14 気づいたこと
二日後の朝。
「……じゃ、行ってくるよ。くれぐれも体調には気をつけて」
「うん、気をつける。ジルも道中安全にね」
いつもなら夕方に落ち合う二人だが、少しでもセラフィナの体への負担を軽くしておこうということでジルの出発前に落ち合ってから別れることになった。
うっすらと朝靄が残る中、いつものキャラメル色のコートの後ろ姿が遠のいていくのをセラフィナは静かに見送った。
(……今日から三日間、ジルには会えない。寂しいな――)
振っていた手を下ろし、それを胸元に寄せて――じわじわと頬が熱くなっていくのを感じた。
(って、違う違う! ジルがいないと私は体調不良になるから、いてほしいだけで……って、さすがにそれはジルに失礼ね……)
この前シメオン・クレベルソンも言っていたように、ジルは一言多いことがあるし、それとなくイヤミを吐いたりもする。「僕、なるべく室内にいたいんだ」と言うようにインドア派で、いつも猫背気味で姿勢がよくないので余計にもっさりした印象になる。
だが……わりと面倒見はいいし、気遣いもできる。基本的に人嫌いのようだが本を愛する人には優しく接している姿を見たことがあるし……今回だって、ジルが気に病む必要はないのに細やかに気を遣い、セラフィナの体調のことを思い匂いを嗅がれることを我慢してくれている。
呪術のことだけではない。きっとセラフィナには……セラフィナの人生には、ジルが必要なのだ。
「……本人に言ったら、『馬鹿なこと言うなよ』ってあしらわれるだろうなぁ」
誰にともなくつぶやいてから、セラフィナはきびすを返した。
今日も、仕事だ。
ジルは以前、「呪具を置いた人物とセラフィナに嫌がらせをしている人物は、同じかもしれない」のような推測を述べていた。
果たしてそれが正解だったのかは分からないが、セラフィナが仕事に復帰してしばらく経つが、今のところいたずららしいいたずらをされた覚えはない。洗濯場の使用人にも聞いてみたが、「あたしたちも警戒しているけれど、最近はなんともなさそうだよ」と教えてくれた。
いたずらが終わったのならそれはそれでいいが……もしジルの推測が当たっていたなら、今犯人はセラフィナにちまちまとした嫌がらせをせずとも、その体調を脅かす方法を知っているということになる。
(それは、幼稚な嫌がらせをされるより怖いわ……)
ノートを回収してラモンに渡さないと呪術を安全に解くことはできないし、当然犯人に治療費を全額負担させることもできない。もしかすると、今も少し離れたところから犯人はセラフィナのことを見ているのでは……と思うと、気が重くなる。
「……最近はいかがですか、お嬢様」
思わずため息をつくと、隣にいたトリスタンに尋ねられた。休憩時間に厨房からレモン水をもらいに行った帰り、同じく休憩中のトリスタンと会ったので立ち話をしているところだった。
「……体調面は、まだ様子見といったところよ」
「そうですか。薬などは飲んでいるのですか?」
「そういうのは処方されていないわ。まずはゆっくり休むのが一番ってことになっているわ」
ラモンは正確には医師ではないが、「基本的に、体力や免疫が落ちていると呪術の影響も出やすくなる」と言っていた。そのため、ジルの匂い欠乏症になるのを防ぐためにもよく食べよく眠り適度な運動をする方がよいと助言されている。
セラフィナの返事を聞いて、代わりにレモン水入りのピッチャーを持ってくれていたトリスタンは真剣な顔でうなずいた。
「まずは、その通りですね。……そういえばお嬢様、最近書庫に行かれているのですか?」
「今は第二書庫の司書が出張で閉館中だから、行っていないわ。……どうかしたの?」
「いえ、お嬢様が読書好きだということなので、この前読んで楽しかった本でもご紹介して、休憩中の楽しみにでもしていただけたらと思っておりまして」
トリスタンが言ったので、セラフィナは思わず前のめりになった。
「えっ、いい本があるの?」
「はい。俺はあまり読書をしないのですが……偶然第一書庫で見つけた本が、とてもおもしろくて。『英雄王の軌跡』という、ヴィクトル陛下の業績を物語風にしたためた話なのですが、ご存じですか?」
「タイトルだけは聞いたことがあるけれど、まだ読んだことはないわ」
五年前に革命を起こしたヴィクトル王の業績を記した書物は多くあり、それも伝記風だったり物語風だったり、いろいろな書き方がされている。中には子どもでも読みやすい言葉遣いや内容になった児童書バージョンもあるとか。
(陛下の業績を記した物語……おもしろそう!)
「それ、読みたいな。でも人気がありそうだし、借りるまで時間が掛かるかしら……?」
「そうでしょうね。しかし……実は俺も一度読んですごくおもしろかったので、自分で購入してしまったのです」
トリスタンは微笑み、ちょうどセラフィナの部屋の近くに来たのでピッチャーを返した。
「よろしければ今度……いえ、今晩にでも持ってきますよ。俺はもう一度読んで、何度も読み返せたらという気持ちで買ったので、お嬢様にお貸しできます」
「えっ、いいの? あなたがお給料で買ったものなのに?」
「当然です。……むしろたまには俺の方からお嬢様に贈り物でもせねばと思っていたくらいですからね」
周りには誰もいないはずだが念のために声を潜めてトリスタンが言ったので、セラフィナは目を見開いてから小さく笑った。
「……そんなの、気にしなくていいのよ。でも、貸してもらえるのならありがたく借りるわ」
「かしこまりました。ただ俺は今晩夜勤なので、お嬢様の部屋のポストに入れておきます」
「分かった。ゆっくり読ませてもらうわね」
セラフィナが言うと、トリスタンは嬉しそうに微笑んで帽子のつばを下げた。
ジルが城を離れて、三日目の夜。
(……まだ大丈夫……だと思うけれど……)
トリスタンが貸してくれた「英雄王の軌跡」にしおりを挟み、セラフィナは寝間着越しに自分の胸元に触れた。そこから感じられる拍動は、いつもよりも少し速い。
早ければ明日の朝、遅くとも明後日の朝にはジルは帰ってくるはずだ。「すぐに君に会いに行くから」と眼鏡越しでない真剣な灰色の目で誓ってくれたし、衣類や毛布なども快く貸してくれたが――それでも、そろそろセラフィナの体は呪術の影響によりジルの匂いを求めつつあった。
本をテーブルに置き、代わりに手にしたのは折りたたんだジルのシャツ。それに顔を埋めて深呼吸すると、ほんのりと甘い香りが漂ってきて胸の動悸が少しだけ収まる。
(……シャツも毛布も、洗って返さないと……)
さすがにこれらを洗濯場に持って行く勇気はない。ふう、と息を吐いて、これまでたたんだままだったシャツをなんとなく、広げてみた。
「……え? うわ、結構大きい……?」
シャツの肩のところを持って広げると、その大きさがよく分かった。ジルは細身に見えたが、彼のシャツはれっきとした男物だ。肩幅や胸回りも大きいし、丈もある。これをセラフィナが着れば、膝上くらいまですっぽり隠れてしまいそうだ。
――どくん、どくん、と、一度落ち着いたはずの心臓がまた急いでいる。それは、呪術の影響なのか……それとも、あの皮肉屋だが優しい友人の異性らしい部分を見つけてしまったからなのか。
「……ジル」
いそいそとシャツをたたみ、それをベッドサイドにおいてシーツの上に横たわる。
まずは彼が帰ってくるまで、自分の体がちゃんと保つことを祈るばかりだ。