第十話 その正体は
「帝国はいよいよ成功としたという事さ。魔の者の召喚にね」
俺をまっすぐに見据えるパンドラさんの言葉に耳を傾ける。
パンドラさんはゆったりとした動作でキセルを咥え、それから細く長く煙と共に息を吐き出した。
「いま君が消したのは、魔の者に仕える魔物と言う生物だ」
「魔物……?」
聞いた事の無い名前に首を傾げる。
「以前話しただろう。魔の者を呼び出す術。その悲惨な結末の正体が魔物だ。魔物というのは魔の者の下位存在の様でね。気が済むまで暴れて、煙の様に消えて行くんだ」
「魔の者と魔物って、違うんですか?」
「別物だよ。魔の者は魔物の支配者……だそうだが、実際のところは不明としか言えないな。会った事が無いからね。だが、暴れるだけの魔物がこんな森の奥まで来たという事は、なにかしら目的意識があって行動していると見て良いだろう。つまり、彼らの意思を束ねる存在が呼び出されていると考えるのが妥当だよ」
話を聞いている間、心臓がいやに激しく鼓動を打つ。
息苦しさを感じる程の鼓動の激しさは、俺を急かすようだった。
胸元をきつく握り締め、俺は振り返り視線を森へ……いや、見えない敵に向ける。
「俺、……どうしてか分かんないンすけど、アレを見たら倒さなきゃって。今も魔の者を倒さないとって……!」
息が荒くなる。
今すぐにでも駆け出して、魔の者の元へ向かわなければ。
……戦エ。……戦エ。戦エ。
倒セ倒セ倒セ倒セ。
――守ってくれ、頼む。
「無駄死には感心しないな」
再び真っ白に塗りつぶされた思考が、パンドラさんの一言で呼び戻される。
ハッとしてパンドラさんの方を向けば、ひどく冷めきった顔が目に付いて一瞬にして肝が冷える。
「いや、そんなつもりは……っ」
「君にそんなつもりが無くとも、君の中の意志はそうは思っていない様子だね」
「え……?」
俺の中の、意志?
それはさっきから入り込んでくる、強迫観念の様なものを指しているのだろうか。
「ネモ。君も気が付いているだろう? 君の中に君のものでは無い意志が根付いている事に」
俺は戸惑いがちに頷いて、今も頭の中で戦えと強く繰り返されていると明かした。
パンドラさんは少し考え込むような仕草をして、それから再びキセルに口付ける。
「……君自身は戦いたいのかい?」
「俺? いや、俺は戦いとかそんなの嫌ですよ。怖いじゃないっスか」
「ならばネモ。君は君を知らなければならない。このままでは肉体と意識の主導権が奪われるぞ」
言われて背筋にぞっとしたものが走った。
主導権が奪われるって、それって俺が俺じゃなくなるって事か……?
いやそもそも、記憶喪失の俺が俺じゃくなるってのも変な話だが。
だけど本当にそんな事になったら、俺の全てが失われてしまう――?
急に湧いた自己の完全なる喪失に恐怖を覚えた。
記憶が無くとも生きて行けるかもしれない。
けれども自分自身がなくなれば、それすら出来ない。
それは駄目だ。嫌だ。
無意識に握っていた拳に力が籠る。
一体どうすれば良いのか、救いを求める様に再びパンドラさんを見る。
パンドラさんもまた俺をじいっと見つめていた。
「ネモ、君は君でありたいのだね」
「もちろん。記憶喪失で全部忘れた上に、更に全部無くしてたまるかよ」
「全部無くす、か。確かにそれは苦痛だろう。ならばネモ、今から私が話す事を受け止める事だ。いいね」
いつになく真剣な様子で問われ、俺は慎重に首を縦に振った。
キセルの煙がゆっくりと立ち昇るように、パンドラさんが静かに語りだす。
「君が君を知るうえで、はっきりとさせておかなければならない事がある。それは君が何故、生きているのかという事だよ」
「それは、パンドラさんが助けてくれたから……」
「いいや、私が助ける前に君は既に致命傷を負っていた。だが今の君は後遺症もなく平然としている。これは通常では考えられない事なんだよ。人間誰しも致死量の血を流せば死ぬ。それは絶対だ」
確かにパンドラさんが助けてくれた時、俺は大怪我をして血の海に横たわっていたという。
背中を斬られて、胸を貫かれて……。
俺は恐る恐る自分の胸元に手を当てた。
まさか貫かれた胸って、心臓だったのか――?
だがしかし手の平にしっかりと鼓動を感じる。
生きている。
どうして。
背筋に冷たい汗が伝って、手の平にはじわりと嫌な汗が滲んでいた。
何も言えずにいる俺を一瞥して、パンドラさんは更に口を開いた。
「はっきりと言おう。君は一度死んでいる」
「い、いやいや……! 待ってくださいよ! じゃあなんスか、俺っ、死体が歩いてるって言うのかよ!?」
その通りだと頷くパンドラさんを前にして眩暈を覚える。
いやいや、何を言ってるんだ、この人は。
死んだ人間が動く訳ないだろう……!?
「証明をしようか。君にはまだ伝えていなかったが、この館周辺には私の敷いた結界が張ってあってね」
結界? どうして今、そんな話を?
「この世界の、いや、この星の生命体は全て館には近寄れないようになっているんだよ」
この星の――生命体。
「館からある一定の範囲内に近付くと、方向感覚が狂う様になっているんだ。急に来た道を戻る者もいれば、全く別の方向に歩き出す者もいる。だからいつしか迷いの森と呼ばれるようになった。そしてそれは全て森に住む魔女の仕業に違いないとも。中々に愉快だろう?」
おもむろに、パンドラさんが懐から銀の器を取り出す。
キセルの叩きつけられて、カンッと高い音が響いた。
まるでここからが本題だと言わんばかりに。
「さて、この結界だが例外的に通れる者も存在してね。なんだと思う?」
突然の問いではあるが、答えは簡単だ。
だがしかし、喉が張り付いたようにひりひりと痛み、パンドラさんの質問に答えることが出来ない。
答える事を、恐れている。
パンドラさんはきっと、俺が得も言われぬ恐怖に囚われている事を分かっている筈だ。
もうやめましょうよ。
その先を言わないでくれ。
だが、パンドラさんはお構いなしに先を続けた。
「死体と、この星の外の生命体だよ」
ぶるりと体が震えた。
あぁ、いや、でも待て。
パンドラさんが俺を見つけたのは館の近くだが、それが結界の内側だとは限らな……。
「残念だがネモ。君は、私の敷いた結界の内側に入り込んでいたんだ。つまりだね、君は死体であるか、或いはこの星の生命体ではないという事になる。もしくはその両方かな」
「そんなの! 嘘だ!」
「嘘を吐くことで私に何かメリットがあるとでも?」
パンドラさんの射抜く様な鋭い視線に貫かれる。
俺は何も言い返せず、情けない呻き声を漏らしていた。
あぁ、だってそんな事を認めちまったら!
俺は死体で、中身はさっきの魔物と同じ様なモンって事になっちまう!
くらくらと立ち眩むような感覚に襲われて、その場にへたり込みたくなる。
恐怖、怒り、悲しみ、あらゆる負の感情が渦を巻くのに、今も脳内には倒せ倒せ戦えと声が鳴り響き続けていた。
足元が崩れ落ちていく。
記憶が無くとも俺は俺と言う人間だという自信が、木っ端みじんに吹き飛ぼうとしている。
俺は、なんだ?
「死体であり、中に他者を内包する者。それが君ではあるが、私には正確な解を与える事は出来ない。君に解を与えられる存在がいるとすれば唯一人。魔の者だけだろう」
「俺が……魔物のお仲間だからっスか……?」
「さてね。それを確かめに行こうじゃないか」
手に持った銀の受け皿を真横に振って、パンドラさんはその中身をぶちまけた。
燃え尽きた灰が風に舞い、まるで踊るかのように俺とパンドラさんの周囲を囲む。
よく見れば灰はその全てが発光しており、やわく光を放っていた。
「私は君の全てに興味がある。そして私は私の好奇心を満たしたい。特等席で君の全てを見せてくれ」
「パンドラ、さん……」
「安心するといい。君を私の好奇心に付き合わせる以上、私も最後まで君に付き合うよ」
徐々に輝きを増す光の中、パンドラさんが微笑む。
それは今までで一番優しく柔らかで、俺はどうしようもなく泣きたい気持ちに駆られてしまった。
目を開けていられないほどの眩い光が、俺とパンドラさんを包み込む。
目蓋をきつく閉じて、そろりと開ける。
ぼやけた視界の中に、見た事のない景色が映り込む。
漆黒の玉座とそこに座する男の姿を目にして、俺は再び意識を白に染め上げた。




