1 地方貴族令嬢の憂鬱と楽しみ①
「……またかぁ」
よく晴れた空に、セラフィナの虚しい声が響いた。
彼女の手元にあるのは、ぐっしょりと湿った肌着。洗濯に出しておいて皆の分と一緒に干してもらったのだが、昼過ぎになって「またあんたのだけ濡れていて……」と知らせが入ったのだ。
昼休憩のついでに洗濯場に行った先にあったのは、午前中の陽気ですっかり乾いた同僚たちの肌着の中でただ一人だけぐてんとしている、自分の肌着。ご丁寧にただの水ではなくて泥水に浸してくれたようで、ベージュの布地がまだら模様になっていた。
(洗濯物へのいたずらは、今月に入って二度目……いや、三度目ね)
セラフィナは汚れた肌着を手に、洗濯物干し場を離れた。洗濯場主任の女性が申し訳なさそうな顔をしたので苦笑して首を振り、自室へ向かう。
セラフィナ・ラミレスは、フォルテシア王国の地方貴族であるラミレス家の娘だ。緩いウェーブの掛かった茶色の髪はきっちりと結ってバンダナの中に収め、のりのきいたお仕着せを正しく着こなしている。
王宮使用人の制服であるこの薄青色のワンピースは多くの女性たちの憧れで、セラフィナも十六歳で働き始めるようになってすぐは、うっかり引っかけて破いたりしたらいけないと神経質になったものだ。
母親譲りの紺碧の目はいつもなら快活に輝いているが、濡れた肌着を手にすれば元気なんて湧いてこない。
ここ半年ほど、セラフィナはこうしたちまちまとした嫌がらせを受けていた。私物がよくなくなってはあり得ない場所で発見され、衣類は泥水スープに浸される。人混みの中で背中を押されたりしたことも、何度もあった。
(使用人頭は、「あなたに何か原因があるんじゃないの?」って取り合ってくれないし……ものを壊されたり大きな怪我を負わされたりはしていないから、事件として訴えることもできないし……)
もちろん、こんな嫌がらせをされる心当たりはない。
セラフィナの容姿は「まあまあ可愛い」と言われれば十分なくらいだし、王宮使用人の中で突出した活躍をしているわけでもない。地方貴族の娘という身分も、同僚の中では中程度のものだ。
(相手も巧妙みたいで、一度も犯行現場を見たことがないし……。心当たりがない以上、我慢するしかないのかな……)
理不尽ないじめを受けて黙って泣き寝入りするタイプではないが、相手が姿を見せないし心当たりもないのだから、対処のしようがない。手間は掛かるが洗濯物は自分の部屋で干し、なくしたら困る私物はいつも身につけておくなどの自己防衛をするくらいだろう。
幸い、使用人仲間たちは皆同情的で、「犯人をとっちめようよ!」と言ってくれる者もいる。申し出はとてもありがたいが……万が一にでも嫌がらせの矛先が彼女らに向いてはならないため、気持ちだけ受け取っていた。
(……今日も行ってもいいかな?)
泥まみれの肌着を洗って部屋干しして、午後の仕事を終えたセラフィナは自室ではなくて城の庭の方に足を向けた。
若き国王・ヴィクトルが治めるこの城は開放的で、前庭には散策する一般市民の姿もある。圧政を敷いていた先代国王の時代は閉塞的だったそうだが、五年前の革命戦争に勝利して王位を手にしたヴィクトルは、「誰もが親しめる城であってほしい」ということで、城の門扉を大きく開いた。
城から追い出された不遇の王子だったヴィクトルが、「奇跡の聖女」「不敗の軍師」「百人斬りの剣士」と呼ばれる部下たちと共に新たな時代を切り拓いて、五年。フォルテシア王国は確実な成長を遂げていた。
夕日によって足下に長く黒い影が作り出される中、セラフィナが向かったのは前庭の近くにある古びた建物だ。本城や離宮のほとんどが白いレンガを積んだ箱形の建物であるのに対して、この建物はホールケーキのような丸い形をしていて天井が低い。壁はすっかり苔むしており、不気味な外観を呈している。
外観に反して、きしんだ音を立てて開いた扉の向こうはわりとすっきりした廊下だ。正面にあるドアの横の壁には、「第二書庫」という札が掛かっている。
「こんにちは、ジル。お邪魔してもいいかしら?」
第二書庫のドアを開けて、声を掛ける。同時に、少しつんとした匂いが漂ってきた。
王城には二種類の書庫がある。本城の入り口付近にある第一書庫には比較的新しい書物が配架されており、一般利用者の姿も多い。毎日何百冊も貸し出されていくため、司書が常に五人ほどいるそうだ。
それに比べてこちらの第二書庫に置かれている本は、どれも古いものばかり。基本的に第一書庫にあったものが古くなるとどんどん第二書庫に流れていくので、利用者も多いとは言えない。司書も一人のみで、日によっては来館者ゼロということもあるそうだ。
セラフィナが声を掛けると、司書室のドアが開いて一人の男が出てきた。彼はものすごく目が悪いので、分厚い眼鏡を掛けている。レンズが分厚くてしかもそこまで純度が高くないため、彼の目の形や今どこを見ているのかがいまいちよく分からなかった。
「……また来たの? 君も暇だね」
彼は大きなあくびをして、ぼさぼさの髪を掻いた。赤みの強い金髪はきちんと整えればつるつるのさらさらになるだろうが、適当に櫛を通して適当に結っているだけなのであちこちで毛先がはねている。
おそらく背筋をぴしっと伸ばせばかなりの高身長になるのだろうが、いつも猫背でしかもだぼっとしたキャラメル色のコートを着ているので、セラフィナとそれほど身長差が生じていない。全体的にもっさりとした雰囲気の、気だるげな男だった。
「ええ、暇よ。暇な自由時間を謳歌するためにここに来たのだから、いいでしょう?」
「……君も本当に、物好きだよね。本が読みたいなら第一書庫に行けばいいのに」
「古い本にもおもしろいものはあるし、あっちに行ったらジルに会えないもの」
セラフィナがそう言って鞄をテーブルに置くと、司書――ジルは大きな眼鏡のブリッジをくいっと指先で持ち上げた。あれは、何か気になることがあるときの彼の癖だ。
「ふぅん? ……さてはまた誰かからの嫌がらせを受けて、その愚痴を僕に吐きに来たとか?」
「正解。もしよかったら、聞いてくれる?」
「……仕方ないな。でも今ちょっと本の修理をしていて、それが終わってからでいいなら」
「もちろんよ。ありがとう、ジル」
セラフィナは背中を丸めて司書室に戻っていったジルを見送り、彼の手が空くまで読書をしようと古びた書架に向かった。
――セラフィナがジルと出会ったのは、二年ほど前のことだ。
この王城の隅にある書庫の存在はあまり知られていなくて、セラフィナは働き始めて二年目の十八歳のときになってようやく、この場所を知った。同僚からは「あんまりいい本はないし、司書は感じが悪いわよ」と言われていたのだが好奇心が勝り、緊張しつつ行ってみた。
感じの悪い司書とはどんな人だろうか、と思いながらドアを開いたセラフィナは――そこで言い合いをする三人の男女の姿を目にした。
どうやら、人気のないこの図書館を逢い引きの場にして書架の陰であんなことやこんなことをしていた男女がいたらしく、司書のジルが顔を真っ赤にして怒鳴っていた。
「二度と来るな! 出て行け! ついでにさっさと別れてしまえ!」とごもっともなことに私怨を混じらせて恋人たちを追い返したジルは、入り口でぽかんとするセラフィナを見てはっとして、ばつが悪そうな顔になった。
……そんなとんでもない出会いを果たしたのだが、セラフィナはすぐにこの書庫がお気に入りになった。
人気がなくて、静か。偏屈扱いされる司書のジルだが彼が本好きで真面目なことはすぐに分かったし、セラフィナが本を探しているときにはすぐに目当てのものを見つけてくれる。「この本、とてもおもしろかった」と言うと、まんざらでもなさそうな顔をする……そんな彼のいるこの場所は、とても居心地がよかった。
しばらくして、ジルの手が空いているときにはおしゃべりをするようになった。しゃべるのは専らセラフィナの方でジルは聞き手に回ることが多いが、今日の楽しかったことでも愚痴でも泣き言でも、ジルは静かに聞いてくれる。「また来たの」とあきれた顔をしつつも、帰るときには「またな」と言ってくれる。