。
トイレに入る直前に横目で彼女の顔を見た。通った鼻筋に、眠そうな印象ながらぱっちりとした目と長い睫毛。下唇の薄いピンク色が艶やかに見えた。
揺れるトイレで苦労しながら用を済ませて出てみると、目と鼻の先に彼女の後頭部があった。彼女の黒く長い髪に残るシャンプーの香りだろうか、強すぎない、甘い芳香が鼻腔に充満した。
彼女はトイレから出られない俺に気づいて体を避けて通そうとした。しかし、俺が進もうとする先も、俺一人が入ることができないほどにスペースがなく、俺は彼女の空けたすぐ横に立つしかなかった。
電車が揺れるたびに、彼女の肩と自分の肩が当たる。さらに大きく揺れると彼女の頭が近づき、彼女の香りがはっきりとして鼻を通り、脳にまで届いた。誰かも知らない相手。偶然近くに立った女子の肩に接触して電車の振動を共有している感覚と、鼻、口、脳にまで充満していく彼女の香りを楽しんでいる自分に、罪悪感と奇妙な優越感が生まれていた。
突然彼女がくしゃみをした。2回。顔を伏せて本を持っていない方の腕の袖で鼻から下の顔半分を隠し、かわいらしく小さな声をあげて、大きく頭を2度揺らした。周りの視線が全て一度彼女に向いて、彼女は顔から袖を離してからも恥ずかしそうに俯いていた。
俺は咄嗟にポケットティッシュをズボンから取り出して、まるごと彼女に差し出した。彼女は驚いて一歩後退しようとしながら、俺の顔と差し出されたポケットティッシュを交互に見る。数秒の長い(無言だが騒がしく思えた)間があって、ようやく彼女は俺がティッシュを差し出したことを理解したようだった。
「あ、ありがとう…ございます…」
最後の方は息遣いしか聞こえなかったものの、彼女は礼を言いながら恐る恐るポケットティッシュを受け取った。ほのかに口が微笑んでいるが、ぱっちりした目元は驚きと警戒を浮かべたままの顔で、二つの表情を鼻を境目に上と下で別々に切り貼りしたようだった。彼女の手が俺のポケットティッシュに触れた時、指先が震えていた。俺と彼女の言葉のないやりとりを、誰かがじっと見つめている気がした。
俺は突然現実に引き戻された感覚に陥った。先ほどまで夢中になっていた彼女のかわいらしい顔や綺麗に伸ばされた黒髪、自分より小さな体、脳を刺激する香り、恥ずかしそうにしている表情が、どうでもいいことのように思われた。
彼女と同じ駅で降りて改札に向かう。俺はもう他人として振る舞おうとしたが、彼女は戸惑いながらも、つかず離れずの距離を保っている。俺は改札を出てから彼女に振り返った。
「それじゃ」
短くそう言ってトイレのある方に歩いて行った。別れ際の彼女の顔は何か伝えたそうにしていた。しかし俺は何か話すことも思いつきそうにないので、彼女の口が開くのを待たないことにした。
2回目のトイレを済ませて出ると、彼女が外で待っていた。
俺はまだ優越感が心に残っているのを感じた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。




