2 地方貴族令嬢の憂鬱と楽しみ②
「……お待たせ。で? 今日はどんな嫌がらせを受けたんだ?」
セラフィナが座って本を読んでいると、修理作業を終えたらしいジルがやってきて向かいの席に座った。おしゃべりをするとき、いつも二人はこの席に座っている。
「今日は、肌着を泥水に沈められたみたいなの。おかげで今日のお昼休みは、回収した肌着を洗って干すので時間を使ってしまったわ」
「……」
セラフィナが軽い調子で言うと、ジルは黙って眼鏡を外した。彼は極度の近視なので、近くの人と話をするときや書き物読み物をするときは眼鏡を外すのだ。
眼鏡越しでない、灰色の目がセラフィナをじっと見る。眼鏡を外すと彼の涼しげな灰色の目が明らかになり、間違いなく眼鏡を外した方が格好いいのだが、前にそれを言ったら「司書に格好よさは必要ない」と一刀両断された。
そんなジルの眼差しは今、探るようにじっとセラフィナを捉えている。
「……前から思っていたけどさ。いい加減、そのくだらないいたずらをする馬鹿をどうにかしようよ」
「もちろん、どうにかしたいわ。でも、相手はすごく上手みたいで一度も姿を見られないの」
「頭と……金もある誰かの仕業だろうな。まったく、これだから貴族の連中は……」
「私も末端だけど、貴族よ?」
「分かっている。僕が想定しているのは……君たちよりずっと身分が上の、金と時間だけは無駄にある連中だよ」
ジルは忌ま忌ましげに吐き捨てると、眼鏡のツルをたたんでテーブルに置いた。
「君はきっと、自分でも気づかないうちに貴族の恨みを買っているんだよ。でも君を傷つけたりものを壊したりしないってことは……その程度の恨みで、足がつくのを恐れているってことだろう」
「私みたいな端っこ貴族に嫌がらせをしたって、どうにもならないのに……どうしてかしら」
「さあね。……でも、やられっぱなしは癪だろう。一度、罠でも張ってみたらどうだ? ほら、ロンチェスト作品集の第四巻にあった……」
「……ああ、盗人への報復、ってやつね」
ジルは司書だけあり、多くの書物を読んでいる。彼は自分のお勧めをセラフィナに貸してくれるので、彼とはこうして本の内容をもとにしたたとえ話をすることがあった。
「そう、それ。犯人が食いつくのを想定して、わざと餌をばらまくんだ。……まあ、よほどうまくしないと嗅ぎつけられてしまうけれど……」
「そうよねぇ……。私、自分の手先が器用だと思っていないから、そんな芸当できないわ」
「……僕もそういうのは苦手だ。力になれなくて、ごめん」
「そんなことないわよ。こうして話を聞いて、アイデアを出してくれるだけでも十分助かるんだから」
セラフィナは、無理矢理でない笑顔でそう言った。
同じ職場にいる同僚たちには話せないことでも、違う部署に勤めるジルには言えたりする。それに同僚は皆女性だから、ジルは男性の立場で斬新な意見を出したり書物から得た知識を分け与えてくれたりする。
「いつもありがとう。……ひとまず、陰湿な嫌がらせになんて屈せずに頑張るぞ、という気持ちでいるわ」
「ああ、うん、その意気だよ。君はじめじめしているよりそうやってからっとしている方がずっといい」
ジルはそう言うと、眼鏡を掛けて立ち上がった。
「……悪いけど、もうすぐ閉館時間だ」
「あ、そうね。ジルは早寝早起きだものね」
「……爺臭いとか言うなよ」
「言わないわよ。健全な生活を送っているってことじゃない」
第一書庫は昼前開館で夜中手前で閉館だが、こちらの書庫は朝早くに開館して日没くらいにはもう閉館する。ここで働くのはジル一人なので、彼の都合で開館時間を設定してもよいそうだ。
セラフィナが読んでいた本の片付けはジルがしてくれるということなのでありがたくお願いし、鞄を肩に掛けた。
「それじゃあ、今日もありがとう。また来てもいい?」
「……仕方ないな。愚痴も聞くけど、たまにはいい報告でも聞かせてくれよ」
「あはは、もしそういうのがあればジルのところには二番目に教えに行くから、大丈夫よ!」
「相変わらず一番じゃないんだな」
「一番になりたい?」
「いや、別に」
そう言うジルの目つきは眼鏡のせいで見えないが、口元は笑っている。こういうやりとりをするのも、いつものことだった。
閉館作業をするというジルに送り出されて、セラフィナは建物を出た。ここに来たときには夕暮れ色に染まっていた空は、半分ほど夜の色に占められている。思ったよりも長い時間、滞在していたようだ。
(……うん、そうよね。まずは元気、元気でいないと! それから……罠のことも、考えるだけ考えておこうかな)
犯人の正体は分からないのでひとまず全身黒タイツの人間を想定して……その黒ずくめが罠に引っかかってキーッ! と叫ぶ様を想像しながら歩くセラフィナの足取りは、軽かった。