3 兵士トリスタン
セラフィナは地方貴族の娘で、一人っ子だ。だからいずれ婿を迎えることになっている。
現在のフォルテシア王国における平均結婚年齢は、男女とも二十代前半くらいだ。先王の時代は女性が十代半ばくらいで嫁がされ、何も分からないまま夫の言いなりになる……ということもざらにあったそうだが、国王ヴィクトルが男女ともに結婚可能最低年齢を十八歳とすると定めた。
これに伴い女性の社会進出も推奨され、以前は花嫁修業の一環だった王宮使用人の職もそのあり方が変わり、自分の力で生きていこうとする女性のための仕事になった。セラフィナの両親も、娘に生きる力を身につけさせたいと願ってこの仕事に就くことを勧めてくれたのだった。
もしセラフィナが王城で働いている間によい人を見つけられたらその人を領地に迎えるし、ご縁がなかったとしても両親がほどよい人を見つけてくれる。だから、自分の結婚についてセラフィナはそこまで焦っていなかった。
(……といっても今は恋愛や結婚より、嫌がらせの対処ね。さて、どうするべきかしら……)
ある日の昼休憩時間。同僚と一緒に昼食を取った後、セラフィナはいったん皆と別れて部屋に戻り、午後の仕事用の荷物の準備をしていた。
セラフィナたち王宮使用人にはいろいろな仕事が任され、今日は午前中は掃除、午後から隣国の王族を招いて歓談をする王妃のお付きをすることになっていた。
お付きといっても廊下に並んで来賓にお辞儀をするくらいだが、セラフィナたち使用人がずらりと並んでお辞儀をする姿を来賓が見て、「この国の使用人は教育が行き届いているな」のように判断する。だから、ただ壁際の置物状態になるだけだとしても気は抜けない。
他の同僚たちはともかく、たびたび嫌がらせをされるセラフィナは私物の管理をまめにしているので、一日に何度か部屋に帰って確認をしたりしている。正直かなり面倒だが、まずは自衛しなければいけない。
(……少し時間は早いけれど、もう本城に行っておこうかな)
セラフィナの両親は時間に厳しい人で、セラフィナも自然と時間厳守の精神が身についていた。遅刻するよりは早く行っている方が、ずっといい。まだ本城は準備中で入れないだろうが、近くで待っていればいいだろう。
そう思って使用人用廊下を歩いていたら、曲がり角から来た人とぶつかりそうになった。
「きゃっ!?」
「あっ、失礼……って、お嬢様!?」
よろめきそうになったセラフィナを支えてくれた人は、ぎょっとした様子で声を上げた。セラフィナが顔を上げると、濃い青色の心配そうな眼差しと視線がぶつかった。
さらさらの黒髪をきれいに整えた、兵士服姿の男。彼を見て、セラフィナもあっと声を上げた。
「あら、トリスタンだったのね!」
「お久しぶりです、お嬢様。……申し訳ありません、まさかお嬢様にぶつかりそうになったとは……」
「あはは、そういうこともあるから、気にしないで」
トリスタンは大柄な青年だが、しゅんとした姿は主人に叱られた犬のようだ。
王城で働く兵士でありながらセラフィナのことを「お嬢様」と呼ぶトリスタン・ガロは、セラフィナの実家であるラミレス家の私兵の息子だ。セラフィナよりも三つ年上で、整った優しそうな容貌に違わない、穏やかな青年だ。
五年前の改革により兵士の登用条件もいろいろ変わり、トリスタンはセラフィナよりも少し先に下級兵士として王城で働くことになった。王宮使用人と下級兵士だとほとんど階級の差はないが、トリスタンは昔からセラフィナのことを主人のご令嬢として扱ってきたので、今でも彼に「お嬢様」と呼ばれていた。
(トリスタンと前に会ったのは……もう一ヶ月以上前な気がするわ)
「活動する場所が違うからか、同じお城で働いていてもなかなか会えないわね。元気にしていた?」
「俺は元気です。お嬢様の方はいかがですか?」
トリスタンが笑顔で聞いてきたので……ぎくっとした。
トリスタンには、半年ほど前から始まった嫌がらせのことを言っていない。彼のことだから、親身になって話を聞いてくれるだろうが……間違いなく、両親のもとにも話が行ってしまう。両親を心配させるようなことは、知らせたくなかった。
「……ええ。毎日元気に働いて、おいしいものをたくさん食べているわ!」
「それならよかったです。でも、息抜きも大事ですからね」
「分かっているわよ。最近よく、第二書庫によく行っているのよ。あそこが落ち着くし、司書とも仲よくなれているの」
セラフィナが言うと、トリスタンは少し考えるそぶりを見せてから「ああ、あそこのですね」と第二書庫のある方を見やった。
「お嬢様は昔から、本がお好きでしたものね。楽しめているのなら、よかったです。……あ、す、すみません。こんなところで立ち話を……」
「気にしないで。私もトリスタンに会えてよかったって思っているから。……今度お父様たちへのお手紙にも、トリスタンも元気にしているみたいって書いておくわね」
「……はい、ありがとうございます。では、俺はここで」
トリスタンは笑顔でうなずくと、被っていた制帽のつばをちょっと下げてお辞儀をして、通り過ぎていった。
……同僚に、「実はあの兵士と恋仲だったりするの?」と問われたことがあるが、とんでもない。「トリスタンはお兄様のような存在よ」と笑って言っている。
トリスタンを見送ったセラフィナは、使用人用の宿舎を出た。
(……まずは、仕事、仕事! いつも以上に完璧なお辞儀ができるようにしないとね!)
気合いを入れて、セラフィナは本城の方へ向かっていった。