6.
ある日、サラが住んでいた村――屋敷に一番近い麓の村より少々離れている――から幾人かの人間がやってきた。
「ルドルフさまにおかれましては、ますますご健勝のことと……」
「前置きはよい、はじめよう」
「は。では、さっそく」
そう言うと、ぎこちない作り笑いの村人たちは、大きな瓶をごとりと卓上に置いた。
彼らがわざわざ辺鄙な山間へ足を運び、ここに住まう吸血鬼を訪ねて来るのには理由がある。
一帯の村人らには、余の、この吸血鬼の血が必要であるが故。
余の血は、水の中に数滴混ぜれば薬となる。過ぎればたちまち毒となる。
その間の微妙な頃合いで、『吸血鬼と同化せずとも、長らえる存在になり得る量』『吸血鬼と同化する存在になり得る量』もあるにはあるが、それを知らぬ人間が自分も吸血鬼にならんと一定以上の量を摂取し、死に至った事例は数多ある。毒にならぬようにするには、量の見極めがきわめて肝心だ。その加減は、余と一族のものにしか分からぬ。
それを踏まえた上で、年に一度、こうして取引をする。
余は自らの血を元にした水薬を、人間は持参した農作物や特産品を、それぞれ目の前の相手に渡し、差し出されたものを受け取るのだ。
余の血を提供するのは、余がこの地一帯の乙女の血を啜ることの条件――聞いたのが余以外の一族のものであれば、人間の分際で我らと対等に立った提案をしてくるとはなんとおこがましい、対価まで渡してやっているというのにと激昂した後、人間どもを根絶やしにするであろう、余は苦笑したにすぎぬが――でもある。
吸血の際には報酬を渡してはいるものの、いくら血を吸われる本人にそのような対価を渡していても、それだけでは麓のその他の住民らは納得しきれぬ。恐怖と服従を強いるという、一族の従来のやり方を余が行使せぬ以上、不満がくすぶり爆発する前にそれらを解消するための案が必要であるがどうしたものかと思案していたところ、人間の側からおそるおそるの態でこの交換条件を持ちかけられたのがこの取引のはじまりである。
麓の人間が余の血に目を付けたきっかけは、館で働く者たちがいずれも病気知らずであったからだと聞く。
不思議に思ったものが、使用人の誰かに尋ね、そして聞いたのであろう。
館で働く者に、余の血を薄めた薬を与えているということを。
そのことは疾風の如く村々を駆け抜け、『吸血鬼の血など飲むくらいなら死んだ方がましだ』といった嫌悪と恐怖を瞬く間に凌駕し、血薬はこの地方に長寿をもたらすこととなった。
されど、余の血を悪用されては堪らぬので、加工出来ぬよう目の前にて薄め、撹拌した状態で渡すことにしている。その際には余、ルドルフ、村長とその付き添いの村人が立ち会うのが常である。
「では、確かに」
今年もあっという間に取引は終わり、付き添いのものが鞄に血薬の瓶を収めると、村長らはほっとした顔をしてみせた。
――匙一杯の水薬を人間が口にすれば、その一年は健康に過ごせると言われておる。しかし。
「余の血は、流行病には効かぬのか」
サラの両親の例を思い出し、村長と村人たちに問えば、いずれの人間もさっと顔をこわばらせた。
小さき村だ。知らぬということはないであろう。
村長は『さて、そのようなものはおりましたかな』などととぼけることなく、擦り切れた膝当ての上にぎゅっと握った両の拳を乗せ、震える声で答えた。
「……いえ、そのようなことは。クラウス様の血は万病に効きますので」
「ではなぜサラの両親は死んだ?」
「……拒んだからです」
「何を」
「薬と引き換えに、娘を領主様に差し出せと言う命令に背いたからにございます」
なんと。
余は、その下劣な提案を寄越してきた領主をひどく軽蔑した。
その下劣な提案を己の命と引き換えに退けたサラの両親の魂の高潔さを心より称賛した。
その下劣な提案を退けられ、報復として薬を渡さなかった村長と村民の浅はかさをひどく憐れんだ。
「人間は……」
それに続く言葉が沢山在りすぎて、余は口を瞑んだ。
余の血の水薬を無事手にした人間たちは、長居することなく質素な馬車でそそくさと帰っていった。
それを、サラは二階の廊下の窓から箒片手に見送っていた。
眼下の馬車が出発し、門を出てもまだ目で追っているサラに、横に並んだ余が問う。
「……帰りたいか」
サラは余の問いに対し、静かに「いいえ」と答えた。
「あの者どもが憎いか」
「いいえ」
「……そうか」
余が息を殺す如くにそう答えると、じっと夜の闇を見つめていたサラがこちらを見上げてきた。その目は思いのほか力強い。余が圧倒されるほど。
「あそこで両親を亡くしましたから、悲しい気持ちはもちろんあります。それはきっと、自分の中から一生なくなりません。でも、私はクラウス様にこの人生を与えていただきました。ですから、村でのことは、――もういいのです」
その言葉には、確かに嘘偽りはなかった。されど、幾重にも塗り込めたかなしみにこわごわと包まれていた。
そのようなかなしみを内包してなお凛と立つサラは、とても美しかった。
思わず触れてしまいたくなるような、触れるのをためらわれるような、どちらとも言えぬ心持ちで、余はサラの横に立ち続けた。
廊下に灯す蝋燭の炎が、二人の影を延ばしたり縮めたりしながら揺らめくのを眺めつつ、「……なにかぬしの気が晴れるような言葉を掛けられればよいのだが、あいにく余にはそのような技量はないようだ」とようよう口にした。
するとサラは、まとっていた感情を温かきものへと変え、ふふ、と笑う。
「そのお気持ちだけで十分です」
「悲しみを、無理に消すことはない。いなくなった者への思慕は余の中にもある。それは忌むべき感情ではなく、己を己たる存在にしてくれる大切なものだ」
「……はい」
「剥き出しにして常に持ち歩くにはやや難儀である。が、時折は開いてみてもよかろう。誰かに話したければ、そうするがいい」
「お館さまに、話してもいいですか」
「無論」
「……では、そのときは、ぜひ」
「うむ」
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その後、余は妻から幾たりも話を聞いた。
今では、とうとう会わずじまいであった愛しきものの両親の相貌まで思い描けそうなほどである。
妻の悲しみは、底の抜けた砂時計にも似た我らの長き命の中で、決してなくなりはせぬ。時には笑顔を交え、時には涙を浮かべ、思いを吐露する。
この日も、『家族でピクニックに出たら雨に降られて散々な目に遭った』話を聞いた。
幾度聞いてもそのたびに心が温まる話に耳を傾ける余に、妻は「ありがとうございます」と礼を口にした。
「何をだ?」
「いつも、約束したとおり、こうして思い出話を聞いてくださって」
「……こちらこそ、ぬしの話を聞くことは、なにより楽しいのだから礼には及ばぬ」
「本当ですか?」
「余が、ぬしに嘘をついたことがあるか?」
「あります。――ずっと、お気持ちを隠されていたから、どれだけ不安だったか」
それについては申し開きのしようもない。
「……そのことについては、余の生涯を掛けて詫びる次第である」
「本当ですよ」
「本当だとも。……余の目の前にいる、愛しき者に誓って」
天敵に祈る代わりに、妻に生涯の愛を誓う。
これもまた、家令に「お二方はいつまでそのやりとりをなさるおつもりですか」と呆れられている事柄のひとつである。