13 勘違いしてはならない②
カウンターの向こうにはジルがいたが、少しだけ不機嫌そうな表情をしているような気がした。大きな眼鏡で顔のほとんどが覆われているが……なんとなく、そう思われた。
「こんにちは、お邪魔します」
「……いらっしゃい」
セラフィナが挨拶しても、ジルはある意味いつも通りだ。先ほどシメオンが文句を言っていたが、彼と衝突でもしたのだろうか。
(伝説の軍師様にネチネチネチネチ言えるなんて、ジルってすごいのかも……)
そんなことを考えながら、まずは仕事用の調べ物をすることにした。
そうして閉館時間が来たら、ジルが入り口の札をひっくり返して戻ってくる。
「……セラフィナ。君に謝らないといけないことがある」
いつもの席に座るなりジルが言ったので、本を読んでいたセラフィナは横を見た。
「謝る……? ジル、何かした?」
「した、ではなくて、これからする、だ。……実は明後日から三日ほど、城を離れることになった」
テーブルに頬杖をついて、ジルは「出張だ」と苦々しげに言った。
「地方の図書館へ急遽、視察に行かなければならなくなったんだ。普通こういうのは第一書庫の人間を駆り出すものだけど、どうしても僕が行かないといけないみたいで……」
「……明後日から、三日……」
ごくっとつばを呑む。
それは、つまり。
「三日――下手すれば四日近く、あなたに会えないのね……」
「……ごめん、本当にごめん。できるなら断りたかったけれど……」
「ううん、気にしないで。あなたのお仕事も大切なんだし、仕方のないことよ」
今にも土下座せんばかりのジルの肩を軽く叩き、セラフィナはなるべく優しい声かけをする。
「一応、ラモンさんにも言っておきましょう。それから……できれば、あなたの衣類を借りたいけれど」
「もちろんだ。なんなら毛布でも貸すし……そうだ。僕の部屋の鍵を渡しておこうか」
「ええっ!? そ、それは申し訳ないというか……」
「でも衣類や毛布だけより、部屋そのものの方が匂いは強いだろう。なんなら僕がいない間、部屋に居座ってくれてもいい」
「それはさすがにだめよ!」
ジルは平民出身だというからこのあたりの感覚も鈍いのかもしれないが……一応地方貴族の娘であるセラフィナからすると、異性の部屋にお邪魔するだけでなく本人不在の部屋に居座るなんてとんでもない話だ。トリスタンが聞けば、真っ青になって止めてくるだろう。
「あなたはもうちょっと、その辺の意識を強く持って! たとえば……ほら、私に見られたらまずいものとかがあるでしょう?」
「さすがに下着とかは見られたくないけれど、それ以外で別に恥じるようなものは持っていない」
ジルはけろっとしている。普通の成人男性なら多少なりとためらいが生じそうなものだが、ジルはずれているのかのんびりとしている。というより、本当にやましいものや見られて困るものがないのかもしれない。
(で、でも、男の人の部屋に居座るなんて……いくら治療目的でも、無理!)
「……ほら。あなたはよくっても、もし誰かに見られたらまずいでしょう! ええと、よく言うじゃない、お嫁に行けなくなるかもって!」
「……。…………それは、まずいな」
「でしょう!? だから、毛布だけで十分よ!」
やや物分かりがよくなった隙にたたみかけると、ジルは渋々ながらうなずいた。
「……分かったよ。でも、鍵は渡しておく。本当に困ったときは、中にあるものを持ち出してほしい」
「でも……」
「セラフィナ、これは下手すれば君の命にも関わることかもしれないんだ。生きるか死ぬかの状況になったときに、君が生き延びる方法がゼロになってはならない」
ここだけは譲れないとばかりに、ジルは強い口調で言った。
「万が一のときにも、生き延びる方法をゼロにしないため。……そう思って、受け取ってほしい。そうすれば僕もある程度安心して出られるから」
「……。……分かったわ」
ジルは気だるげに話すことが多いが、言うことは至極まとも――なことが多い。それに、セラフィナが今頃どうしているのか、自分のせいで苦しんでいるのかも……と思わずに安全に落ち着いて旅をしてくれるなら、セラフィナとしてもそちらの方がよかった。
すぐにジルは部屋に戻り、合い鍵を持ってきてくれた。
「じゃあ、これ。……なるべく早く帰ってくるけれど、くれぐれも気をつけてよ。何かあればラモンさんに相談に行って、できれば毎日でも研究所に行った方がいい」
「……ええ、そうするわ」
ジル本人が不在でも、匂いが染みついた衣類や毛布があればしばらくの間は持ちこたえられることは分かっている。念のため、ジルが帰る日は仕事を休みにしておくべきだろう。
真剣な様子でこちらを見るジルからは……やはり、甘くて落ち着くような匂いがした。まるで猫を誘うネコズキのように、セラフィナの本能を優しく刺激する香り。
(……ううん、これは呪術、呪術の影響)
ともすれば、「ずっとジルの側にいたい」と思ってしまいそうになるが……それは勘違いなのだと自分に言い聞かせて、セラフィナは本を開いた。