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第一話・レインボーベビー

 幼い頃、お昼寝布団でウトウトしていると、母が優しく頭を撫でながら言った。寝かしつけの寝物語のように。


「本当は、あなたにはお兄ちゃんかお姉ちゃんがいたのよ。でも、その子は生まれてくる前にお空へ帰ってしまったの」


 すでに瞼が半分閉じかけた瞳で、まだ五歳だった愛華はそっと母の顔を見上げた。目の前にいる娘の向こうに、また別の誰かを見ているような遠い視線。行き場のない悔しさを含んだ母親の顔がとても印象的だった。


「でもね、お母さんは悲しくて寂しくて、ずっと泣いてばかりいたけれど、あなたが生まれたことで全てが救われたわ。あなたみたいな子のことを、レインボーベビーって言うそうよ。雨上がりの虹のような、明るい希望に満ちた赤ちゃん、って」


 この世に生まれてくることはなかった、二つ年上の兄か姉。もし無事に生まれていたらという空想を何度したことだろう。実在しない兄姉は、一人っ子の愛華にとって憧れだった。


 その命の存在を証明するのは、最初の数ページしか記入のないまま残されている母子手帳だけ。その手帳を交付してもらった後すぐ、胎児の心拍が止まっていることが発覚した――妊娠初期の稽留流産だった。

 初期の流産は胎児側に何らかの不具合があったからで、母体のせいじゃないと説明されても、若かった母は自分のせいだと責め続けた。妊娠に気付く前に飲んでしまった薬が悪かったのか、それとも不注意で腹部を強く打ちつけたせいなのか、と。


 自分の責任で胎児を死なせてしまったと思い込んで泣いて過ごしていた中、母が立ち直ることができたのは二度目の妊娠が発覚したからだった。新しい命は希望を与えてくれた。


 死産や流産、または新生児や乳児の頃に亡くなった赤ちゃんの後に生まれて来た子供のことを、欧米ではレインボーベビーと呼ぶ。初めてその言葉を聞いた時、自分には特別な称号があるのだと、少し得意げな気分になった記憶がある。


 ――無事に生まれてきたのが、私じゃなかったら……


 空想上の兄姉はとても優秀で、いつも何でもそつなくこなしてしまう。だからこそ、嫌なことがあった時、自分と比較してはさらに落ち込む材料ともなっていた。これはある種の呪いなのかもしれない。


 机の上に置かれた薄っぺらい封筒に視線を戻すと、ハァと自己嫌悪の溜め息をつく。ちょっと背伸びして受けたチャレンジ校で、受かるとは微塵も思っていなかったけれど、それでも不合格通知はやはりショックだ。


 今日受けてきた本命の大学もダメだったんじゃないかと、マイナス思考が急に襲い始める。直近の模試ではAに限りなく近いB判定だった。試験直後には凡ミスさえなければ大丈夫というくらいには手応えがあったはずだが、徐々に自信が無くなっていく。


 先に受けた第二志望校はすでに合格通知を受け取っているから、浪人する心配はないけれど……。気持ちはどんどんと落ち込むばかり。マイナス思考の無限ループ。



「愛華、合格おめでとう。よく頑張ったね」


 会社帰りに買ってきたホールケーキを前に、父が改めてお祝いの言葉を掛けてくる。第一志望の合否を伝えた電話でリクエストした、隣駅前のケーキ屋のザッハトルテ。5号サイズも二人で食べるには大きすぎるから、こんな風にホールのままがテーブルに乗るのはいつ振りだろうか。


 無事に第一志望の大学からの合格通知を受け取って、何か月も張りつめていた糸がようやく切れたようだった。「ありがとう」と返しながら、自然に口の端がほころんでいるのを感じる。


「そっか……春からは大学生になるのか。何だか、あっという間だったなぁ」

「明日はバイトの面接に行ってくるね。駅前のコンビニが募集してたから」

「え、少しくらいのんびりしないのか? 受験が終わったばかりなのに……」


 せっかちな娘のことを呆れ顔で見ている。「これまでだって家事のほとんどをこなしてたんだから、せめてしばらくは自分の好きなように過ごせばいいのに」と言ってくれるが、性格的にそれは難しい。父いわく、休むことが苦手な性分なのは、亡き母とそっくりらしい。


 「バイトが無い日はちゃんとのんびりするつもりだから」と言いながら、切り分けたザッハトルテを皿に乗せ、フォークと一緒に父の前に置いていく。自分のがちょっと大きめなのは、今日の主役だから問題ない。


 ケーキの上に飾られていたチョコレートプレートには、桜色のチョコで描かれた『合格おめでとう』の文字だけ。事前に愛華から「恥ずかしいから、名前入れるとかロウソクとかは断ってよね!」と釘を刺しておいた。放っておいたら派手に祝われ、恥ずかしい思いをさせられるのは明白。


 母が亡くなってから十年。まだ小学生だった愛華と父親との生活は、田舎から駆け付けてくれた高齢の祖母に助けて貰うことで何とかやってこれた。しかし、その祖母も3年前に亡くなり、それ以降は高校生になった愛華が家の大半のことを請け負っている状態だった。

 それもこれも、父の修司が家事一切がまるで絶望的で……


 家事に追われてしまった高校生活。せめて大学の四年間は愛華には好きな時間を過ごして欲しい。そんな思いからか、横山修司四十六歳が勇気を振り絞って、愛娘へと告げてくる。


「お父さんさ、再婚しようと思うんだ」

「うん、いいんじゃない」

「へ?」


 少しも驚いた節もない娘の即答に、反対に修司が目をぱちくりさせている。物分かりの良い娘だけれど、さすがに少しは動揺してくれるんじゃないかと、変な期待をしていたらしい。思い切り拍子抜けした顔だった。


「柚月さんでしょ? 相手が別の人とかだったら、そりゃ驚くかもだけど」

「うん、柚月さんと」

「じゃあ、いいよ。いい人そうだったし、私は賛成だよ」


 ザッハトルテを食べ終えた後、愛華はチョコレートプレートを齧りながら答える。一度外で一緒にお茶したことがあるだけだが、父親の交際相手に悪い印象は抱いていない。


「で、いつから? 再婚した後、この家で一緒に住むんだよね? 使ってない部屋、片付けていかないとだね」


 我が娘ながら、話しが早過ぎて困ると修司は苦笑いを浮かべていた。前もっていろいろ頭を悩ませていたことは全部無駄だったと。「一緒に住むのは嫌だから、家を出て一人暮らしする!」的なことを言われるんじゃないかと、内心はハラハラしていたらしい。


「一応、三月末にはって言ってたかな。今住んでるところの契約とかもあるし、娘さんが春休みに入ってからだろうなぁ」

「へ、娘? 柚月さんって、子供いたの⁉」

「ああ、佳奈ちゃんっていって、確か今は5年生だったっけなぁ」


 「小学生……」と呟く愛華に、「あれ、言ってなかったっけ?」と修司は首を傾げている。完全に初耳だった愛華は、フルフルと勢いよく首を横に振った。

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