8.
以来、幸いなことに、余とサラは短いながらに二人で過ごす機会をしばしば持った。時にはサラの話を聞き、時には太陽への質問と共に空を飛ぶことで。
時間を短くとどめていたのは、余の思うまま、好いた男のいるサラを付き合わせてはならぬという自制を働かせたが故。されど、地に降り立ち手を離すと、いつも残念そうにしているのが解せぬ。それほどまでに上空散歩を気に入ってもらえたのであろうか。
――余の胴を離れたサラより、こちらと同じに『もう少しこのままでいられたら』と願っている気配を感じる、などと思うのはあまりにも都合がよすぎるというもの。
家令からもメイド頭からも苦情が入らないのをいいことに、夜の庭園にサラがいれば余は読書よりもそちらを選んだ。無論、余を厭う気配があれば近付いたりはせぬが、最近では庭でカンテラを持ち佇むサラに、厭うどころかこちらを待つそぶりさえ見受けられる。
これはどうしたことだ、と自室にて思い悩んでいると、メイド頭のマリアに「いつまでもサラを待たせてどうします、不安にさせる前にさっさと行ってくださいませ!」などとどやされる始末である。
我が家の使用人たちはいったい余をなんだと思っておるのだ、と心の内で憤慨しつつ、余は合図代わりにがさりと葉を揺らした。
「クラウス様」
振り向いたサラが、月の光の如くふんわりと笑む。
歩道は整地されているとはいえ、屋敷の床とはやはり勝手が違う。特に、余と異なり夜目の利かぬサラは灯りがあってもやや歩きにくいと見え、その足の運びは常より幾分緩やかである。
手に提げたカンテラの灯りが、サラの輪郭を柔らかく縁取る。絵師であれば絵画にしたいと必ずや思うであろう横顔を、夜の闇に紛れて見つめた。
――薔薇の香りと、サラの『匂い』、その双方に酔いしれそうになり、余は気を紛らわせんと口を開く。
「今宵は半月であるが、これはこれで美しいな」
するとサラも、「はい。満月も半月も三日月も、それぞれ違っていて、そのどれも奇麗です」と答える。
「うむ」
「クラウス様はご覧になれませんが、朝日や夕焼けも奇麗なんですよ」
「一度見てみたいのだがな……」
「絶対駄目です!」
「わかっておる!」
本気で余を止めるサラに、こちらも思わずむきになって返す。そのやりとりが馬鹿馬鹿しくも楽しく、目が合うと二人して笑ってしまった。
その笑いの波がすっと引いた折、サラよりこう問われた。
「あの、クラウス様はどうしてその、こんな風に私たちを……」
言いにくそうに口ごもるサラに苦笑し、その後ろの言を引き取った。
「なぜ捕食の対象である人間を差別せず普通に扱うのか、ということだな」
余の言葉に、サラは小さく頷いた。
「まあ、余の気質が元々一族の中でも変わっているのであろうな。――そのせいだけではないが」
「それを、よかったらお聞かせくださいませんか?」
「かまわぬが、長くなってしまうぞ」
「大丈夫です、夜は始まったばかりだし、今夜はお休みで暇なんですもの」
そうおどけるサラに、予の口はするすると言葉を紡ぎ始めた。
「予の、礎を築いた人間がいる」
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リタというその人間の女は、たいそうな変わり者であった。余など、その足下にも及ばぬほどの。
母上が主を務める実家の屋敷にて、使用人らはみな一様に表情のなき顔にて静かに立ち働いていた。あやつりの術で感情を奪われ、使い勝手のいい生き人形――母上や妹が言うところの『木偶』にされていた故、笑顔も怒声も人間らは持ち合わせておらぬのが常であった。
リタは、他の使用人や主である余の母上、そして余の妹などの前では他の人間同様、術にて操られているがごとく木偶然としている一方、余と二人きりになると生来のはち切れんばかりの笑顔をいつも見せていた。
余は吸血鬼である故、日没前の屋外において一切の活動が出来ぬ。すると当然、物語に出てくる陽光とやらも直接この身に浴びたことはない。己には好奇心がある方だと自負してはいるが、『太陽の光に当たればたちまち塵と化す』という一族の禁忌をわざわざ犯す気にもならぬ。
リタは、余がおぼろげにしか知らぬその太陽というものをもし人間にしたならば、きっとこのような人物であろう、と思うにふさわしい存在であった。しかし。
「クラウス様、お茶はいかがですか?」
彼のものの余への問い掛けに対し、「もらう」と尊大かつ粗野に、いかにも吸血鬼らしい人間向けの態度をとろうものなら、たちまち太陽は北風もかくやといった厳しい顔つきになる。
「違いますよクラウス様、そこは『いただこう』と言うべきです」
「どちらでも同じだ」
「いいえ違います。身分の高い方には、その身分にふさわしい振る舞いが求められます。それは、冷静さであり判断力であり下の立場のものを正しく扱う能力であるということです。粗野なだけの言動が、人を惹きつけますか? 自分の振る舞い一つで立場を失いかねないものがいるという想像をしたことはおありですか? 大きな富や力は、時に人の運命さえも容易く左右してしまいます。それが正しければ何の問題もありませんけれど、間違っていたなら恐ろしいことです。ですから、クラウス様はそのお立場相応のなすべきことがあると私は思います。
――今お話ししたことは人間の貴族になぞらえたものですが、それはあなた方一族であっても人と同じ。私の言っていることが分かりますか?」
高圧的な物言いをするでも激高するでもなく、夜露がしんしんと花に降る、そんな静かさを持って、リタは未熟な余に言いきかせた。その言葉の内に打算の匂いは皆目見当たらず、真に余を思っていると存分に分かったが故、余は素直にそれを受け止めた。
「ああ、分かった。では”いただこう”」
正しき振る舞いをすればたちまち笑みを取り戻し、「よく出来ました! さあ、ご褒美にビスケットをもう一枚差し上げましょうね」と、リタは余を甘やかした。
「子ども扱いするでない」
「子どもじゃないですか。やーねえ」
しかめつらして見せたところでひるむどころか、からからと大きく笑い、リタは余の肩を気安く叩いた。そして、今度は春の空気の如くやさしく、どこにも角のない、ひたすら丸みを帯びた表情で余を見つめた。
「――いくら吸血鬼が長寿でも、子どもでいられるうちは、子どもでいいんですよ。わがまま言って、だだをこねて、拗ねて甘えていいんです」
「余は、今ぬしが言ったような子どもじみた真似などせぬ」
「してください、私はいつでも大歓迎ですよ」
そのようなことを言うものは、リタ以外にいなかった。否、いる筈もないのだ。
余は吸血鬼で、同じく吸血鬼の一族のものは血の結束や誇りはあれど、暑苦しい愛情など体のどこを探しても持ち得ぬ。使用人らは木偶の術を掛けられている故、感情をあらわにすることはないし、そもそも吸血鬼に対して絶大なる畏れを抱くのが普通だ。
余の部屋付きのメイドであったリタだけが、暑苦しきそれを与えた。
余の目を見て、諭し、叱り、呆れ、笑い、褒め称え、喜んだ。
故に、余は吸血鬼でありながら人間に近しき感情を得るに至ったと思われる。
まこと、奇異である。兎が虎を育てたかの如く珍奇なる事例であろう。されど、それを嫌悪したことはない。リタが余の部屋付きになった当初は、もやもやと居心地がよいやら悪いやら見当も付かぬ温度にひどく当惑したが、いつしか当たり前に受け止めるようになった。そして余の心の隅々まで抜かりなく温めたそれは、とうとう溶けぬ筈の氷を溶かしたのだった。
リタと余の間には断絶ではなく情愛が確かにあったと言えよう。
異なる種である。本来なら、ぽつんぽつんと離れた小島の如くの距離が大前提の生き物同士である。しかし本来あるべき分断の谷間を、リタは根気強く平らかにし、そこを愛情で満たした。
余のために。
そう気付いたのは、リタが逝去したずっと後のことである。