10 治療のために①
研究所で検査を受けた翌日から、セラフィナは仕事に復帰した。
「もう大丈夫なの?」
「ひとまず、経過観察ということになったわ。お仕事をしても大丈夫だとは言われたけれど、なるべく早く上がるようにするわ」
「うん、そうしなよ。……じゃ、あんたが休んでいた間の引き継ぎだけど……」
セラフィナが休みをもらっていた間、仕事は仲間たちの間でうまく回してくれていた。復帰したからにはその分働く必要があるため、セラフィナは気合いを入れて城の掃除をして、訪問客の案内をして、郵便物の整理をして、庭の水やりをした。
王城使用人はいわゆる雑用で、人手不足になった場所に回される。そのため、裁縫がすごく得意、字がとても上手、といった一芸特化型よりいろいろなことをまんべんなく行える人材が重宝されていた。
そして一日の仕事が終わるといったん部屋に戻って着替えをして、第二書庫の閉館時間十分ほど前の到着を狙って部屋を出た。
歩き慣れた道を進み、いつも通り人気のない第二書庫にお邪魔する。
「こんにちはー」
セラフィナが顔をのぞかせたとき、ジルは司書の席に座っていた。だが彼はセラフィナが挨拶をしてもちらりともこちらを見ず、下を向いて何かを黙って読んでいる様子だ。今はまだ開館時間で、セラフィナを特別扱いするわけにはいかない。
しばらくすると利用者の一人が貸し出し手続きをして、出て行った。するとジルは素早く立ち上がって書庫を出て、入り口の札を「閉館」に変えて戻ってきた。
「お待たせ。……いつもの席がいい? それとも、司書室に入るか?」
「いつもの席にしましょう」
司書室の方が落ち着けるだろうが、あそこは狭い。いくら治療目的の行為とはいえ、恋人同士でもない男女が閉鎖的な場所に長時間いるのはよろしくないだろう。
ジルはすんなりうなずくと、読みかけの本を抱えていつもの席に向かった。だがこれまでと違い、彼が座ったのはセラフィナの隣だ。彼は遠くのものはぼんやりとして見えるが近くのものは普通に見えるので、読書中は眼鏡を外している。
二人の距離は、拳二つ分ほど。少し肘を持ち上げればぶつかるほどの距離のところに、ジルの二の腕がある。
(……うん、これは治療行為。治療行為……)
いつも気だるげなジルだが、セラフィナとほとんど年の変わらない若い男だ。
セラフィナが普段からよく話をする異性は、ジルとトリスタンくらいだ。爽やかでなかなかの美形であるトリスタンと違い、ジルはあの眼鏡を掛けていることもありぱっとする容姿ではない。本人も。「見た目は、百点満点中四十点くらいかな」と自己評価をしたことがある。
だがなぜなのか、真剣に本を読む眼差しや節くれ立った指先でページをめくる所作に、思わず見入ってしまう。そして、丁寧に本の修理をしたり一冊一冊丁寧に本を書庫に返したりする手つきからは本への愛情が感じられて、そんな彼のことがとても好ましいと前々から思っていた。
それだけでなく、今はこの心が穏やかになるような匂いも――
「……あの、さ。無意識なんだろうけど……近いよ」
「えっ」
ジルのあきれたような声で、我に返った。気がついたらセラフィナはジルの方にずいっと身を寄せて、その肩口に寄りかかるような姿勢になり――ふんふんと首筋の匂いを嗅いでいた。
「ひっ……! ご、ごめんなさい! 私、また無意識のうちに……!」
「呪術のせいなのは分かっているから、そこまで必死に謝らなくていい。ただ……本当に無意識なんだな」
慌てて飛び退いたセラフィナを、ジルはやれやれと言わんばかりの目で見てくる。最初に彼に抱きついたときにはジルも顔を赤くして動揺していたが、今では人なつっこい犬に舐め回された程度だと思っているのかもしれない。
「匂いを嗅ぐな、とは言わない。むしろ、体調が悪くならないためには嗅いだ方がいいんだろう。……ただ、近づく前にできれば一言言ってほしい」
「うう……その、考えごとをしていたら注意散漫になって、本能に従ってしまうみたいなの……」
前、「ネコズキ」という名前の植物にじゃれつく猫を見たことがある。まるで酩酊したかのようにくねくねとすり寄っていたものだが――もしかすると今のセラフィナも、ネコズキに酔った猫と同じような状態なのかもしれない。
ジルは黙って本のページをめくってから、ふと顔を上げた。
「……もしあのノートを先に手にしたのが君だったら、この立場は逆になっていたんだよな」
「そ、そうね」
それは、セラフィナもぼんやり考えたことがある。
つまり……セラフィナが書庫に来ない日が続いたら、ジルが体調を崩す。そしてジルがセラフィナに抱きついて、匂いを嗅ぐと……。
(そ、それはまずい! いや、今も十分まずいけれど……なんかこう、ジル一人が痴漢扱いされるだけでは済まなくなるような……!)