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7.

 極上の血には巡り会えぬまま、半年や、ひどいと三月といった短き眠りから余が目を覚ますたびに、サラは美しい娘へと変貌を遂げていた。――今は齢一六であると、吸血行為をやたらに後押しするルドルフが意味ありげに余へ伝えてきたり、館内の人間関係の掌握に並々ならぬ情熱を傾けているメイド頭のマリアが、興味津々に余とサラを観察してくるが、あれらが喜ぶような事柄は今のところ存在しておらぬ、と思う。


 サラを拾った数年前の冬のあの日、痩せこけガサガサだった頬は今やしっとりと輝き、枯れ草や麻袋の如くであった髪には天の川よりも見事な艶が生まれた。さらに、館で働いているうちに身に付いた立ち居振る舞いが、生来の美しさに優美さを付け加えてもいた。そのことを鼻に掛けてもおかしくはないほどの美貌の持ち主であるが、サラは決して驕ることなく、ひたすら仕事に精を出す日々である。


 そして、サラが本気で恋焦がれている証であり、余を狂おしく惑わせる『匂い』は少しも損なわれることなく、眠りにつくまで、また眠りから覚めればその瞬間から余を刺激し続けていた。

 それだけではない。時折彼のものは赤い頬と情熱的な目で、余を見つめてくる。それ自体には特段しかけもないというのに、余の心はなにがしかの術にでもかけられた如くに鼓動を速め、ひどく心が昂ってしまい――その都度『だがサラが好いているのは余ではない』という事実を思い出しては、墜落の勢いにてぐんとその高度を下げた。

『少女』と言うものは、これほどまでに吸血鬼を惑わす生き物なのであろうか。

 否。

 余を惑わすのは、ただ一人であった。


 その『ただ一人(サラ)』を数多いる使用人の中で特別扱いしてしまうことに、余は幾ばくかのためらいを感じた。だが冷静沈着な家令より『余りにも逸脱なさった場合には私どもから遠慮なく指摘いたしますので、それまではどうぞ存分に』と言われたこともあり、余は言葉や態度に極力出さぬようにしつつ、サラの動向を優先的に気に掛けるようになっていた。

 故に、サラが今、夜の庭園にて一人ため息を吐いていることにもすぐに気付いた次第である。


 余はこの屋敷中に探索の糸を巡らせている。火事や強盗などの異変に即座に気付けるためのものであり、仮に、敷地内を一人で歩く娘を付け狙う不埒な輩がいたとて見逃さぬためのものでもある。

 その糸の感度を、サラのもののみ高くしてあることも、決して余の暴走などではなく『うら若い娘ですから、気を付けすぎるくらいに気を付けていただく方が安心です』との家令のお墨付きであることは声を大にして言いたい。――そのようなことより、確かサラは今週は日没まで働き、夜は眠る勤務であった筈だが。

 ただ庭園での散策を楽しんでいるのなら邪魔はせぬが、気落ちしている様子がどうにも気にかかった故、本を閉じ、余も庭に出た。

 吸血鬼である余は足音を立てぬ。故に驚かせぬよう、背後から近付く際に茂った薔薇の葉を故意にがさりと揺らし、こちらの存在を知らしめた。振り向くサラの目が余の姿を捉え、柔らかく弧を描く。

「クラウス様」

「眠れぬのか」

「……はい」

 まるでいたずらが見つかった子どもの如く気まずそうに俯くサラ。余は、その様子に微笑ましい気持ちが抑えられぬ。誇り高き冷たい血の流れる我が身に、人間と同じ温かき血潮がめぐる心地となる。

 夜想曲の如く穏やかな初夏の風に身を撫でられつつ、「困ったことや、何か悩みでも抱えているのか」と口にすると、サラは途端に表情を硬くした。

「すまぬ、詰問するつもりではなかった。無理に話さんでもよい」と取りなすと、うつむいていた頭が持ち上がり「お話してもよいのですか」とこちらの覚悟を試す如くの口ぶりにて、余に対峙する。

「もちろんである」

 そう答えつつ、余は目の前の、剣のひとつも持たぬ少女に首を取られるほどの緊張を強いられた。

「……なぜ、私の血を吸われないのですか」

 サラは、落第の印を押された優等生の如く、傷付いた気配を濃く滲ませそう呟く。

「一五になった日も、一六になってからも、毎日待っていました。――でも、私には声を掛けられないままで、麓へ行ってしまわれる。私は今年一七になります。あの約束は、もう無効なのですか?」

「いや、」

「では、どうして」

 自ら望んで余に血を啜られんと身を摺り寄せてくる人間の女など存在せぬ筈だったのに、いったいなぜ、と軽く混乱しつつ、「サラ、落ち着け」と余は宥めにかかった。

「……ぬしは本当に、よく頑張っている。大人の庇護下に置かれるべき年齢で身内を失くしたにもかかわらず、毎日意欲的に働き、余の言葉をよすがに食事をきちんと採り、今や実に美味そうな血を有するまでになった」

「!」

「されど、ぬしは余が血を啜るにはまだちと若い。そう焦らずとも時期が来れば約束は果たされよう」

「……分かりました」

 有り体に言えば先送りしただけの余の言に、サラは未だ納得してはおらぬ、という言葉が大きく書いてある如くの不満顔であったが、傷付いた気配が立ち消えていたことに余は安堵した。


 本当であれば、余の言葉に縛られる必要などない、ぬしはぬしの思った通りに生きよ、余に感じている恩義よりも好いた男を大事にせよ、そう言ってきかせるのが正しき主の姿であろう。

 されど、永く生きているにもかかわらず、己の思い定めた『あるべき主』としての務めを果たせておらぬ余は、サラの幸せよりも己の希求を優先させてしまう。今しばらく、このままでいたいと。


 話はひと段落がついたものの、立ち去るには名残惜しい。ちらりと見やれば、余の願望がそう見せているのかあちらも同じ心持ちであるかの如くの表情をしていた。それが余の気のせいなどではないとよい、と思いつつ、「余の散歩に、ぬしも少し付き合うか」と持ちかけると、サラは暗がりでマッチを擦った如くに、ぱっと表情を明るくさせた。

「はい、クラウス様!」

「では、掴まれ」

「……失礼します」

 サラはそっと余のシャツを握る。それでも飛んだ際にサラを落とすような無様なことにはならぬが、なにやら面白くない。ぐいと引き寄せた肩を強く抱き、耳元に囁いた。

「もっとしっかり掴まれ。空を飛ぶのだぞ、シャツばかりをそう柔く握っていては危なかろう」

 余の言葉に、サラは抱擁のかたちを作るべく、そろそろと余の胴に腕を回した。その抱き心地と体温が、ひどく心地よい。

 サラは、余を拒まぬ。

 余に近づかれても、決して悲鳴など上げぬ。その上、情熱的に見つめ、嬉しそうに笑む。そのことが、どれほどまで余の心を乱れさせていることか。


 出来ることならば、ずっとこうしていたい。だがそう思うのは欲深というものであろう。

 人間は、余よりはるかに短い命故。

 分かっていても、希わずにはいられないのだ。――かなわぬ願いを抱き続ける吸血鬼は、かようなまでに愚かである。


「クラウス様、月が雲から顔を出しました。なんて奇麗……」

「うむ」

「満月の光がこんなに明るいだなんて、こちらに勤めてから知りました」

「そうか」

 村では太陽の出ている間だけ働き、夜は毎日ぐっすりと眠っていたのだろう。勤務の都合で睡眠をとるのが昼であったり夜であったりする今とは違って。

 余はしんと眠る村々の上を飛びつつ、腕の中のサラに「太陽には満ち欠けがないというのは本当か」と聞いた。

「はい。お日様は季節によってその光の強さは変わりますけれど、月のように細くなったり丸くなったりはしません」

「なるほど。永く生きていても、見ることがかなわぬものについて余はまだ疎いな……」

 そう独りごちると、楽しそうに笑う声が余の耳や胸の中をくすぐる。

「……時々、太陽について教えてもらえるか」

 余がそう申し出ると、「上空散歩のお供をさせていただけるのなら」とこちらが嬉しいばかりの返事が来た。

「では、商談成立だな」

「はい!」

 ボールを弾ませた如くの言葉に、このまま月までも飛んで行きたくなる。されど。

「――夜風に当たりすぎてもよくない。そろそろ降りるとしよう」

「……はい」

「そうしょげるな」

 サラも余と一緒にいたいのかと勘違いしてしまうではないか。


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